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ナースステーションのドアを開けた瞬間、場がしんと静まり返った。
「お疲れ様です」
普段通りに挨拶を済ませ、荷物を置いて水を一口。
グラスを持つ手はわずかに冷えているのに、視線だけがやけに熱を帯びているのが分かる。その一連の動作に淀みはないが、周囲のスタッフがこちらを注視しているのは、嫌でも伝わってきた。
「あぁ、びっくりした。安住さんじゃない。どうしたの? なんだか雰囲気が違うから誰かと思っちゃった!」
近くにいた同僚の田中彩美が、堪えきれないといった様子で声をかけてきた。
「そ、そうかな? 別に何も変わらない気もするけど……」
出来る限りそっけなく答えてカルテに目を落とす。だが、パソコンの文字がうまく頭に入ってこない。視線の圧が、じわじわと背中に刺さる。
「いやいや、全然違うって! メイク変えた? すごく綺麗……。なんか、別の病院のデキる看護師さんが助っ人に来たのかと思ったわ」
「まさか! 私なんてそんな……」
嬉しいような、恥ずかしいような。だがそれ以上に――“見られている”ことへの戸惑いが大きい。
彩美の一言を皮切りに、周囲にいた同僚たちが次々と集まってきた。
「ねえねえ、どこのブランド使ってるの? そのシャドウの入れ方、すごく絶妙!」
「肌のツヤ感も全然違う。エステでも行った?」
矢継ぎ早に飛んでくる同僚達からの質問の嵐。いつもなら、自分への注目に居たたまれなくなって、適当に笑ってその場を濁していただろう。
そもそも、注目されることなんて滅多にないから、周囲の変化にどうしていいかわからず戸惑ってしまう。
だが、聞こえてくるのは好意的な意見ばかりで、いかにナオミが施したメイクが凄いのかがよく分かった。
(ナオミさん……。今日戻ったら、ちゃんとお礼を言わなくては)
そう心に決めた矢先――。
「ただいま休憩からあがりましたー。あれっ? みんなして何集まってるんですか?」
今、一番聞きたくなかった声に、反射的に肩がピクリと動いた。
穂乃果の姿を確認すると、何を勘違いしたのか、ふふっと小さく笑ってゆっくりと近づいてくる気配がする。
「穂乃果じゃない。今日、遅番だったんだぁ。ごめんね、昨日は急に休んじゃって……遅くまで残ってくれたんでしょう? ありがとね」
癪に障る、猫なで声。
顔を見なくても分かる。きっと今、里奈は愉悦に満ちた醜い表情を隠し、申し訳なさそうな「親友の顔」を作っているのだろう。
心の中では、恋人を奪われている事すら気付かなかった鈍感な穂乃果を馬鹿にしているのだ。
一体いつからそうだったのか。考えないようにしようと思っても、はらわたが煮えくり返りそうになる。
穂乃果は心を落ち着けるために小さく息を吐くと、ゆっくりと顔を上げた。
「――えっ?」
その瞬間、文字通り里奈の顔がぴきっと音を立てて凍り付いたのがわかった。
「安住さん、イメチェンして凄く可愛くなったと思わない?」
「そ、そうね。あまりにも雰囲気が違うから、つい見惚れちゃった」
彩美の一言で我に返ったらしい里奈は、頬を僅かに引きつらせ、それでも平静を装おうと必死に微笑みを整えた。
「びっくりしたぁ……。っていうか穂乃果、今日のメイク凄く綺麗。急にどうしたの? もしかして、昨夜は彼と何かいいことでもあった?」
首を傾げ、親しげに覗き込んでくる距離。
周囲に配慮して「彼」と呼びつつも、その瞳の奥には、期待していた「ボロボロの穂乃果」がいないことへの焦りと、どす黒い好奇心が透けて見えた。
(……見たいんでしょ? 私が崩れるところ)
脳裏に、今朝確認した銀行アプリの画面がフラッシュバックする。
綺麗さっぱり消えていた、数年分の貯金。それを直樹と共に奪った張本人が、平然とした顔で「いいことあった?」なんて、吐き気のするような言葉を投げかけてくる。
呆れ半分、怒り半分。
だが、そんな激情さえも、鋭く引かれたアイラインの奥で、氷のように閉じ込められた。
「そうかも。すごく素敵な夜だったよ」
わざと、余韻を含ませて言い切る。
突き放すようでいて、どこか意味深な一言。里奈の瞳が、わずかに揺れた。
「……へぇ、そっか。良かったね、本当に」
背後で里奈が、どこか釈然としない様子で言葉を絞り出すのが分かった。
昨夜、自分たちの裏切りを目撃されていたとも知らずに。余裕の笑みを浮かべる穂乃果の背を見ながら、彼女は今、確実に困惑している。その気配が、はっきりと伝わってきた。
「ごめん里奈。仕事に戻るから、またあとでね」
振り返らずに告げる。
もう――親友ではない。
そう理解した瞬間、胸の奥にあったはずの何かが、静かに消えていた。
かんな
あかね ♛❤️♛