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面談室は、外界から隔絶された静寂の中にあった。窓のない密室。天井から吊るされた古いランプが、煤けたオレンジ色の光を頼りなげに落としている。古びた紙の匂いと、アスモデウスから漂う甘い花の蜜のような香りが混ざり合い、部屋の空気は密度を増していた。
クレアはパイプ椅子に腰を下ろし、正面のアスモデウスを見つめていた。
「ようこそ、クレア。今日から私が、あなたの“担当”よ」
アスモデウスは、吸い込まれるような笑みを浮かべた。緩く波打つ黒髪が、彼女が動くたびに肩から滑り落ちる。
「光栄に思うわ。あなたみたいに美しい子が私を管理してくれるなんて。……ねえ、緊張してる?」
「……少しだけ」
「ふふ、いいのよ。私はあなたを傷つけたりしない。けれど――」
アスモデウスは、座ったまま音もなく身を乗り出した。
テーブルに置かれたクレアの手のすぐそばまで、彼女のしなやかな指先が伸びる。触れそうで触れない距離。その指先から、微かな熱が伝わってくる。
「……ひとつだけ、理解しておいて。異質の“担当”になるということは、ただの世話役になることじゃない。私たちの物語を、あなたの人生に無理やり書き加えるということよ」
アスの瞳が、クレアの瞳の奥を暴くように細められた。
「私たちのような“壊れた物語”を扱うのなら、いつかあなたも壊れるわよ。どれだけ心を無にしようとしても、ここにいる以上、必ず何かが刻まれる。……私たちが、そうやって誰かの人生を奪って生まれてきたようにね」
その言葉には、自嘲と、そして確かな警告が混ざっていた。
しかし、クレアは動じなかった。雪のような白髪を揺らすこともなく、風景を眺めるような瞳でアスモデウスを見つめ返している。
「……あなたの瞳。まるで、何も映さないみたいね」
「……よく言われます」
「でも、それでいいの? 何も感じないまま、この監獄のような場所で死んでいくつもり?」
アスモデウスの声が、湿り気を帯びて低くなる。
「あなたは……昔の知人に、とてもよく似ているわ。その空虚な美しさまで含めてね。だからかしら。どうしても、あなたに私を刻み込みたくなってしまう」
彼女の手が、今度は迷いなくクレアの手の甲に重ねられた。人形とは思えないほど、その掌は柔らかく、そして熱かった。
「約束して、クレア。私が壊れるときは、あなたも一緒に壊れて。それが、私の“担当”になった者の義務よ」
熱に浮かされたような言葉が、クレアの耳元を撫でる。
クレアが何かを答えようとした、その瞬間だった。
外の廊下で、何かが硬いものを砕くような、凄まじい破壊音が響いた。
「……?」
クレアが弾かれたように扉を振り返る。
アスモデウスの表情から瞬時に艶っぽさが消え、氷のような鋭さが宿った。
「……あら。せっかくのいいところを、誰かしら」
直後、世界から「音」が消失した。
自分の息遣いも、心臓の鼓動も、衣擦れの音さえも聞こえない。
ランプの灯火が急激に色褪せ、部屋の壁がどろりと黒ずみ始める。
近代的な施設の壁紙は剥がれ落ち、そこへ冷たく湿った石造りの壁が、錆びた鉄格子が――かつて、罪なき人々が命を散らした「処刑場」の気配が部屋を侵食した。
「……トラカルの、記憶の侵食。あの子、またフラッシュバックを起こしたのね」
アスモデウスの声だけが、無音の宇宙で響くようにクレアの耳に届く。
彼女は即座に立ち上がり、クレアの前に立ちはだかるようにして腕を広げた。
ゆっくりと、扉が紙細工のように両断され、崩れ落ちた。
そこから現れたのは、かつての凛々しさを失った「死神」だった。
アルトリウス。
銀色の鎧は鉛のような漆黒に染まり、全身の隙間からどろりとした黒い霧が噴き出している。
兜のバイザーの奥には、理性を焼き切ったような紅い光が、獲物を狙う獣のように不気味に蠢いていた。
巨大な断頭刃が床を削り、火花を散らす。
音はない。ただ、その刃が近づくたびに、魂を直接削り取るような不快な震動だけが足元から伝わってくる。
「……アルトリウス……?」
クレアの呟きに、アスモデウスが低く応える。
「ええ。でも、今のあの子に言葉は通じないわ。あれはトラカルを守るためだけの、暴走した殺意そのものよ。……クレア、私の後ろから離れないで」
黒い騎士が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
絶体絶命の静寂の中、部屋の隅の影から、マントを揺らして少年が現れた。
「……おやおや。僕が少し、昔のことを思い出しただけでこれだ。本当におちおち傍観もできやしないね」
トラカルだった。
不敵な笑みを浮かべ、いつものように傲岸不遜な態度を装っている。
だが、その組まれた指先は、止めることのできない震えに支配されていた。彼自身が、かつて自分を殺した「処刑場」の幻影に怯えているのだ。
「ねえ、アス。うちの騎士の不始末だ。……一緒に片付けてくれるかな?」
トラカルは、自分の絶望が生み出した怪物から目を逸らさずに言った。その声は痛々しいほど震えていたが、王としての気高さだけは捨てていなかった。
アスモデウスは小さく笑い、背後のクレアを一度だけ強く抱きしめた。
「もちろん。……ただし、私の子(クレア)に指一本触れさせないのが条件よ。いいわね、陛下?」
「好きにしたまえ。……さあ、アル。いい加減に、その見苦しい剣を収めるんだ」
紅い光が、三人へと向けられる。
処刑場の幻影の中で、静かなる死闘の幕が上がろうとしていた。