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「――お疲れさまでした」
かちり、とおちょこを合わせると、虹子は笑みをこぼした。「ああ……なんか、やっと肩の荷が下りた気分……」
テーブルのうえには、大好きな日本酒以外に、コンビニで買ったおでんや酒の肴が並んでいる。石田はこのために、浅漬けなども用意してくれていた。
浅漬けは、手作りのものが好みだ。白菜を刻んで浅漬けの素に漬けておくだけで、素晴らしく美味しい漬物が出来上がる。彩りのために、小さく刻んだ人参やかぶ、大根も入れたり。
かぶの歯ごたえがたまらない、と思いながら虹子は咀嚼する。「清太郎さんの作ってくれたこれ、本当に美味しい……」
午後十一時。子どもたちは既に部屋で寝ている時間帯だ。尤も、息子の智樹は部屋でひとり悩んでいるかもしれないが。もし、彼の悩みが今後も続くようであれば、親としてケアしてやりたいと思う。
「ぼくがしたのは、野菜を刻んで漬け込んだだけなんだけどね……」言って石田は箸を伸ばす。「うん。美味しい。自分で作ると全然味が違うんだね」
「……子どもたち、どんな様子かしら」
「明るくしてるけど、晴子ちゃんは、ショックなんだろうね。当たり障りのない話題を選んでいるけれど、智樹くんと目を合わせようとはしないね。
一方の智樹くんも、そこのところを分かっているのか、踏み込もうとしない感じで……見ているこっちがじれじれするね……」
思い切って虹子は打ち明けた。「もし、あのふたりが、互いに特別な感情を抱いていたとしたら、清太郎さんは、どう思う?」
「……恋愛って磁力が惹かれ合うようなものだからさ。止められない……とは思うよ。世間的にはインモラルな行動かもしれないけれど、そのことは当人たちが一番よく分かってるだろうからさ……。
もし、みんながぼくを家族として受け入れてくれるというのなら、ぼくは、理解者になりたいと思うね。誰にも打ち明けられない悩みを抱え込むのは苦しいよそりゃ。だからね、一緒にいて、共感してやる、味方でありたいなあと、思う」
「確かに仲のよいきょうだいではあったけど」と虹子は二杯目の日本酒を口にし、「でも……まさか。あんなことになるだなんて、思いもしなかった……いや、わたしは、分かっていてチャンスを与えたのかもしれない。智樹に、想いを打ち明けるチャンスを……。親失格ね……」
「仮にそのとき虹ちゃんがチャンスを作らなかったとしても、どこかのタイミングで智樹くんは、自分の想いを打ち明けたんじゃないかな……。彼、晴子ちゃんのことは、真剣だから」
「わたしという母親に、彼氏が出来るのがいやで、裏工作をしたくらいなのにね」
小さな皮肉を言えば、石田が、並びのよい歯を見せて、はははと笑う。「そういや……そんなこともあったね。もう、二週間以上も経過しているんだ……仕事をしていると、日々があっという間に過ぎていくよね。
小学生の頃は、毎日が退屈で長くて仕方がなかったのに。二十歳を超えた辺りから、時間て加速するよね」
「……子どもが生まれてからは特にね。気がついたら正月が来て、年末が来て、入学式卒業式に追われている……という感じよ」
「子どもたちは、ぼくに懐いてくれていて、とても、嬉しいよ……。
この年になって、中学生の子どもが出来るなんて、思いもしなかったから。人生、なにが起こるのかなんて分からないよね」
先週と今週末、子どもたちのケアを石田に任せた。石田のほうが主張したのだ。――好きなひとが大変なときに、のんびりなんかしていられないよ。ぼくに出来ることがあれば、させてちょうだい。
子どもたちから聞いた限りでは、仲良く三人で夕食を作ったり、テレビを見たりと。本当の家族のように、過ごしたのだ。
智樹は、複雑な感情を抱いていたはずだ。打ち解けてくれた智樹と晴子、そして、呼応する石田の誠意を、こころからありがたいと虹子は思っている。
虹子は、ふと、卓上カレンダーを見た。「智樹が旅立つまで、もう、二週間を切ったのね。
ついこのあいだまで、よちよち歩きの赤ん坊だったのに……。
気弱で、自分のことを上手く主張出来ない、頭でっかちの子どもだったのに……。
子どもは、いずれ、巣立っていくのね。
そのときが、こんなに早く訪れるだなんて、わたし、想像だにしなかったのに……」
アルコールも手伝い、なんだか涙腺が緩くなる。
「親なら、息子の成長を喜ぶべきだって思うのに……複雑ね。もし、あの子が明日急に、赤ん坊に戻っていたとしても、わたし、喜んで彼の世話をするわ……」
すると石田が部屋を見回し、「――ぼく、智樹くんと入れ違いで、ここに、住もうかな……」
「……なに言ってるの?」思わぬ提案に、虹子は頓狂な声を出す。「え……でも、わたしたち、まだ、そんな関係じゃ……」
「智樹くんや勝彦さんのことできみは学習しただろ?」と石田は、「人間、いつなにがあるかなんて、誰にも分からないんだ。だったら、一日一日後悔しないように、他人を傷つけたり、迷惑をかけない場合において限定で、自分の素直な想いに従って、生きていきたいと思う。
……虹ちゃん。正直ね。ぼく……」
まっすぐ、射抜くような石田の視線に、絡めとられるのを感じる。自分という、女の器が。
「元旦那さんのところに行くきみを、どんな気持ちで見守っていたと思う? ――喘息になったのが自分だったらよかったな、って思ったくらいだよ……いっときであれ、きみのことを独り占め出来たのだから」
「清太郎さん……わたし」もう、自分の気持ちは、誤魔化したくなかった。「わたし、……もう、清太郎さんのことしか考えたくない。勿論、子どもたちのことは大切だし、子どもたち第一なんだけれど。でも――あなたを愛しているという気持ちに、もう、蓋なんかしたくないの……!」
「虹ちゃん」
立ち上がり、互いの体温を確かめあう。勝手が分かっているのだろう、石田は、虹子を姫抱きにし、虹子の寝室へと運んだ。
石田をからだのなかに受け入れると、ひびわれていた自分の世界が、溶かしだされていくのを感じる。石田は――熱かった。男のからだは、こんなにも熱かったのかと思えるほどに。
石田に組み敷かれ、石田の情欲を受け止めると、自分はこのために生まれてきたのかと思えるような感動が待っていた。
虹子の涙を吸い上げる石田は、どこまでもやさしかった。
「――愛している。虹ちゃん……」
夜が明けるまでふたりは、互いの想いを確かめ合った。
「――虹ちゃん。おはよ」
視界が暗転したと思ったら、直後、朝が訪れていた。それは、気配で分かる。窓の外が明るい、朝独特の空気に包まれ、虹子は目を覚ました。
目をぱちくりとさせる虹子に石田は笑い、
「……そろそろ子どもたちが起きてくる時間かもだけど。流石に、その格好は、マズいんじゃないかと……思ってね」
言われて虹子は、自分が一糸まとわぬ姿のまま、ベッドに入り込んでいたことに気づいた。
「……ああもう」
石田のほうは、既に、昨日の服装に着替えている。テレセンは比較的服装には寛容で、よって石田は、ポロシャツにVネックカーディガン、それからチノパンツというスタイルだ。
いつ外に出てもおかしくないというスタイルを石田が貫く一方で、自分といったら……。
石田が、虹子の、脱ぎ捨てられた衣類を手渡し、
「ぼくは、先に行ってるよ。朝ごはん作っておくから、ゆっくりおいで……」
掛け布団を顔まであげて、虹子は、顔を真っ赤にして答えた。
「……分かりました。ありがとう」
すると、大股で石田はそんな虹子のほうへと歩み寄ると、
「……昨日の夜は、激しかったね」
耳元に囁かれるものだから、虹子はたまらない気持ちになる。「んも……う。それ、言わないで……!」
声を立てて笑い、石田は寝室の外へと消えていった。
虹子は、自分の肌に触れてみる。そこは――石田に愛しこまれたそこは、愛という養分を与えられ、細胞のひとつひとつが歓喜していた。
最後にセックスをしたのは、いつだろう――智樹を授かった直後、といえば、もう、十三年も前の話なのだ。
愛を知らないまま、人生を終えるのだろうと思い込んでいた。
虹子にとって、石田は、突然目の前に現れた薔薇の花だった。
あまりにも、鮮烈で、あまりにも濃密――。
すこしでも肌に触れると、石田との濃厚な行為を思い返し、おかしな気持ちになってしまいそうだったので、性的な感情を取り外すよう意識しつつ、淡々と着替えを行った。
洗面所に行き、自分の顔を見る――と、いままでとはなにかが違って見えた。愛を覚えた、女の顔がそこにはあった。
たった一晩のセックスが人生を変えることがあるのだ。愛の威力に、虹子は慄くばかりである。
これではもう――あの子たちを、叱る権利などない。
愛する者を前に、感情を抑え込むほうが、無茶だというものだ。
久しぶりのみずみずしい愛に貫かれ、愛情の構造を理解した虹子は、他の誰がなんといおうとも、彼らの理解者であろうと、こころに決めた。
*