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第十二話 ぬるいだけ
アディポセラ様に呼び出された時、鏡の前に立っていた。
いつもなら整える髪を、そのままにする。
指で梳くだけで済ませ、結び目も少し甘くした。
襟元も直さない。皺もそのまま。
これでいい。これくらいでいい。
「……だらしない」と思われればいい。
「使えない」と思われればいい。
それで手放されるなら、安いものだ。
扉の前に立ち、呼吸を一つ落とし、ノックをする。
「……お呼びでしょうか」
中から返る、明るい声。
「ええ、お入りなさい」
扉を開けた瞬間、アディポセラ様の視線が刺さる。
気づいたな。
乱れた髪も、襟元も、全部。
叱責が来ると思った。
冷たい声で、失望されると思った。
もうすぐで自由だ──
「ウラシェル」
近づいてくる足音。
両親とこれまでの主人たちのせいで、反射的に背筋が伸びる。
顎に指が触れそうになって、止まる。
その代わり、髪に手が伸びた。
「動かないでください」
やわらかい声。
叱られない。
怒られない。
ただ、整えられる。
指が前髪を梳き、形を直す。
襟元を引き、皺を伸ばす。
距離が近い。
近すぎる。
その顔面を早く離してくれ。
「身だしなみが整っていません。気をつけましょう」
違う。
そうじゃない。
私は、そう思ってほしかったわけじゃない。
どうにかして怒られようと、嫌われようと、視線を行き来させる。
「目を見て話しましょう」
……礼拝堂で言った言葉と同じことを言う。
駄目だ。
これは駄目なやつだ。
物事は思ったようにはうまく進まない。
うまく進んでいれば奴隷になんてならなかったはずだ。
「……申し訳、ありません」
声を低くして、態度を悪くする。
したはずなのに。
「謝ることではありません。急いで来てくれたのでしょう?」
違う。
急いでなんかいない。
わざと崩してきた。
返事をわざと遅らせる。
「……命令でしたので」
ああ、クソ。
どうして嫌いにならない?
あなたは正しいことを唱えるから、正しいことが好きではないのか?
なぜ嫌いにならない?
怒らない?
まだ、工夫が必要なようだった。
下がってよいと言われ、部屋を出る。
出て一番、壁に寄りかかって舌打ちと大きなため息をついた。
失敗した。
嫌われるどころか、心配された。
距離を取ったのに、縮められた。
最悪だ。
廊下を歩きながら、奥歯を噛みしめる。
結局、少し反抗的な態度を見せてみたが逆効果だったようで、体調が悪いと変に誤解された。
あとで部屋に来いとも言われた。
気持ち悪い。
あの目。
恐ろしい。
物を見る目じゃない。
道具を見る目じゃない。
……人を見る目だ。
急に背筋が冷える。
最悪な想像が捗ってしまう。
周りの奴らみたいにはなりたくない、ならないと誓っていたのに。
部屋に呼び出されたのは夜だった。
夜。ましてや夜。
断れない。行くしかない。
どうか。神よ。
邪なことになってもお許しください。
どうか。
部屋に入ると、湯気が見えた。
器。匂い。温かい。
「これを」
アディポセラ様から湯気が立つスープを差し出される。
意味が分からない。
でもなんとなく肩の荷が降りた。
「……これは」
「体に良いものを入れさせました。無理をしてはいけません」
私が想像していたような目的ではなかったようだった。
……なににやけてんだよ。
憎い。
その面を見なければいけないこっちの気にもなれ。
「……ありがとうございます」
無表情で、少し怒りを含んだ声色で言ってみる。
「お野菜を食べましょう。疲れている日こそ」
……飲まなければ嫌われるか?
そんな発想をしたときにはもう口をつけていた。
頭が回らない。クソ。
野菜ばっかりで、一つも味気がない。
まだ地下労働をさせられていたときに配給されたパンの耳の方が美味しい。
そして、ぬるい。ぬるすぎる。
湯気が立っていたが、アディポセラ様と喋っている間に冷めたのだろう。
こんなので体調が治ると思っているのなら、流石貴族だと褒め称えたくなるほど。
「今日はもう休みなさい」
「……かしこまりました」
一礼する。
顔を上げない。
最後まで反抗したけれど、アディポセラ様はなんの反応も示さなかった。
これではだめだ。
まだ、まだ、まだ。
嫌われないと。