テラーノベル
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若井は荷物を持って後で合流することになったので、元貴と藤澤だけが先に車から降りた。部屋に入ると、外の冷気とは対照的な暖かな空気が二人を包み込んだ。
「適当に座ってて〜」
藤澤はマネージャーから手渡された、替えの子供服が入った袋と、自分の荷物をソファに置いた。元貴は、自分より遥かに高い位置にあるソファの座面に手をかけ、短い足を一生懸命に動かしてよじ登っていく。そのたどたどしい後ろ姿を見て、藤澤は思わず口角が上がり手を貸しそうになったが、車内での様子を思い出し、喉まで出かけた言葉を飲み込んで見守ることにした。
「テレビ見る? 何かつけようか」
場を和ませようと、藤澤はテーブルのリモコンを手に取り、適当な番組を流した。しかし、映し出されたバラエティ番組の賑やかな音も、今の元貴の耳には届いていないようだった。後ろ髪を引かれつつ、藤澤は風呂洗いをすることにした。
数十分経ち、タオルで手を拭きながらリビングに戻ると、元貴はソファから降りていて、部屋の中を落ち着きなくウロウロと歩き回っていた。ラグの毛並みを踏みしめながら、壁際まで行っては戻り、また別の場所へ。その視線は定まらず、何かを探しているようでもあり、あるいは自分の居場所を必死に繋ぎ止めているようにも見えた。
「……元貴? なんか気になるものでもある?」
藤澤は少し笑いを含ませながら、優しく声をかけた。 すると、元貴はその場で足を止め、ゆっくりと藤澤の方を振り返った。けれど、視線は合わない。俯いたまま、小さな体を左右にゆらゆらと揺らし始めた。それは幼児が退屈したり、何かを言い出せずにいたりする時に見せる無意識の仕草だった。普段の姿からは想像もつかないその振る舞いに、藤澤の胸がキュッと締め付けられる。
影の落ちた元貴の表情は、どこまでも暗い。
藤澤が何かを言い直そうと口を開きかけた、その時だった。元貴が消え入りそうな声で呟いた。
「……パソコン、取りに行きたい」
「え?」
「パソコン……家に、取りに行きたい」
俯いたまま繰り返されたその言葉に、藤澤は一瞬フリーズした。けれどすぐに、彼が何を望んでいるのかを理解した。
「……元貴。今日くらいは、おやすみしようよ」
藤澤は、諭すような柔らかな声で言った。ただでさえ超多忙なスケジュールの中、幼児化という異常事態に見舞われたのだ。その精神的、身体的な疲労は計り知れない。
それにも関わらず曲作りなんて。もってのほかだ。
「今のその体じゃ、キーボード叩くのも大変でしょ? 今日はゆっくり休んで、明日のことは明日考えよう」
藤澤の言葉に、元貴はゆらゆらと体を揺らすのを止め、さらに深く頭を垂れた。小さな拳が、パーカーの袖の中でぎゅっと握られているのが見えた。
「……なら、歯磨きとか。着替えとか、さ」
元貴は、フラフラと視線を迷わせながら、しどろもどろに言葉を繋いだ。自分の家に帰らなきゃいけない理由を、必死にひねり出しているのが手に取るようにわかる。
けれど、その理由はあまりにもこじつけだった。藤澤は、元貴が何か決定的なことを隠そうとして、必死に場を誤魔化しているような強い違和感を覚えた。持っていたタオルを机に置き、傍に行って目を合わせる。近くで見ると、眉が可哀想までに下がっていて、今すぐ抱きしめたくなった。
「歯磨きは予備の新品があるし、着替えもさっきマネージャーから受け取ったやつがあるから、大丈夫だよ」
努めて穏やかに返したけれど、その声には困惑が混じり、表情にも隠しきれない怪訝さが浮かんでしまった。
元貴はその藤澤の顔をじっと見つめていたが、これ以上は通用しないと悟ったのか、ふいっと目を逸らした。そして、何も言わずにトボトボとした足取りで歩き出すと、ソファのすぐ下にある毛足の長い絨毯の上に、力なくぺたんと座り込んでしまった。
背中を丸め、膝を抱えるようにして座るその姿は、あまりに小さくて、部屋の広さに対してひどく孤独に見えた。
「…元貴」
藤澤が心配になって身を乗り出した、その時だ。
「遅くなってごめん、コンビニ寄ってきた!」
元気な声とともに、若井がたくさんの荷物を抱えてリビングに入ってきた。若井は入るなり、絨毯に座り込んでいる元貴と、困り果てた顔の藤澤を見て、ピタリと足を止める。
「……え、なに、どうしたの。通夜みたいな空気になってんじゃん」
若井は荷物をテーブルに置くと、すぐに元貴のそばに駆け寄って、その小さな肩に手を置いた。
「どうした? どっか痛い? お腹すいた?」
矢継ぎ早に質問する若井の顔を、元貴は少しだけ顔を上げて見上げた。その瞳は、昼間よりもずっと潤んでいて、今にも決壊してしまいそうなほど脆い色を湛えている。
若井が心配そうに覗き込んでも、元貴はただ、力なくゆっくりと首を振るだけだった。仕方なく、 二人はそれ以上問い詰めることはせず、夜の支度を淡々と進めることにした。とはいえ、幼児化した今の元貴を一人にするわけにはいかない。結局、三人で一緒にお風呂に入り、慣れない手つきで元貴の小さな体を洗い、湯冷めしないように手早くタオルで包み込んだ。
「元貴、こっちの手貸してね」
若井が元貴の腕に触れ、子供用のパジャマに通す。仕事場での彼なら、こんな見た目通りの扱いをされたら「自分でできる」と強がるはず。しかしそれが今は、されるがままになっている。その無抵抗な様子が、かえって二人の胸をざわつかせた。
着替えを終えた元貴は、若井の膝の上で髪を乾かしてもらっている途中も、じっとしていた。話を聞きたい気持ちはあるが、子どもならもうとっくに眠くなっていい時間だ。けれど、若井と藤澤には、まだ今日中に済ませておかなければならない楽曲の詰め作業が残っていた。
「元貴、先に寝てていいよ。廊下をまっすぐ行って、右側が寝室だから」
藤澤が優しく促すと、元貴は不安げに顔を上げた。
「……二人とも、まだやるの?」
「うん。すぐ隣にいるから大丈夫だよ。何かあったら呼んで」
控えめな小さな声に藤澤が微笑んでそう返す。すると拗ねたようにトコトコと若井のギターの方へ歩いていき、その場にちょこんと座った。
「僕もまだ寝ない」
「え!?ダメだよ、子どもは早く寝なくちゃ」
「中身は子どもじゃないし。大丈夫」
可愛らしい駄々をこねる様子に少し安心する。先ほどまで何故不安げな様子なのか分からなかったが、案外子どもらしい、分かりやすい理由だったのか。そう思ったからだ。
今日は色々大変だったんだから早く寝ないと。そう言い聞かせ、寝室に行くよう促す。
元貴は何かを言いかけたが、それを飲み込むようにして小さく頷いた。そのまま、重い足取りで廊下の方へと消えていく。
リビングに残された二人は、機材を広げながらも、時折廊下の方へ視線をやった。
「……やっぱなんか変じゃない?元貴」
若井が小さな声で呟いた。
「うん……寂しいとか、そういうのとはまた違う気がするんだよね」
藤澤も眉をひそめながら、手元の楽譜に目を落とした。
いつからだったのかは、もう覚えていない。
物心つく前から、いつも傍らにはそのブランケットがあった。
灰色の生地に、小さな羊が並んでいるデザイン。茶色の裏地がついてるモコモコのやつ。
何度も洗って、何度も引きずり回したせいで、端の方はボロボロにほつれていたけれど、当時の自分にとってはそれが世界のすべてだった。
寝る時はもちろん、ご飯を食べる時も、テレビを見る時も、それは体の一部みたいに離れなかった。外に出かける時だって、汚れたり、ほつれたりするのを分かっていても手放せなかった。あの独特の落ち着く匂いと、指先に触れる柔らかな感触。それさえあれば、自分の周りには見えない壁ができて、誰にも邪魔されない安全な場所になれた。
でも年齢が上がれば上がるほど、周りの大人は困ったような、怒っているような顔をするようになった。
「またそれ持ってるの。もういい加減にしなさい」
母親にそう言われるたびに、言葉にできない不安で胸がいっぱいになった。特に、どうしても洗濯しなきゃいけない日は地獄だった。
ぐるぐると回る洗濯機の前や、干し竿があるベランダが見える部屋の窓際で、一日中座って待っていた。それがないと、自分の中の何かがバラバラになって、どこかに吸い込まれてしまいそうな感覚だった。
何もせず、ただ座って、じっと待つ。
その姿は、端から見ればどこかおかしい子どもだったんだろう。
一度だけ、母親がその依存を断ち切ろうとして、そのブランケットを隠したことがあった。汚いから、みっともないから。そんな理由だったのだろう。
「もうお兄ちゃんなんだから、これなしで寝てごらん」
そんな風に優しく諭されたなら、まだマシだったかもしれない。母親は、何も言わずに、ただ目を離した隙にブランケットを家のどこかに隠した。
そのことに気づいた瞬間、頭の中が真っ白になった。さっきまでそこにあったはずの感触がない。あの落ち着く匂いもない。まるで足元の床が急に消えて、底のない真っ暗な穴に突き落とされたような感覚だった。
「あれ…?どこ?ない、ない…」
最初は必死に部屋中を探し回った。クローゼットの中、ソファの下、洗濯機の裏。
でも、どこにもない。
探し回るうちに、喉の奥がヒリヒリして、呼吸がうまくできなくなっていった。
「ママが隠したの!?返して、返してよ!」
そう狂ったように叫びながら、母親の前で座りこんで、床をバンバン叩きながら泣き喚いたのを覚えている。言葉で訴えるというより、叫び声しか出なかった。涙で視界はぐちゃぐちゃになり、心臓の音が耳元でうるさく打ち鳴らされる。
母親は、その姿を見て、助けてくれるどころか一歩後ずさった。その顔に浮かんでいたのは、憐れみではなく、あからさまな恐怖だった。自分の子供が、ただの一枚の布がないだけでこれほどまでに取り乱す様子が、心底理解できなくて気味が悪かったんだろう。
「……そんなにあれがないとダメなの?もう小学生だよね。…気持ち悪いよ、元貴」
未知の不気味な生き物を見るかのようなその視線が、心をえぐるように孤独感をさらに深くした。
自分が普通じゃないことくらい、分かっていた。一度病院に連れていかれたこともある。しかし、不安なんだねと眉を下げてあやすような声を出す大人に心なんて開けなかった。
あの布に触れていないと自分の形が保てない。触れていないと、自分と世界との境界線がなくなって、消えてしまいそうな感覚。
そんな叫びを聞き入れてくれる人はいなかった。だけど、このブランケットがあればそれでも良かった。
これはただの布じゃない。
これがないと、自分が自分でいられなくなる。
大人たちが向けてくる冷ややかな視線よりも、そのブランケットが手元から消えることの方が、何百倍も恐ろしかった。
しかし、成長するにつれて、少しずつ自分を誤魔化す術を覚えていった。 流石に仕事場にあれを持っていくわけにはいかないし、そんなことをすれば大森元貴としてのパブリックイメージも、プロデューサーとしての立場も守りきれない。
いつの間にか、起きている間はそれがそばにいなくても、普通に過ごせるようになっていた。
それでも、結局捨てられなかった。
今でも家のベッドの隅には、あの羊たちがいる。普段は平気なフリをしていても、一日の終わり、寝る時だけはどうしてもあれがないとダメだった。暗闇の中で、あの使い古された布の感触を指先で確かめ、鼻先を寄せて匂いを嗅ぐ。そうして初めて、眠りにつけた。
もちろん、メンバーの二人にも、マネージャーにも、そんなことは一度も話したことがない。二十代後半にもなって「お気に入りの毛布がないと眠れない」なんて、あまりに恥ずかしすぎる。話したところで「可愛いね」なんて笑われるか、気を遣われるのがオチだ。そんな意味のない説明をするくらいなら、墓まで持っていったほうがマシだと思っていた。
だから、ツアーでホテルに泊まる時も、こっそりとキャリーケースの奥に忍ばせて持っていった。涼ちゃんや若井の家に泊まりに行く時だって、着替えに紛れ込ませて、彼らが寝静まった後にこっそり出して使っていた。
そうやって、今まで一度もバレることなく、うまくやってこれた。
でも、今の自分は「子ども」だ。
大人だった自分が築き上げた、完璧な偽装工作や自制心は、今の小さな体にはもう残っていない。不安に駆られれば、頭では分かっていても指先が勝手にあの感触を求めて彷徨ってしまう。
「……ヒグッ…ヒッ…ぅう”ーっ…」
暗いベッドの上で、あの頃の自分が顔を出す。どこに行くにも、何をするにも、常に不安が纏わりついていたあの頃の。
(こわい。あれがないとやだ…なんでないの)
しかしそれでも、大人としての理性が必死に律しようとする。
「いい加減にしろ」「ただの布じゃないか」「明日になれば帰れるんだから、今は目を閉じてろ」と。
けれど、その理性が積み上げてきた強固な防壁を、今のちっぽけな体があまりにも容易く食い破っていく。
(…かえりたい…こわいよ、くるしい)
子どもの自分が、暗闇の中から這い出してきて思考を鮮やかな恐怖で塗りつぶす。一度その「そいつ」に主導権を握られると、もうどうしようもない。論理的な思考は霧散し、代わりに襲ってきたのは、喉が渇ききって、骨からバラバラに崩れてしまいそうな、原始的な焦燥感だった。
泣いちゃダメだ、と頭では分かっている。なのに、喉の奥が勝手に引きつって、熱い塊がせり上がってくる。
「……っ、ふ……」
必死に枕に顔を押し付けて、声を押し殺す。
情けない。恥ずかしい。二人がすぐそこにいるのに、こんなことで取り乱すなんて死んでも知られたくない。大人の自分が、必死に尊厳を守ろうと抵抗する。
けれど、次の瞬間には、「そいつ」がそのプライドを冷笑し、さらに激しい絶望を叩きつけてくる。
(ねえ、ママみたいに、みんなにも「気持ち悪い」って言われるよ。一人ぼっちになるよ)
そんな幻聴が聞こえるたびに、心は粉々に砕けそうになる。
不安が不安を呼び、冷たい汗が背中を伝う。指先は、暗闇の中でシーツを必死に掻き毟っていた。
違う、これじゃない。これじゃやだ。
「……いたい、……たすけて……」
でももう、何が痛いのかも、どう助けてほしいのかも分からなかった。
早く、早く帰りたい。あの部屋の、あのベッドの隅にある、唯一の拠り所に。
__to be continued…
………………………………………………
今回も読んでくださってありがとうございます!
ちょっと話をまとめる力が無さすぎてもう少し続きます…笑
コメント
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語彙力ありすぎて読んでて幸せです… ありがとうございます
❤幼児化スキ過ぎて待ち遠しいです🫶 ブランケット実は私も昔から寝る時一緒に🥹
ブランケット!!!! 大好きです!!!! 次も楽しみです!!!