テラーノベル
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直樹との日々が頭をよぎる。彼の機嫌を伺い、三歩下がって、自分の望みは後回しにしてきた。それが「健気な愛」だと信じていたけれど、ナオミの目から見れば、それはただの「自衛の放棄」だったという事だろう。
「ほら。顔を上げなさい。今からアタシがあんたをとびっきりのイイ女にしてあげる」
ナオミの言葉は傲慢なほどに力強く、けれど不思議と穂乃果の強張った心を解いていく響きがあった。
言われるがままに顔を上げると、至近距離にナオミの顔があった。
「……っ」
あまりの近さに、穂乃果は思わず息を呑む。
ナオミの指が、穂乃果の頬を軽く叩くようにして肌の状態を確かめていく。そのタッチは驚くほど繊細で、それでいて迷いがない。
「泣き腫らして瞼が重いわね。……でも、悪くないわ。ベースはしっかりしてる。あんた、自分が思ってるよりずっと、磨けば光る原石なのよ。それをドブに捨てようとしてたのは、あんた自身なんだからね」
ナオミは手際よく筆を走らせ、パレットから色を掬い取っていく。
鏡のない空間で、穂乃果には自分がどう変えられていくのか全く分からない。ただ、肌に触れる筆の感触と、ナオミの落ち着いた呼吸の音、そして彼から漂うあの「体温」の匂いだけが、今の穂乃果のすべてだった。
「……あ、の……」
ナオミの手が止まり、金の粉が差すような朝の光の中で穂乃果の声だけが浮く。
「何?」
低く、乾いた返し。
穂乃果は喉を鳴らして、ようやく絞り出す。
「……どうして、こんなことしてくれるんですか?」
その問いに、ナオミはほんの一瞬だけ眉をひそめた。
そして、筆を置き、ゆっくりと穂乃果の顎に指先を添える。
「勘違いしないで。優しさでやってるんじゃないわ」
目はまっすぐ穂乃果を射抜く。
「アタシは“可愛い物”が好きなの。みっともない顔されたまま隣にいられるのが我慢ならないだけ。……それだけよ」
でも、その声の奥には、少しだけ何かがあるような気がした。
穂乃果にはそれが何なのか分からない。ただ、その冷たさの底にかすかな温度を感じてしまった。
「……そう、ですか」
「そうよ。ありがたく変身しなさい」
ふと、ナオミが唇の端を上げる。
いつの間にか手の中に紅を持っていた。
穂乃果の唇に淡い色が乗る。指の腹でぼかすたび、肌が呼吸を取り戻すみたいに熱を帯びていく。
「……出来たわよ」
ナオミは立ち上がり、穂乃果の手首を取って洗面所へ導いた。
鏡の前に立たされると、自分が別人のように見える。
瞼の腫れは淡い影に変えられ、頬はわずかに血色を取り戻している。
そこにいるのは、夜を彷徨っていた女ではなく、たったいま現実に戻ってきた“誰か”。
「凄いです。これ……私、じゃないみたい」
「でしょう? 元はいいんだから暗い顔してちゃダメ。 そんな顔してたらクズ男達の思うツボよ」
ナオミは穂乃果の背後に立ち、鏡越しに彼女の肩をポンと叩いた。
そこには、昨日まで直樹の顔色ばかりを窺っていた自分はいない。ナオミの魔法によって武装された、凛とした眼差しの女がいた。
「アンタは何も悪くないんだし、堂々としてればいいの。綺麗になって背筋を伸ばしたあなたを見たクズ達の驚く顔、見てみたくない?」
鏡の中のナオミは、不敵な笑みを浮かべていた。
「驚く、顔……」
穂乃果はその言葉を反芻する。
今まで一度だって、自分を裏切った相手を「見返してやろう」なんて考えたことはなかった。
ただ、自分が至らないから、自分が彼を繋ぎ止められなかったからと、傷つくことを甘んじて受け入れてきたのだ。
けれど、鏡に映る自分は――ナオミが作り上げたこの「女」は、そんな弱々しい言い訳を許さないほどに、鮮やかで、強い光を放っている。
「……見てみたい、です」
小さく、けれど確かな熱を孕んだ声が穂乃果の口から漏れた。
「そうよ、その意気よ。惨めに泣いて引きこもるなんて、そいつらの予想通りになるだけ。相手を『あんなにいい女を逃したのか』って後悔の地獄に叩き落としてやるの。それが一番の復讐なになるんだから」
ナオミは満足げに頷くと、鏡の前から離れ、ひらひらと手を振った。
「さあ、お喋りは終わり。朝食ができてるわよ。冷める前に食べちゃって。アンタ、胃の中空っぽでしょう?」
リビングから漂ってくるのは、香ばしい出汁の匂いだった。
絶望に支配されていた時は、空腹すら感じなかったのに、今はその香りに誘われるように、胃が切ない音を立てる。
「……っ、はい。いただきます」
穂乃果はもう一度だけ鏡を見つめ、背筋をぐっと伸ばした。
洗面所を出る足取りは、先ほどよりもずっと、地面をしっかりと踏みしめていた。
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かんな
あかね ♛❤️♛