これは、ゆきが体験したものをの物語にしたもの、、、
2004年11月5日にゆきは兵庫県のとある家庭にコウノトリで運ばれてきた。そこの家は、少し豪邸だった。ゆきの父は研究者で隣の市に行き研究をしている。母は専業主婦で家のことをしている。父方の祖父母は、祖父が畑仕事をしていて祖母がミシンや革細工など手先が器用なことをしている。一方母方の祖父母は、祖父が肺に疾患があり入退院を繰り返している。祖母はゆきが中学生の頃に認知症になっていて介護が必要になっている。
ゆきが幼稚園の頃、少し千葉に引っ越すことになった。千葉の幼稚園は制服がとてもかわいい制服だった。
それから一年がたち、、ゆきは年長さんになるとともに兵庫県に帰ってきた。兵庫に帰ってきてから、立地もよく交通の便にも困らず、徒歩10分圏内に幼稚園~大学まであるいいマンションに引っ越してきた。
ゆきが兵庫に引っ越してきた日のこと、、、
その日は大雨で、かみなりがなっていた。ちいさかったゆきは雷の音が怖く、引っ越してきた日に「ここはゆきの家じゃない」「お家に帰りたい」と母親に言ったらしい。
ゆきは発育が遅く歩き出すことや話始めることが人と比べてすごく遅かった。そこでゆきの両親は、ゆきをダンススクールと幼稚園でやっているスポーツクラブという体操教室に通わせた。ゆきは、体操とダンスのおかげで体が柔らかくなりブリッジ歩きやブリッジ回転、逆立ち、側転、三転倒立などできることがたくさん増えてきた。ダンスは年少のころから初めている。
時がたち、ゆきは幼稚園を卒園し小学一年生に、、、
小学一年生になると、ひらがなやカタカナを学ぶようになる。ゆきは容量が悪く何をするにも人より2倍いや3倍時間がかかってしまう。ひらがなを覚えるのも大変で必死に母親が教えてくれたそう。ゆきが小学校2年生になり掛け算、割り算を覚える必要があった。掛け算も割り算もゆきが覚えるのには一苦労だった。母は、将来割り算掛け算ができないと大変だと思い単語帳に掛け算を書き、旅行中で泣きながら掛け算を覚えていた、、
小学校4年生の時学校の規則で部活に入らないといけなくて私は手芸部に入った!小5の時は縄跳び部で画用紙に縄跳びの種目が書いてあって横にシールを張るところがあって飛べたらシールが貼れるという感じで楽しんでしていた。ゆきは体操で二十とびとハヤブサ飛びができるから学校の部活では部長にまで上り詰められた。小学6年生の時はなんと折り紙部で黙々と折り紙を折ってた。
小学校4年生の時に昼休みクラスの子と鬼ごっこをしていてあるちょっとした坂のところで鬼に追いかけられていてぱっつとうしろ振り返ったら、右足を「グネ」ってなって捻挫した。その日は木曜日で夕方にダンスのレッスンがある日だった。学校が終わった後、病院に行ったんだけど、、、いつも行っている病院が木曜日休みになっていて違う病院に行かないといけなくなった。そこの病院が階段しかなく母親が担いで階段を上らせてくれた。かなり一苦労。
小学校5年生の時の学校の体育でバスケットをしていた時に先生の足に引っかかって足を捻挫、、、これもまた木曜日ダンスの日ゆきは運がないのかいつもダンスのレッスンがある時!この日も階段がある病院しかあいてなくてそこに行った。この時のダンスの曲が「アイシテル」「LET’s GO」っていう曲で踊った。ゆきはとてもきれいで衣装も似合っていた!!発表会のDVDがあるのでいつでも見れるし大人にもなってみることができる。
時がたち、ゆきは中学生になった、、、
中学校は家から徒歩5分以内にあり、忘れ物があったら5分休みにとって帰ってこれるから楽!中学生の時は、化学環境部(理科部)にはいった。その部活では、セミの抜け殻の観察とか段ボールで作った空気砲をつくったり、アンモニアの噴水実験をしたり楽しい時間を過ごした。アンモニアのにおいを吸っていると自然と涙が出てきてはじめは大変だけど慣れてきたらそれが快感みたいになっちゃってすっきりしちゃった。
中学生になって初めて、「推し」というものができた。はじめはゆきの母親が見ていてそれをちらっと私が見たときに「この人かっこいい」って思ったのがきっかけだった。その推しは韓国のグループなんだけど2008年にデビューした「SHINee」(シャイニー)っていう5人グループ。SHINeeは光り輝く人っていう意味だそう。グループの中で一番好きになったのが「ジョンヒョン」っていう人だった。
中学生の時学校に行くのがとても辛かった、、
それでもゆきは無遅刻無欠席で学校に通った。ゆきが中学生の頃周りの男の子たちがにらんできたり自分のことをひそひそ話ていたし、友達がいなかった。いつも苦しくて教室にいるのが息苦しかった。だから中学一年生のとき勇気を出して保健室の先生に手紙を書いて渡した。それくらい辛くて毎日のように死にたいって思ってた。というか毎日、どうやったら死ねるか検索していた。一番つらかったのが、体育の時グループに分かれてするときがあってペアがなかなか見つからなく大変な思いをした。ゆきは、保健室の先生に手紙を書いたことで先生と話ができて交換日記みたいなことをした。そこに愚痴をsかいたり、楽しいことを書いたり、そのノートだけが私の居場所だった。
中学校生活で一番悲しかったこと、、、
2017年12月18日の夜にYahoo!ニュースで私の推しが遺体で発見された。ってニュースが流れてきた。その日は母親と一緒に大号泣。もう、何も考えれないし「嘘であってほしい」って心の底から思ってた。その日は一睡もできなくてでもその次の日は学校だったし、学校には行かないといけないから目が腫れた状態のゆきは学校に行った。次の日になって改めてニュースを見たら、「ジョンヒョンさんがなくなりました。」と公式から発表されてた。現実であってほしくなくて生き返ってほしいってずっと思ってた。愛してた人がなくなるなんて、、、この日からゆきは心の中に穴がぽっかり空いたようになった。何に関してもやる気が起きなく、後追いを考えてた。でも、母親をこれ以上悲しませたくないと思い、踏みとどまった。
SHINeeは解散するか、という話になったけど4人でもするって決めてメンバーがなくなった悲しみもあったと思うのに次の年に4人だけでコンサートをした。4人でステージに立つ姿はとても悲しく、メンバーやファンの人たちも号泣していた。
時がたち、ゆきは高校生になった、、、
ゆきは、中学校の頃男の子が苦手だったこともあり私学の女子高に受験し合格した。高校では、友達がたくさんでき部活や勉強いろいろなことを頑張った。中学校の時の悲しみもあり、ゆきは人前で話すことが苦手だったため生徒会に入りなんと副会長まで立候補した。また、高校には茶道・華道部があり部活でも部長を務め忙しい毎日を過ごしていた。
高校一年生の頃は、推しのこともあり軽度の鬱になってしまっていため、落ち込んでいたり死んでいなくなってしまいたいと考えていたこともあった。そう思った時は、「推しの分までいきるんだ」って思いながら頑張っていました。
高校二年生になると生徒会活動も活発になってきて忙しくしていたから大変だった。充実した高校二年生をゆきは過ごした。
高校三年生になり、進学や卒業制作などに力を入れてきて私自身もエスカレーター式で上がれる大学に進学することを決めました。そこの大学も女子大学で内部進学だったので面接だけで進学ができるところだった。
もちろん高校生活の中で何回も、SHINeeのコンサートに行ったりメンバーの中でダンスが上手だったテミンに魅了され推し始めてソロコンまで行く。ジョンヒョンがいなくなった悲しみはまだまだ消えないけど、その分生きようと思うと前向きになることができた。
時がたち、ゆきは大学生に!!!
大学では、新しくできた新校舎がとてもきれいで高校の時にできた後輩と一緒に学園生活を送っている、、、
最後に、、、
見ていただきありがとうございました。ゆきという名前は仮名ですが主がすべて感じたことなどを書いてみました。
私自身本当に、SHINeeのことが大好きで母と一緒にいつもコンサート行かせていただいています。SHINeeがいてくれたから、いま自分があるしSHINeeは自分の人生に希望の光を与えてくれた方たちだと思っています。本当に尊敬しています。言葉じゃあまり伝わらないけど、私はSHINeeのメンバー一人一人が幸せでいてくれたら私自身も幸せです。この記事が本人たちには伝わらなくても、いろいろな人に見ていただけるとありがたいです。SHINeeのメンバー勢員大好きです。本当にありがとういつまでも応援しています✨
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