ユカリは魔法少女の変身をただ解いた。魔導書の力が織り上げた神秘の布が空中に溶けるように消え去る。するとその体が全て深奥に沈んだ。一か八かだったがユカリの目論見が成功したのだった。魔法少女の仮初の姿に隠されていた全身は、魔法少女に変身している間に、もはや心臓を中心に広がっていた深奥の穴に完全に呑み込まれていたのだ。
そしてベルニージュの懸念は的を射ていた。再び、初めて深奥を訪れた時のように世界が始まる前の果てしない暗黒に包まれた。それはユカリに、ベルニージュが幾つか説明してくれた仮説の一つを想起させる。
曰くユカリの胸郭の内に在るべき心臓の在処は、現世から幽世へと伸びる生者の魂の一端すら届かない深い深い虚無、水面に浮かぶ肉体から切り離された魂がたどり着く水底。深い方向の極圏へと至っている。かもしれない。
ユカリは冷静にベルニージュの助言を思い出す。
まず冷静でいること。意志と想像力が全てを決定する魂の世界では何よりも重要なことだ。
死んだのではない、と強く意識すること。肉体から魂が切り離されたのではなく、肉体ごと魂の領域に入ってしまっただけのことなのだ、と。
そうして蝶を探すこと。あれ!? 蝶がない!? どうして!? ユカリは冷静さを欠く。
暴れ馬の如き混乱と恐怖を何とか御して、しばらくしてようやく原因に気がついた。魔法少女の変身を解いたから、この地に蟠る呪いに塗れながら深奥に沈みこんだのだ。ジニが戻って来れない理由にも繋がる。言うなれば関係性を断ち切る呪い、孤立する呪いだ。
ともかくまずは体、魂だ。決して失われたわけではない。深奥の各層に引き延ばされているのであろう魂を手繰り寄せるように、自身の恒常的な総体を想像力で構築する。問題なく成功する。
ふと気になって深奥における自身の体、魂を眺める。前回は魔法少女に変身していても、ラミスカとしての自身の姿と調和しているように見えた。今回もほぼ同様の様子だったが、若干ラミスカ濃いめにも思える。
ユカリの魂は【笑みを浮かべ】、魔法少女に変身し、再び自身を眺める。やはりあまり変わらない。が、蝶は、人々との縁や関係性は戻ってきた。カーサの虹色の鱗の蝶もすぐに見つかる。
最後にベルニージュに託された、研究のための深奥観察の試みが頭をよぎったが、そこまでの余裕はない。もしかしたら冥府の境界に接しているのかもしれないという想像が頭の隅をよぎる。何せ先ほどからずっとアギムユドル市の瓦礫の塔の内部を想像しているが、ユカリは一向に感じ取ることができないでいるのだ。
それはつまりアギムユドル市や瓦礫の塔、否、もっと抽象的な建築や空間等の概念すら及ばない宇宙の根幹まで沈んでしまっているのかもしれない、ということだ。
その時、ふと水の滴るような音が聞こえた。湿った匂いと泥のような味も感じた。前後左右上下とは別の方向から濡れたような感触を得た。ユカリの直感が、打ち鳴らされる警鐘の轟くが如く警告を発する。すぐにここから離れなくてはならない。あとは視てしまえば終わりだ、と。
ユカリはすばやく虹色の蝶に両手を伸ばし、カーサとの距離を縮める。
上手くいく。まるで世界で最後の夜が明け染めるように、計り知れない暗黒がユカリの背後へと無限に遠ざかっていき、大陸一堅固な王都アギムユドル市の中心、シシュミス教団の施設瓦礫の塔の中心の工房、その魂の内部へと帰還する。
カーサは元々少しだけ深奥に沈んでいるので、ユカリは深奥の浅瀬へと戻って来たのだった。城壁だった廃材で作られながらも比較的秩序を保った部屋で、しかし蜘蛛の巣の装飾や調度品、形状の複雑極まる硝子の器具が雑然としたハーミュラーの工房だ。
自身が横たわって磔にされていた場所に、今は幽霊のように立っている。ゼレタの周辺のように、街が切り取られて孤立している様子もない。それでも、壁に囲まれていても、かの大いなる門の存在を、その輝きを近くにあるかのように感じる。
さっきの今で既にハーミュラーの姿はない。突然姿を消したユカリを警戒してのことだろうか。それとも深奥特有の時間感覚のせいで思ったよりも時間をかけてしまったのだろうか。いずれにせよユカリにとってはエイカとカーサを助けるのに好都合だ。深奥に潜れたのでジニを探すことも出来る。
それに、誰もが孤立しているこの土地で信仰を集約するのは流浪の民から徴税するのと同じくらい難しそうだが、それ故に現在の信仰対象が何なのかをユカリは推察できた。
エイカの寝ていた辺りには白い影が横たわっているように見える。ゼレタの言っていた幽霊とはこのことだろうか。つまり克服の祝福を授かった者は魂が何かしら変質してしまうのだ。
一方ユカリを挟んで反対側には虹色の蛇が真っすぐに伸ばされている。
「カーサさんの魂の姿はとても派手ですね」
「ユカリか? 姿が消えたのに声だけが聞こえる」
「少し待ってくださいね」
ユカリはカーサの隣に屈みこみ、その鱗に覆われた手を伸ばす。が、位相が僅かにずれているから手に触れられない。次にユカリは霊感を頼りに少し深い方向から浅い方向へ手を伸ばし、カーサの胴体を掴む。そして前にエイカを連れてきたように引っ張り込むと、カーサをユカリのいる深度に沈め、拘束から抜け出させる。
「どうやったんだ?」
「深奥のさらに深いところへご招待したんです」
「なるほど。幽霊になるようなものとは聞いていたが。こういうことか。まあ、元々幽霊のような状態だったんだが。今や俺は現世に物質として存在しないんだな。不思議な感じだ。次はエイカだな。どうして俺を先に引き寄せたんだ?」
「二人きりだと気まずいので」
ユカリは深く眠るエイカの胴体を抱えるようにして引っ張り込む。途端にエイカの全肉体が魂へと位相を変えるが、様子がおかしい。魂の姿は光り輝くはずなのに、今は真っ黒な影になっていた。それはまさにこの街で襲い掛かってきた克服者の変身した姿だ。魔法少女としてエイカに触れたが、レモニカの呪いのように一時的に元の姿を取り戻すことさえできないようだ。
するとエイカは覚醒し、「あ」と呟いて押し黙り、気まずそうに視線を逸らす。
「言うべきことがあるんじゃないですか?」とユカリは言葉少なに責める。
「勝手なことしてごめんなさい」と影のエイカは素直に謝る。
「どちらが母親か分からないな」とカーサがありふれた皮肉を呟く。
「私が母親だよ」とエイカは拗ねる。「というか、カーサ? とんでもなく派手だね」
「それより、なんでこんな所に来たんですか? 自分がハーミュラーに何をされたか分かってるんですか?」
克服の祝福の儀式が成功したのは明らかだ。
「何をされたの?」とエイカは首を傾げた。
「え!? 分かってないんですか!? 自分の姿を見てください!」
エイカは言われるがままに自身の魂を眺める。「何これ!? どうなってるの!?」
「どうなっているのかは分かりませんが、克服の祝福の儀式で克服者にされてしまったんです」
「でも聞いてたのと違うね」とエイカは思いのほか落ち着いている。
「その土地の呪いによって違うんです、たぶん。呪いを克服した者、だろうから。この土地で言えば孤立する呪い、だと思います、たぶん」
「曖昧だね」
ユカリはむっとしてはっきりと言い返す。
「エイカだって分かんないでしょ。それより痛みとかはないんですか?」
エイカは腕や足を確かめるように動かす。魂がそれをすることに意味があるのかも分からない。
「特に問題はないね。見た目以外は。あと攻撃衝動だっけ? も、ない。孤立する呪いを克服ってことは、孤立しないってこと?」
「はい。ここに来るまでに同じような克服者に襲撃されたんですが、深奥を自在に移動できるみたいでした」
「へえ、便利だね」
ユカリは眉を顰める。
「能天気なのはともかく、まさかわざと克服者になるためにここに来たんですか?」
「へえ?」とエイカは変な声を出す。本当に予想外の問いだった様子だ。「そんなわけないでしょ? ここでそんな儀式をしていることも知らなかったのに。……ああ、そういうこと。私が劣等感からこの力を手に入れようとしたんだって思ったんだ?」
ユカリは沈黙で答える。そう思ったのは事実だ。
「まあ、いいけどね。劣等感があったのは事実だし。でも他人に与えられた力で劣等感は拭えない。これは経験則ね。そんなのカーサに代わりに魔法を使ってもらうのと同じだよ」カーサがエイカの体を這い上る。「もちろんカーサに助けられてきたことには大いに感謝しているけど」
「これからも感謝し続けるがいい」と虹色のカーサは尊大にのたまう。「俺はお前の手足のように働くよ。お前が俺の手足のように働いてくれたようにな」
エイカはカーサの蛇冗句を聞き流して言う。「ところで、ユカリと二人で来たの?」
「いや、ジニもだ。ジニは孤立の呪いに飲み込まれてしまってな。おそらく深奥のどこかにいる。まずジニに会うのが先決だな」
「ええ!? 義母さんが呪われたの!?」エイカはとても嬉しそうだ。「これは揶揄い甲斐があるね!」
悪戯を企てている場合ではない。次はジニに再会しなくてはならない。
ジニの蝶を見つけようとした折も折、「あたしだって無敵じゃないのさ」と余裕ぶってジニが登場する。「というかエイカこそ呪われてるようなもんじゃないか! それ克服者だろう!? ひとを揶揄ってる場合かい!?」
あいかわらず仮初の若々しい少女の姿に身を包んだ義母にして義祖母ジニはまるで何事もなかったかのように微笑んでいる。
「義母さん!」内心では義母を助けに行こうと意気込んでいたユカリは特に驚く。「どうして義母さんの方からこっちに来れたんですか?」
ユカリは首を捻る。孤立の呪いを魔導書なしで克服したというのだろうか。
「二頭、蝶が現れたんだよ。あんたたちの蝶だね。初めはエイカの蝶が見えたけど、克服者になっていたせいだろう、確信が持てなかったんだよ」
さもありなん。今、克服者となったエイカは誰との関係を失うこともない。当然ながら縁とは双方向のものだろう。
「なるほど。関係性を断ち切る呪いを克服したなら、逆側からも繋がりが見えるんですね。ともかく!」ユカリはジニとエイカを見比べる。「色々としてやられましたが無事に全員揃いました。次は――」
「反撃だね!」とエイカ。
「魔導書だよ」とジニ。
「魔導書ですね」とユカリ。「しかしどうなんでしょうね。魔導書を得るためには信仰対象にならなくてはいけなくて、これまでは解呪がそのための見世物になった訳ですけど、すぐに元に戻されてしまいます」
「元に戻されても魔導書は失わないんだろう? いいじゃないか」
「そこがむしろ違和感があるんです。今までの魔導書は、まあ共通点は少ないんですけど、もう少し条件に対して厳格だったように思うんです。今回の魔導書で言えば最も信仰を集めている対象に魔導書を与える以上、それが別の対象に移行した場合剥奪されるはずなんですよね」
「でもこれに魔導書の気配とやらを感じるんだろう?」ジニはユカリが提げる紫水晶の首飾りを指さす。「そっちも疑うのかい?」
「それは、そうなんですけど」ユカリもまた何が正しいか分かったわけではない。
「分かんないなら行動あるのみだよ」とエイカがユカリを励ます。「とりあえずは今まで通りやってみればいいんじゃない? 問題なく魔導書が手に入ればそれでいいし、手に入らなくても何か足掛かりが得られるかもよ」
「そうですね」不本意ながらユカリはエイカに励まされた。「まずは今の信仰対象のところへ行きましょう」
「分かったのかい? 何が信仰されているのか?」ジニの驚いている様子を見てユカリは得意になる。
「ええ、やっぱり『死霊も通さぬ堅き門』だったんです」何か言いたげなジニにユカリは先んじる。「ええ、確かに合掌茸は生えていませんでした。信仰されているのはこの深奥の『死霊も通さぬ堅き門』です!」
ユカリは大仰に『死霊も通さぬ堅き門』の方向を指さす。壁に隠れて見えないが。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!