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文化祭です!準備
夏の湿り気を帯びた風が、開け放たれた窓から入り込み、教室の淀んだ空気をかき回していた。 終礼のチャイムが鳴り響いた後、担任の教師が教壇を叩く。
「ええか、次は文化祭の実行委員を二人、この場で決める。誰か立候補はいるか?」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、教室内には「目を合わせたら負け」という無言の鉄則が敷かれた。皆、一様に机の木目を見つめたり、筆箱の中身を整理するふりをしたりして、露骨に視線を逸らす。中原中也もその一人だった。彼は窓の外、部活動の準備を始める連中を眺めながら、自分には関係のないことだと決め込んでいた。
「……誰もいねぇのか。なら、こっちで指名するぞ」
担任の目が、教室内を舐めるように動く。その視線が、中也の隣の席で止まった。正確には、隣に座る少女——太宰治の上で。
「太宰、お前……」
担任の言葉には、隠しきれない躊躇(ためら)いがあった。 中也はそれを、いつもの「問題児への警戒」だと思っていた。太宰は頭こそ切れるが、隙あらば授業をサボり、屋上や保健室で読書に耽る放蕩娘だ。教師が扱いあぐねるのも無理はない。
だが、教師たちの心中は違った。彼らが持っているファイルには、彼女の診断書が挟まれている。 「心疾患。激しい運動、過度のストレス、疲労を避けること。二十歳までの生存確率は極めて低い」 その文字を知っている大人たちにとって、太宰治を「責任ある役職」に就かせることは、一種の博打に近かった。
「先生、私がやるよ」
不意に、太宰が細い腕をすっと上げた。 緩く波打つ黒髪が、夕陽を反射して輪郭をぼやけさせる。
「太宰、お前……正気か?」 中也が思わず隣を向いて声を上げる。太宰は中也の方を見て、悪戯が見つかった子供のような、無邪気で、それでいて底の知れない笑みを浮かべた。
「正気だよ。一度くらい、皆のために汗を流す青春というものを経験してみたくてね」
「……お前、体力ねぇだろ。体育だって半分以上見学してる癖によ」
「中也、それは誤解だよ。私はただ、動くのが嫌いなだけさ」
太宰はケラケラと笑う。中也は呆れたように溜息をついたが、太宰を見つめる担任の顔は笑っていなかった。担任は、困惑と、そして深い憐れみの混じった視線で太宰を凝視している。
「太宰、お前……本当に大丈夫なのか。無理は……」
「大丈夫です。先生の心配は、全部わかってますから」
太宰の声から、微かに温度が消えた。それは「秘密をバラすな」という無言の警告だった。教師は沈黙し、苦渋に満ちた顔で頷いた。
「……分かった。太宰、お前を一人目の委員に据える。だが、もう一人は体力のあって、しっかりした奴じゃないと困る。……中原、お前がやれ」
「はぁ!? なんで俺なんだよ!」
「お前しかいないだろ、こいつの首輪を握ってられるのは。いいな、中原。太宰が……その、体調を崩さないように、お前がしっかりサポートしてやってくれ。これは担任としての頼みだ」
中也は顔を顰めた。教師の物言いが、妙に必死だったからだ。まるで太宰が今にも壊れてしまう硝子細工であるかのような言い草。 だが、中也はそれを、太宰の「日頃の行いの悪さ」のせいだと片付けた。
「……チッ。分かったよ。こいつがサボらねぇように、俺が見ててやる」
黒板に、白チョークで二人の名前が並んで書かれる。 その筆跡を眺めながら、太宰は唇を噛んで、込み上げる「死への恐怖」を愛おしさで塗り潰していた。
中也は知らない。 彼が「サボるな」と叱るその瞬間も、彼女の心臓は必死に、限られた時間を刻もうと悲鳴を上げていることを。 教師たちが向ける「同情」を、中也だけが「苛立ち」として返してくれる。 その健康的な怒りが、太宰にとっては、何よりも自分が「生きている」と感じさせてくれる薬だった。
「よろしくね、中也。私の命を預けたよ」
「……重てぇよ、馬鹿。ほら、行くぞ。まずは実行委員の集まりだろ」
中也は乱暴に太宰の鞄をひったくり、先に教室を出た。 太宰はその広い背中を見つめ、そっと自分の胸に手を当てる。 トク、トク、と、不規則に跳ねる鼓動。
(あと、どのくらいかな)
二十歳まで。医者の言葉が正しければ、あと数年。 あるいは、この文化祭が終わる頃には、もう尽きているかもしれない。 けれど、中也の隣にいる間だけは、自分もいつまでも続く未来の一部であるかのような錯覚に浸れた。
「太宰! 遅ぇぞ、置いてくぞ!」
廊下の先から、中也の怒鳴り声が響く。 太宰は、これ以上ないほど幸せな微笑を浮かべて、その光の方へと駆け出した。 その足取りが、僅かに重くなっていることにも、中也はまだ気づいていない。
放課後の教室は、独特の熱気に包まれていた。 窓を開け放っていても、数十人の高校生が放つ熱が、湿った空気の中に居座っている。 教壇に立つ中原中也は、手にしたチョークをいらだたしげに回し、騒がしいクラスメイトたちを一喝した。
「おい、静かにしろ! 文化祭の出し物、今日中に決めねぇと枠が埋まっちまうんだよ!」
中也の声が教室の隅々まで響き渡り、ようやく私語が収まっていく。その隣で、太宰治は教卓に肘をつき、退屈そうに指先で黒髪の毛先を弄んでいた。ゆるふわのロングヘアが、彼女の細い肩にこぼれ落ちる。
「みんな、中也が怒っているよ。怖いねぇ、血管が切れちゃいそうだ。もっと優しく話し合おうじゃないか」
「誰のせいでこうなってんだよ! お前がさっきから適当な案ばっか出すからだろ!」
中也が太宰を睨みつける。太宰は「心外だなぁ」と笑いながら、黒板に目を向けた。そこには彼女が書き殴った『心中体験喫茶』『入水体験アトラクション』といった不穏な文字が並んでいる。
「ふざけてねぇで、まともな案出せよ。……えー、何かやりたい奴、いねぇのか」
中也がクラスを見渡すと、一人の女子生徒が手を挙げた。
「あの、やっぱり定番だけど、喫茶店とかどうかな。制服も可愛くできるし」
「喫茶店か。まあ、無難だな。他には?」
「お化け屋敷!」 「カジノがいい!」
次々と上がる声に、中也が「喫茶店」「お化け屋敷」「カジノ」と黒板に書き足していく。 中也は、できるだけクラス全員が納得し、かつ準備の負担が偏らないものを、と無意識に考えていた。それは何より、隣にいる太宰の「虚弱」を考慮してのことだった。
中也は知らない。 職員室の教師たちが、なぜ本来は「サボり魔」である太宰を実行委員に据えたのか。 彼らは知っているのだ。太宰の心臓が、もう長くは持たないことを。 彼女にとってこれが、最初で最後の、そして誰かと何かを成し遂げる唯一の機会になるかもしれないことを。 だからこそ、何かあればすぐに気づき、力ずくでも彼女を休ませることができる中也を、隣に配置した。
中也にとっての太宰は「すぐ体調を崩す、目が離せない腐れ縁」であり、教師たちにとっての太宰は「いつ消えるか分からない、儚い命」だった。その埋まらない認識の差が、今この瞬間の、なんでもない日常を支えている。
「ねぇ、みんな」
太宰がふいに声を上げた。それまでふざけていた彼女の瞳から、ふっと色が抜ける。 教室が静まり返る。彼女には、時折人を惹きつける不思議な重圧があった。
「文化祭なんて、どうせ数日後には消えてしまう幻だ。なら、とびきり綺麗で、でも終わった後に何も残らないような、そんなものがいいな」
「……太宰?」
中也が怪訝そうに彼女を見る。太宰は窓の外、赤く染まり始めた空を見つめていた。 彼女の瞳に映る夕焼けは、まるで燃え尽きる直前の命の輝きのように、あまりにも鮮やかだった。
「お化け屋敷の中に、喫茶店を作るのはどうかな。迷路のような暗闇を抜けて、ようやく辿り着いた場所に、束の間の安らぎがある。……でも、出口を出たら、もう二度とそこへは戻れないんだ。まるで、夢みたいじゃないか」
クラスの連中が、顔を見合わせる。 「……なんか、お洒落かも」 「太宰さんの案にしては、まともだね」 そんな声が漏れ始める。
中也は黙って太宰の横顔を見つめていた。 彼女の細い首筋、青白く透き通った肌。 時折、彼女が胸を押さえて深く息を吐き出す理由を、彼は「肺活量がねぇからだ」と自分に言い聞かせている。来年も、再来年も、二十歳になっても、こうして言い合える未来を当然のように信じている。
「……よし、決まりだ。『迷宮喫茶』。内容はこれから詰めるぞ」
中也が黒板に力強く丸を描く。クラス中から拍手が湧き起こった。 太宰は、中也の手の甲にそっと自分の指先を重ねた。 氷のように冷たい指先。
「中也。楽しみだね。私たちが作った場所が、たった二日間で消えてしまうのが」
「寂しいこと言うな。写真だって撮るし、思い出には残るだろ」
「思い出……。そうだね。中也が、いつまでも覚えていてくれるなら、それでいいよ」
太宰は微笑んだ。その微笑みは、沈みゆく太陽が最後に放つ、一瞬の閃光に似ていた。 中也はその微笑みの正体を知らない。 彼女がなぜ、これほどまでに「消えること」を前提に話すのか。 それが、死を宣告された少女の、精一杯の愛の形だということに。
「おい、いつまでもベタベタすんな。打ち合わせ始めるぞ」
中也は赤くなった顔を隠すように、太宰の手を振り払おうとして……けれど、そのあまりの冷たさに、結局は自分の大きな手で包み込むように握り直した。
「……手が冷てぇんだよ。ちゃんと飯食ってんのか」
「食べてるよ。中也の愛情を、少しずつね」
「死ね、この鯖!」
「あはは、酷いなぁ」
夕暮れの教室。 狂騒の予感と、止まらないカウントダウン。 二人の影は重なり合い、一瞬だけ、永遠のように黒板に張り付いていた。
「迷宮喫茶」の準備に必要な、黒い布や燭台(しょくだい)の模造品を買い込んだ帰り道。 商店街を抜けた先にある、住宅街へ続く緩やかな坂道で、二人の足取りは自然と遅くなっていた。
中也の片手には重い買い出し袋が二つ。もう一方の手には、太宰が「どうしてもこれがいい」と言い張って買った、古めかしいランタンの置物が握られている。 太宰はといえば、軽い画用紙の束を持っているだけだというのに、その歩幅はどこか覚束ない。
「……おい、太宰。本当に大丈夫か? 顔が白雪姫みたいだぞ」
中也が立ち止まり、覗き込むようにして声をかける。 夕暮れが街を紫に染め始め、街灯が一つ、また一つと瞬き始めていた。その淡い光に照らされた太宰の横顔は、今にも霧に溶けてしまいそうなほど希薄だった。
「ひどい言い草だね、中也。せめて、眠り姫と言ってくれないか。王子様のキスを待っているところなんだから」
太宰は軽口を叩いてみせるが、その呼吸は浅く、胸元を抑える指先が微かに震えている。 中也はそれを、いつもの「虚弱」による疲れだと思い込んでいた。 彼は知らない。この坂道を登るだけでも、太宰の不全を抱えた心臓には、全力疾走に等しい負荷がかかっていることを。 職員室の教師たちが彼女を見る時の、あの痛ましいほどに慎重な眼差し。もし中也がそれを知れば、彼は今すぐ荷物を放り出して彼女を背負うだろう。
だが、太宰はそれを望まなかった。 ただのクラスメイトとして。ただの、口の悪い相棒として。 自分の「死」という属性を剥ぎ取った場所で、彼と笑っていたかった。
「……おい。荷物貸せ、それくらいなら俺が持てる」
「いいよ、これくらい。私にだって、実行委員としての意地があるんだ」
太宰は微笑み、ふっと視線を足元に落とした。 アスファルトに伸びる二人の影。 自分はもうすぐ二十歳になる前に、この世界から退場する。 それは決定事項であり、誰にも変えられない未来だ。 中也がどんなに、その強靭な生命力で私を引っ張り上げようとしてくれても、この鼓動の回数だけは増やせない。
ふいに、太宰の胸に鋭い痛みが走った。 心臓が不規則に跳ね、視界がチカチカと明滅する。 (……あと少し。あと少しだけ、動いておくれ) 彼女は自分の左胸に祈るように念じながら、中也の袖口をそっと掴んだ。
「ねぇ、中也」
「あ?」
「……手、繋いでみてもいいかい?」
その声は、いつも人を煙に巻くような彼女のものとは思えないほど、小さく、震えていた。 中也は一瞬、何と言えばいいか分からず言葉を失った。 二人の関係は、付き合っているような、けれど一線を超えない絶妙な均衡の上に成り立っている。手を繋ぐ。それは、彼らにとって「ただの冗談」では済まされない一歩だった。
「……何言ってやがる。荷物で手が塞がってんだろ」
中也は照れ隠しにぶっきらぼうに答えたが、太宰は手を離さなかった。 それどころか、縋り付くような力で彼の袖を握りしめる。
「いいじゃないか。誰も見ていないし。……少しだけ、中也の熱を分けてほしいんだ。このままだと、夜の冷気に溶けてしまいそうだから」
中也は溜息をついた。太宰の冗談めかした言葉の中に、本物の、底知れない「寂しさ」が混じっていることに気づいてしまったからだ。 彼は「たく……」と毒づきながら、右手の買い物袋を左手に持ち替えた。 空いた右手を、不器用に太宰の方へ差し出す。
「……ほら。一回きりだぞ」
太宰は目を丸くした後、幸せそうに目を細めて、その大きな掌に自分の細い手を重ねた。 触れた瞬間、中也は息を呑んだ。 彼女の手は、驚くほど冷たかった。まるで、体温というものを知らない、冷え切った硝子細工のように。
(……なんで、こんなに冷てぇんだ)
中也は無意識に、その冷えた手を包み込むように強く握り締めた。 自分の体温が彼女に伝わるように。彼女を、この世界に繋ぎ止める鎖になるように。
「中也の手、すごく温かいね」
「……お前が冷えすぎなんだよ。もっと肉食え、肉。お前、本当に薄っぺらくて、今にもどっか飛んでいきそうなんだよ」
中也は、自分の胸の中に芽生えた正体不明の不安を振り払うように、より一層強く彼女の手を握った。 太宰はその力強さに、泣きそうになるのを堪えて微笑む。
「そうだね。中也がこうして捕まえていてくれないと、私は幽霊にでもなって、君の枕元に化けて出るかもしれない」
「縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇ! ……二十歳になったら、もっといいもん食わせてやるから。そん時まで、しっかり体力つけとけよ」
二十歳。 中也が口にしたその約束が、太宰の胸を優しく、そして残酷に突き刺す。 彼女にとってその年齢は、決して辿り着けない「終わりの日」だった。
「……うん。楽しみだね、中也」
太宰は嘘を吐いた。 繋いだ手から伝わる鼓動が、今は中也のものか、自分のものか分からないほどに重なっている。 この温もりを、一生忘れたくない。 自分が死んだ後、中也の手が別の誰かの手を握る日が来ても、この瞬間の熱だけは、彼の記憶の片隅に「棘」として残っていてほしい。
二人は、夕闇に包まれ始めた坂道を、ゆっくりと登っていく。 繋いだ手は、一度も離されることはなかった。 中也はまだ知らない。 彼女が願った「手、繋いでみてもいいかい?」という言葉が、実は彼女なりの、精一杯の「さよなら」の予行練習だったということを。
「中也。……離さないでね」
「……分かってよ。家までずっと、こうしててやるから」
街灯の光が、二人の重なった影をアスファルトに長く、切なく焼き付けていた。
放課後の教室は、黒いビニールシートと木材、そして木工用ボンドの匂いで充満していた。
「迷宮喫茶」という名の通り、教室内にはベニヤ板と段ボールで作られた複雑な壁が立ち並び、迷路が形成されつつある。中原中也は作業着代わりのジャージの袖を捲り上げ、金槌を振るっていた。
「おい、そっちの角、もっとしっかり固定しろ! 客がぶつかって倒れたら危ねぇだろうが!」
中也の怒声に近い指示が飛ぶ。彼はクラスの男子たちを指揮しながら、自らも力仕事の先頭に立っていた。その視線は、時折、教室の隅で黒い布を裁断している少女へと向けられる。
太宰治は、床に座り込んで大きな裁ち鋏を動かしていた。黒髪を一本のゴムで緩くまとめ、細い首筋を露わにしている。彼女が担当しているのは、迷路の壁を覆うための暗幕作りだ。
「中也、そんなに声を張り上げたら心臓に悪いよ。もっと優雅に、死を待つような静けさで作業したまえよ」
「縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇ! ほら、そこの布、早くこっちに回せ!」
中也が歩み寄り、太宰の隣に膝をつく。太宰の手元を見ると、布を切る手つきがどこかおぼつかない。鋏を持つ指先が、目に見えて震えていた。
中也は、それを「慣れない作業による疲れ」だと思っていた。 だが、実際は違う。重い鋏を動かし続けることさえ、今の彼女の心臓には過酷な運動となっていた。肺に十分な酸素が回らず、視界の端が時折チカチカと白く爆ぜる。
職員室の教師たちが、時折教室の入り口から中を覗き込んでは、太宰の姿を確認して安堵の、あるいは悲痛な溜息をついて去っていく。彼らは知っているのだ。太宰がこうして「普通」に文化祭の準備に参加していること自体が、奇跡に近い無理の上に成り立っていることを。
「……おい、太宰。お前、顔色が紙みたいだぞ。一旦休め」
中也が太宰の手から鋏を取り上げた。彼の大きな掌が太宰の手に触れた瞬間、そのあまりの冷たさに、中也は思わず眉を跳ねさせた。
「……っ、お前。こんな冷てぇ手で作業してたのかよ」
「……あはは、冷え性は美人の嗜みだよ、中也」
太宰は力なく笑い、中也の腕に寄りかかった。 細い体躯。抱きしめれば折れてしまいそうなほど、肉の落ちた肩。 中也は、言いようのない不安に胸を締め付けられた。
「美人の嗜みなんてレベルじゃねぇだろ。ほら、こっち来い。温かい茶でも飲ませてやる」
中也は強引に太宰を立たせ、作業の喧騒から少し離れた窓際の席へと連れて行った。 太宰は、中也に促されるまま椅子に深く腰を下ろす。窓の外は、もう夜の帳が下りようとしていた。
「ねぇ、中也。この迷路が完成して、文化祭が終わったら……この壁も、布も、全部壊して捨てるんだよね」
「……当たり前だろ。いつまでも教室に置いておけるかよ」
「そうだよね。何も残らない。……でも、それでいいんだ」
太宰は、窓硝子に映る自分の青白い顔を見つめた。 彼女の人生も、この迷路と同じだ。華やかに飾り立てられ、誰かの記憶に一瞬だけ刻まれて、そして跡形もなく撤去される。二十歳という期限。それは、自分という存在がこの世界から「撤去」される日付に過ぎない。
中也は、隣で黙り込んだ太宰の様子が気にかかり、彼女の頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
「何も残らねぇなんて言うな。俺が覚えてる。この壁の釘一本、お前が切った布の一枚まで、俺が全部覚えててやるからよ」
中也の言葉は、真っ直ぐで、迷いがなかった。 彼は「来年」も、この同じ教室で、別の出し物を作っている自分たちの姿を疑いもせずに想像している。
「……中也は、本当に欲張りだね。……じゃあ、約束だよ。もし私が、この布みたいにどこかで解けて消えてしまっても、君だけは見つけてね」
「……消えさせねぇよ。俺がずっと、その手を握っててやる」
中也は、太宰の細い手を両手で包み込んだ。 自分の中の熱が、彼女に乗り移るように。 彼女の止まりそうな鼓動を、自分の鼓動が無理やり動かし続けるように。
「……温かいね、中也」
太宰は目を閉じ、中也の掌に頬を寄せた。 トク、トク、と、不規則に跳ねる彼女の心臓。 それは、中也が知らない、けれど誰よりも愛おしい、命の終わりのカウントダウンだった。
教室のあちこちから、クラスメイトたちの笑い声や、金槌を叩く音が響いている。 その賑やかな日常の片隅で、二人の影は、永遠を願うように重なっていた。
「……よし、休憩終わりだ。太宰、お前はここで座って指示だけ出してろ。布は俺が切る」
「えぇー、中也のガサツな切り方じゃ、迷宮が台無しだよ」
「うるせぇ! 文句あんなら寝てろ!」
中也は照れ隠しに声を荒らげながら、太宰が使っていた鋏を手に取った。 太宰は、その頼もしい背中を見つめながら、静かに、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……ありがとう、中也」
その言葉が、感謝なのか、それとも早すぎる遺言なのか。 それを知る者は、まだこの教室には一人もいなかった。
放課後の教室は、黒いビニールシートと木材、そして木工用ボンドの匂いで充満していた。
「迷宮喫茶」という名の通り、教室内にはベニヤ板と段ボールで作られた複雑な壁が立ち並び、迷路が形成されつつある。中原中也は作業着代わりのジャージの袖を捲り上げ、金槌を振るっていた。
「おい、そっちの角、もっとしっかり固定しろ! 客がぶつかって倒れたら危ねぇだろうが!」
中也の怒声に近い指示が飛ぶ。彼はクラスの男子たちを指揮しながら、自らも力仕事の先頭に立っていた。その視線は、時折、教室の隅で黒い布を裁断している少女へと向けられる。
太宰治は、床に座り込んで大きな裁ち鋏を動かしていた。黒髪を一本のゴムで緩くまとめ、細い首筋を露わにしている。彼女が担当しているのは、迷路の壁を覆うための暗幕作りだ。
「中也、そんなに声を張り上げたら心臓に悪いよ。もっと優雅に、死を待つような静けさで作業したまえよ」
「縁起でもねぇこと言ってんじゃねぇ! ほら、そこの布、早くこっちに回せ!」
中也が歩み寄り、太宰の隣に膝をつく。太宰の手元を見ると、布を切る手つきがどこかおぼつかない。鋏を持つ指先が、目に見えて震えていた。
中也は、それを「慣れない作業による疲れ」だと思っていた。 だが、実際は違う。重い鋏を動かし続けることさえ、今の彼女の心臓には過酷な運動となっていた。肺に十分な酸素が回らず、視界の端が時折チカチカと白く爆ぜる。
職員室の教師たちが、時折教室の入り口から中を覗き込んでは、太宰の姿を確認して安堵の、あるいは悲痛な溜息をついて去っていく。彼らは知っているのだ。太宰がこうして「普通」に文化祭の準備に参加していること自体が、奇跡に近い無理の上に成り立っていることを。
「……おい、太宰。お前、顔色が紙みたいだぞ。一旦休め」
中也が太宰の手から鋏を取り上げた。彼の大きな掌が太宰の手に触れた瞬間、そのあまりの冷たさに、中也は思わず眉を跳ねさせた。
「……っ、お前。こんな冷てぇ手で作業してたのかよ」
「……あはは、冷え性は美人の嗜みだよ、中也」
太宰は力なく笑い、中也の腕に寄りかかった。 細い体躯。抱きしめれば折れてしまいそうなほど、肉の落ちた肩。 中也は、言いようのない不安に胸を締め付けられた。
「美人の嗜みなんてレベルじゃねぇだろ。ほら、こっち来い。温かい茶でも飲ませてやる」
中也は強引に太宰を立たせ、作業の喧騒から少し離れた窓際の席へと連れて行った。 太宰は、中也に促されるまま椅子に深く腰を下ろす。窓の外は、もう夜の帳が下りようとしていた。
「ねぇ、中也。この迷路が完成して、文化祭が終わったら……この壁も、布も、全部壊して捨てるんだよね」
「……当たり前だろ。いつまでも教室に置いておけるかよ」
「そうだよね。何も残らない。……でも、それでいいんだ」
太宰は、窓硝子に映る自分の青白い顔を見つめた。 彼女の人生も、この迷路と同じだ。華やかに飾り立てられ、誰かの記憶に一瞬だけ刻まれて、そして跡形もなく撤去される。二十歳という期限。それは、自分という存在がこの世界から「撤去」される日付に過ぎない。
中也は、隣で黙り込んだ太宰の様子が気にかかり、彼女の頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
「何も残らねぇなんて言うな。俺が覚えてる。この壁の釘一本、お前が切った布の一枚まで、俺が全部覚えててやるからよ」
中也の言葉は、真っ直ぐで、迷いがなかった。 彼は「来年」も、この同じ教室で、別の出し物を作っている自分たちの姿を疑いもせずに想像している。
「……中也は、本当に欲張りだね。……じゃあ、約束だよ。もし私が、この布みたいにどこかで解けて消えてしまっても、君だけは見つけてね」
「……消えさせねぇよ。俺がずっと、その手を握っててやる」
中也は、太宰の細い手を両手で包み込んだ。 自分の中の熱が、彼女に乗り移るように。 彼女の止まりそうな鼓動を、自分の鼓動が無理やり動かし続けるように。
「……温かいね、中也」
太宰は目を閉じ、中也の掌に頬を寄せた。 トク、トク、と、不規則に跳ねる彼女の心臓。 それは、中也が知らない、けれど誰よりも愛おしい、命の終わりのカウントダウンだった。
教室のあちこちから、クラスメイトたちの笑い声や、金槌を叩く音が響いている。 その賑やかな日常の片隅で、二人の影は、永遠を願うように重なっていた。
「……よし、休憩終わりだ。太宰、お前はここで座って指示だけ出してろ。布は俺が切る」
「えぇー、中也のガサツな切り方じゃ、迷宮が台無しだよ」
「うるせぇ! 文句あんなら寝てろ!」
中也は照れ隠しに声を荒らげながら、太宰が使っていた鋏を手に取った。 太宰は、その頼もしい背中を見つめながら、静かに、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……ありがとう、中也」
その言葉が、感謝なのか、それとも早すぎる遺言なのか。 それを知る者は、まだこの教室には一人もいなかった。