テラーノベル
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循は救急車が来ているか確かめようと、一階分下りた。路地を見たが、まだ来ていなかった。雨で大通りのほうはよく見えなかった。手すりに手をついて、もう少し身を乗り出してから、また階段を上がった。上の階では、まだ数を数える声がしていた。下りるときに聞いたのと同じ声だった。循はドアの脇に立ち、車が路地に入ってくる音を待った。
女は目を閉じていた。ついさっきまで、一言だけ言ってほしいと頼んでいたのに、今は鷺沢 玲央が呼んでも答えなかった。循は玲央の手が止まるたびに、女の顔を見た。何か変われば、自分にもわかる気がした。けれど、玲央は電話から流れる言葉を聞いてまた身をかがめ、循もドアの脇で待ち続けた。
階段の下で、人を呼ぶ声がした。
循は手すりのほうへ出て、こちらだと伝えた。機材を持った人たちが上がってくると、玄関の内側へよけた。救急隊員が玲央の肩に手を当て、場所を空けるように言ったが、玲央はすぐには立ち上がれなかった。押していた手を止めても、しばらくその姿勢のままだった。循が腕をつかむと、そこでようやく脇へ退いた。
循は床に置いていた携帯電話を拾った。二人は階段を下り、ひさしの下に立った。玲央はすぐに、また上を見上げた。人が動くたびに玄関の明かりは遮られたが、部屋の中は見えなかった。ひさしの外には雨が落ち、路地の入り口では、救急車の光が濡れた塀を照らしていた。
玲央が手を見下ろした。
手のひらには、壁からついた白い粉が残っていた。玲央は濡れた指を開いて、また握った。循もその手を見た。さっきは壁に当てていたので、指がどう動いているのか、すべては見えなかった。今は何も握っていなかった。循は玲央がまた手を開くのを見ながら、尋ねた。
「どうして、すぐに離さなかったの?」
玲央が循を見た。
「二人とも出たって言っただろ。振り返りもしたし。その後、まだ何をするつもりだったの?」
「ドアの前に立ってただろ」
「出てたじゃないか。とにかく、もう出てたんだよ」
「すぐそこにいた。男も、子供も。連れ出したのはドアのすぐ前だっただろ。離したら、また追いかけると思った。もう少し下りたら離すつもりだったし、だから下りてくれって言ったんだ。聞いてただろ」
「あのときは、外へ来ようともしてなかった」
「俺は……」
「中へ戻ってたんだよ。あの女の人の足元に。でも、玲央の手だけが動いてなかった。腕がどうなってたのか、見えなかった?」
玲央は口を開き、また閉じた。
「つかまれたところを引っ張って、抜こうとしてるんだと思った。俺から抜いて、またあっちに行こうと」
「どうしてわかるんだよ。つかんでたらどうなるか、知ってたの? どれくらいつかんでていいのか、あの人も玲央と同じになるのか。わかっててやったの?」
「わからなかった」
循は、その続きを待った。わからなかったけれど、まだ何かあるはずだった。つかんだときは大丈夫だったとか、ついさっきまでは普通に話していたとか。少なくとも、なぜつかみ続けていいと思ったのかは、話せるはずだった。二人が外へ出たことは、玲央もわかっていた。自分を振り返り、階段の下を指しもした。その後も手を離さなかった理由を聞きたいのに、わからなかったと言われるだけでは、何を聞き直せばいいのかわからなかった。
「わからないのに、どうしてずっとつかんでたの。少しだけ道を空けるためだっただろ。二人とも出たら、それでよかったじゃないか。出たって言ったら、そのときに離すべきだったんだ」
「離せば大丈夫だと思ったんだよ!」
玲央の声が大きくなった。
循は話すのをやめた。玲央も少し口を閉じてから、また話した。
「自分のをつかんだときは、手を離せば動けた。痛くもなかったし、何もなかった。あの人もそうだと思ったんだ。少しだけ止めておけば、二人は出ていけるから。みんな下りてから離せばいいと思った。手を開くだけで、そうしたら……」
玲央は右手を開いた。言い終えられず、自分の手のひらを見た。循には、彼が何を説明しようとしているのかはわかった。玲央は女がまた追いかけてこないようにつかんでいて、二人が下りたら離すつもりだった。けれど、循が見たのは、男を追おうとする女の姿ではなかった。腕を胸の前へ持ってこられずに、床に膝をついた姿だった。その違いを話しているのに、玲央は何度も、手を離せば大丈夫だと思ったと言った。
「だから、離してって言っただろ」
「あのときは離した。離せって言われて、すぐに離したんだ。でも、どうしてああなったのか、俺にもわからないんだよ。ほかに何かをつかんでたわけでもないのに。手を開けば、あの人もまた動けると思ったのに」
循は、もう少し早く離すべきだったと言おうとした。女の膝が床につく前に、少なくとも腕を動かせなかったときには。けれど、先に玲央が顔を上げた。
「見てたんだろ。中へ戻ってくのを見てたんだろ。それなら、そのとき言ってくれればよかったのに。俺が間違ってたら、すぐに……」
玲央は言葉を止めた。
「俺もわからなかった」
循の言葉が先に出た。
玲央はそれ以上尋ねなかった。循も、すぐには続けられなかった。女の影が内側へ動いたとき、最初に見たのは玲央の顔だった。今しがた二人をドアの外へ逃がしたのも彼の手だったので、つかみ続けているのには理由があると思った。女の体が妙に引かれるのを見ても、先に玲央のすることを確かめた。膝が床についてからようやく呼び、女が口を開くのを見て、手を離すように言った。そのあいだ、自分が何も見ていなかったわけではなかった。
「わかってやってるんだと思ったんだ」
循が言った。
「だから、何をするのか見てた。あんなふうに動いても大丈夫なのか、手を離すタイミングが別にあるのか。俺にはわからないから」
玲央はうつむいた。循は彼を見ながら、自分が今言ったことを考え直した。わからないと聞かされて、もっと説明するように言ったのに、自分もその言葉の後に、玲央ならわかっていると思ったと付け加えた。だからといって、女をつかんでいた人間が変わるわけではなかった。循はただ、なぜすぐに言わなかったのかを説明しようとしていた。けれど、玲央が何も答えないと、何かを認めてもらおうとしているように聞こえたのではないかと思い、それ以上話しにくくなった。
上の階で、機材を運ぶ音がした。
玲央が顔を上げた。少し階段を見てから、小さな声で言った。
「あの人も、普通に動けると思ったんだ。俺みたいに。手を離せば」
循は答えなかった。玲央はまた手を見下ろそうとしたが、上からの話し声に顔を上げた。誰かが階段の下に向かって、どくように言った。二人はひさしの外へ退いた。
階段の上から、担架が下りてきた。
玲央が担架の脇へ近づいた。
「どうなったんですか? 大丈夫なんですか?」
「まだ意識がありません。このまま病院へ向かいます」
救急隊員は答えながら、担架を運んだ。玲央は女を見下ろしてから、一歩下がった。
担架を運ぶ人たちのあいだから、まくれた作業着の袖が見えた。黒い蝶がそこにとまっていた。循は動かしていた足を止めた。蝶がゆっくり翅を開いた。左の翅の先は、傷んでいなかった。自分の部屋にいた蝶ではない、という考えが先に浮かんだ。
そのとき、女が泣いた。
「どれだけ愛してたと思ってるの。どうして私を捨てたの?」
循は女の顔を見た。
口にはマスクが当てられていた。目も閉じていた。担架を支える人は歩き続け、前で道を確かめていた人も振り向かなかった。循は女がまた話すのを待ちながら、担架の脇へ少し動いた。すぐ隣にいる玲央も、何の反応もなかった。今の言葉を聞いたのは、自分だけのようだった。
循は片方の耳をふさいだ。人の話し声が小さくなった。階段を踏む音も、外に降る雨の音も遠のいた。けれど、女の声は変わらなかった。耳をふさいでいても、何と言っているのか聞き取ろうとする必要はなかった。
父の声も、そうだった。
循は耳から手を離し、玲央の腕をつかんだ。
「聞こえる。あの女の人の声が聞こえる」
玲央の目が女へ動き、すぐに循へ戻った。
「何て言ってるの?」
循はまた耳を澄ませた。
女の言葉が終わりかけていた。少し静かになった。そのあいだに担架は二人の前を通り、救急車へ運ばれた。循は道を空けながらも、女を見続けた。
そして、同じ言葉が初めから聞こえた。
どれだけ愛してたと思ってるの。
泣き声で少し途切れるところまで同じだった。
「どうして自分を捨てたのかって言ってる」
「誰に?」
「さっきの男に言ってるみたいだ。愛してたって」
玲央は唇を閉じてから、また尋ねた。
「それ以外には?」
循は少し手を上げた。
「ちょっと待って」
玲央は話すのをやめた。
循は女の言葉が終わるのを待った。さっきは玲央に説明するために、途中を聞き逃したのかもしれなかった。愛していたという言葉の後に何を続けたのか、泣き声に混じって聞き取れなかった言葉はないか、もう一度聞かなければならなかった。担架のそばで人が動いたが、循はそちらを振り向かなかった。女は男を呼ぶことも、ほかの誰かに話しかけることもしなかった。なぜ捨てたのかと尋ねてから、少し静かになった。
循はその先を待った。
玲央も何も言わずに立っていた。担架を救急車に載せる音がして、誰かがドアを開けるように言った。そんな音のあいだでも、女の声ははっきりしていた。
女はまた、初めから話した。
循は、もう一度だけ聞いてみることにした。
◇
けがをした男と女の子は、先に病院へ向かった。女を乗せた車も、続いて路地を出ていった。
循と玲央は、車が大通りへ出るまで立っていた。玲央はまた階段を上がり、循も後に続いた。二人はドアの中へ入らず、玄関の前で止まった。踊り場には濡れた足跡が重なっていた。循が足で押しのけたガラス片は、いくつか壁の下に集まっていて、女の片方の靴も隅にそのまま残っていた。
玲央は、さっき手を当てた壁のそばに立った。
「まだ聞こえる?」
循はうなずいた。
「同じことばかり言うんだ」
女を乗せた車が去っても、声は遠ざからなかった。循は階段を上がるあいだも、ドアの前に立ってからも聞いていた。初めに聞いたときと同じ高さで、同じところに泣き声が混じった。救急車の音が消えると、かえってその言葉が気になった。今は、どこで終わるかもわかる気がした。けれど、終わるたびに、その後に別の言葉が続くかもしれないと、待ってしまった。
玲央は眼鏡を外した。服の裾をつまみ上げ、濡れているのを見て放した。
「俺がつかんでたときの話は?」
「しない」
「痛いとか、離してくれとか。そんなことは言ってない? さっき口を開いたよね。何か言おうとしてたみたいだけど、俺には聞こえなかったんだ。あのとき、何て言ったのか、もしかして循には……」
女の声がまた始まった。
循は手を上げた。
玲央は口を閉ざした。循は今度は、泣き声が混じるところまで気をつけて聞いた。愛していたという言葉と、なぜ捨てたのかという問い。途中に息を吸い込むような音があったが、別の言葉ではなかった。初めから終わりまで聞いても、玲央の尋ねたことに当たるものはなかった。
「ないよ」
「じゃあ、聞いてみてくれない? 俺がつかんでたときに、何を言おうとしたのか。いや、そうじゃなくて。今は大丈夫なのか、どこか痛いのか。循が聞いたら、答えるかもしれないだろ」
「答えてるのかどうかも、わからない」
「それでも、一度だけ」
循は女の言葉が終わるのを待った。少し静かになったとき、誰もいない玄関へ尋ねた。
「さっき、何を言おうとしたんですか?」
女がまた話した。
どれだけ愛してたと思ってるの。
循はそのまま、終わりまで聞いた。質問は聞こえていても、先に話していたことを言い終えようとしているのかもしれなかった。けれど、女はなぜ捨てたのかと問い、少し静かになってから、また愛していたと言った。循が尋ねる前と、何も変わらなかった。循はもう一度繰り返すところまで聞いてから、玲央を見た。
「何だって?」
「同じだよ」
「もう一度だけ聞いてみて。聞き取れなかったのかもしれないだろ」
「俺にもわからないって言ったじゃないか」
思ったより大きな声が出た。玲央の手が止まった。畳みかけた眼鏡のつるが、指のあいだに引っかかっていた。
循は玲央がそれ以上話さないのを見た。ここでやめてもよかった。同じことしか聞こえないと、もう一度説明すればいいだけだった。けれど、口を開くと、それだけでは終わらなかった。
「俺だって、あの人の声を聞くのは今日が初めてなんだ。どうして俺に聞こえるのかも、どうして同じことばかり言うのかもわからない。玲央に聞かれたからって、もっと聞けるわけじゃない。何とかほかの言葉が出てこないか、俺だって聞いてるだろ。さっきからずっと。でも、また聞かれたら、玲央の話も聞かなきゃいけないし、その間にあの人が別のことを言ったかもしれなくて、初めから待ち直すことになるんだよ」
循は息を整えられないまま、続けた。
「今も聞こえる。玲央が話してるときも聞こえたし、俺がこうして話してるあいだも、ずっと聞こえる。聞きたいと思ってることを、俺だって聞けたらいいと思う。何があったのか、俺も知りたいんだ。でも、聞こえないものをどうすればいいんだよ。俺に聞こえるってことは、あの人に何か聞けるってことじゃないだろ」
玲央は答えなかった。循は話すのをやめてからも、しばらく彼を見ていた。さらに何か聞かれたら、同じことを答えなければならない気がした。ないと言っても、十分に聞いていないように感じられ、また聞いても変わらないと、今度は自分が何かを聞き違えているのかと考えた。女の言葉が終わるたびに待っていたのは、自分も同じだった。けれど、玲央にもう一度聞いてほしいと言われると、今まで聞いたことでは何もしていないように思えて、腹が立った。
「循にしか聞こえないんだろ」
玲央が言った。
「だから聞いたんだ。何を間違えたのかくらい、わからなきゃ……いや、それがわかったって、今何か変わるわけじゃないけど。でも、あの人はずっと話してるんだろ。もしかして俺にも何か言ってるなら、俺はそれさえ聞こえないまま、ここに立ってるんだ」
玲央は指のあいだに引っかかっていた眼鏡のつるを、また開いて、畳んだ。
「追い詰めるつもりじゃなかった。ただ、何て言ってるのかくらい知りたかったんだ。俺が手を離す前に、何て言ったのか。それを聞けなかったから」
循は玲央の言葉を聞いていた。女の声も一緒に聞こえた。玲央が話している途中で女はまた初めから話したが、今度は手を上げて止めなかった。玲央は女が倒れる前に何を言ったのか、知りたがっていた。循も、あのとき女の口が開くのを見た。ただ、その言葉は聞けず、今聞こえる言葉にも含まれていなかった。それ以上は説明できないことを、玲央にわかってほしかった。
「ほかのことが聞こえたら、言うよ」
循が言った。
「聞き取れなかったら、聞き取れなかったとも言う。でも、今は本当にそれしかないんだ。もっと聞けたのに、俺が聞き逃したのかもわからない。ただ……今聞こえるのは、そうなんだ」
玲央はうなずいた。眼鏡をポケットに入れ、壁のそばに立っていた。循もそれ以上話さなかった。女の声がまた終わり、二人のあいだに、雨音だけが聞こえる短い間ができた。そのあいだも、玲央は何も尋ねなかった。
階段の下で足音がした。
老女が手すりをつかんで上がってきた。濡れた傘の先が、一段ずつ階段に触れた。二人がよけると、老女は玄関の前まで来て、部屋の中をのぞいた。
「ここにいた女の人は?」
循は病院へ行ったと答えた。
老女は、どこの病院かと尋ねた。循は少し考えたが、答えられなかった。さっき誰かが教えてくれた気がした。女を車に乗せるときだったのか、その前に担架を運んでいたときなのかも覚えていなかった。そのあいだ別の音を聞いていたとまで言うことはできず、病院の名前は聞けなかったと答えた。
「お知り合いですか?」
老女はすぐには答えなかった。玄関の隅に残った片方の靴を見ると、腰をかがめた。裏返った靴を起こして置いてから、また拾った。靴の内側に指を入れ、つぶれたかかとを直しながら言った。
「連絡をもらって来たんだけどね」
老女は靴を持ったまま、また部屋の中を見た。
「水の飲み方から教えたのに」
循は、老女が話を続けるのを待った。ごく幼いころから知っていたという意味だろうか。それなら、ほかにもたくさんあることの中で、なぜそんなことを先に話したのだろう。老女は返事を求めているようには見えなかった。靴のかかとをもう一度触り、中から誰か出てくるのか、少し待った。循もつられて中を見た。女が倒れていた場所は空いていて、そこを見ていても、老女にこれ以上教えられることはなかった。
老女は、女がどこへ行ったのか調べなければと言った。靴と傘を片手にまとめ、上がってきたときと同じように手すりをつかんだ。循は階段のほうへ道を空けた。老女が一段ずつ下りるあいだ、下からほかの人たちの声が聞こえた。
警察が上がってきていた。
循は老女が下りる場所を空けたまま、ドアの脇に立った。下の階の男も、警察に続いて上がってきた。男は玄関の中を指していくらか説明し、警察官は部屋の中を確かめてから、玲央に何があったのか尋ねた。
玲央は名前を名乗り、この家へ来た理由から説明した。家へ来てほしいと連絡を受けたところまでは、すぐに話した。階段の下で循に会い、上でガラスの割れる音がしたので先に上がったと話した。けれど、ドアの中へ入ってからのことを話し始めると、同じ言葉を何度も言い直した。警察官は途中で口を挟まずに待った。玲央は自分が立っていた場所を手で指し示してから、説明を続けた。
「女の人が出ていかせなかったので、少しつかんだんです」
「どこをつかんだんですか?」
玲央は壁を指した。
明かりの下で、ドア枠の影が長く落ちていた。玲央は手を下ろし、また上げた。
「ここにあったものを」
警察官は壁を見てから、玲央を見た。
「その女性の体をつかんだということですか?」
玲央は、なかなか答えられなかった。
循も壁を見ていた。女の体に触れたわけではなかった。だからといって、つかんでいないとも言えなかった。玲央が指を握り込んだとき、女の肩は後ろへ引かれ、指が開いたとき、女は倒れた。循はその両方を見た。けれど、壁には今、ドア枠の影しかなかった。玲央が同じ場所を何度指しても、警察官には、手を当てた場所を説明しているだけに見えるだろう。
玲央が循を見た。
循はその視線を受け、警察官へ体を向けた。女の声がまた始まったが、今度は終わるのを待たなかった。
「俺も見ました」
「何をご覧になったんですか?」
循はドアの脇を指した。
「俺が上がってきたとき、女の人はあちらに立っていました。男の人と子供は、こっちにいて」
警察官は、循の指す場所を見た。循は男と子供がドアへ動いたことを説明した。女の手は下りていたのに、壁に映った手が長くなって、ドアの前をふさいだと言った。話してから、警察官の顔を見た。警察官は少し壁を確かめてから、その後どうなったのかと尋ねた。
循は玲央が手を伸ばしたところから、話を続けた。二人が出てきて、自分は子供の腕を支えていた。玲央に二人とも出たと告げたが、玲央はもう少し下りるように言った。循は、順番のはっきりしていることから話した。どこを見ていたのかを説明しながら言い直しもしたし、警察官に聞き返されると、少し止まって、そのときの様子を思い出した。
そのあいだも、女は同じ言葉を繰り返した。
循はその言葉が終わるまで待たずに、自分が見たことを説明し続けた。
◇
コメント
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読み終えたわ。第5話、すごく重かった……。 循にしか聞こえない女の声と、玲央が“つかんでいた”意味。 どっちが正しかったかなんて、正直わかんないんだよね。 でも、あの雨の中で、お互いに“わからない”って言い合いながらも、 ちゃんと相手の言葉を待ってた二人の距離感が、すごくリアルだった。 あの靴を直した老女の一言も効いたなあ。 何もかもはっきりしないけど、心にずっと残る話だわ。