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有栖智司は、生まれつき重い心臓病だった。
医者からはもう何年も前から補助人工心臓を勧められていたが、装置の不具合のリスクに加え、感染症や合併症の可能性を伴うため、両親は踏み出せずにいた。
「補助人工心臓を付けていることが、心臓移植の優先順位を上げることにもなります。今はリスクよりもメリットを取るべきだと」
医師の勧めにやっと両親が首を縦に振った時には、智司の心臓の衰弱は進んでおり、人工心臓に適応できなくなっていた。
「――智司君は18歳未満で強心薬の持続的な点滴投与が必要なので、例外として優先順位を上げる手続きは出来ます。
しかしここ数日の彼の心臓の衰弱のスピードを考えると、それも間に合うかどうか……」
医師の言葉に両親は声を殺して泣いた。
その帰り道での出来事だった。
乗っていたバスが橋から転落し、二人は息子を心配したまま、亡くなった。
両親の葬儀の後、祖父母の目を盗んで抜け出した智司は、両親が眠る橋までやってきた。
そして身を投げようとした瞬間、フラフラと橋を渡る尾山を見かけたのだった。
『あれえ?なんで君、俺のことが見えんの?』
事情を聞いた智司は、軽率な話し方をする死神に、尾山を助けてほしいと申し出た。
自分の命を引き換えに上げるから、と。
そして、智司は橋から身を投げた。
―――しかし、
下の川原で釣りをしていた夫婦が、流れてきた智司を救出した。
すぐさま病院に運ばれ、腹部と胸部を強く打ち付けていた智司に、祖父母の証人の元、心臓移植手術が行われた。
移植された心臓は、同じ日、福島県でバイク事故にあった青年のものだった。
――智司は、目を開けた。
胸に手を当てる。
脂肪のない薄い胸に、ドクンドクンと力強い心臓の鼓動を感じる。
自分は生かされてしまった。
両親のいない現世に。
いくら呼びかけても死神は現れなかった。
もしかしたらそばにいるのかもしれないが、この逞しく鼓動する心臓の音がうるさくて、声が聞こえないだけかもしれない。
どちらにしろ、今の智司には確かめる術がなかった。
「―――智司。起きてたの?」
病室に入ってきた祖母が、サイドテーブルの上にリンゴや桃を置いていく。
あれから―――両親が死んでから、食べ物も飲み物も、味がしなかった。
でもそう言うと祖母は悲しそうな顔をするのは目に見えていたので、黙っていた。
「先生がね、来週には退院できるって」
智司は嬉しそうな祖母に微笑むと、身体を起こした。
「ちょっと!起き上がったりして大丈夫?」
「うん」
智司は笑いながらベッド端から足を下ろした。
「飲み物買ってくる」
「え、売店まで行くの?代わりに買ってくるわよ」
慌てる祖母を軽く手で制する。
「先生からも動くように言われてるんだ。歩行器もあるし、大丈夫」
言うとやっと祖母は納得して、窓際に寄せてあったコの字型の馬蹄式歩行器を智司の前に持ってきた。
「ありがとう」
微笑むと、祖母も小さく息を吐きながら言った。
「きっと、お父さんとお母さんが、あなたに心臓をくれたのね」
「――――」
「もちろん、本当に心臓をくれた青年もそうだけど。私はあの日あの場所で、二人があなたを助けてくれたように思えてならないのよ」
「――――」
智司はそれには答えずに微笑むと、小銭入れを持って、病室を後にした。
埼玉医科総合大学病院に入院して、今日でちょうど2ヶ月が経とうとしていた。
智司は売店横の自動販売機まで来ると、小銭を入れた。
自分はなぜ、生かされたのだろう。
両親はなぜ、死んだのだろう。
何度思考を巡らせてもわからなかった。
あの時――
619号室で、花崎に何かを言えば―――
何かを伝えていれば、両親は助かったのだろうか。
チャリン。
「――え」
智司は思わず呟いた。
入れたはずの10円が返金口から戻ってきた。
もう一度入れてみる。
チャリン。
やはり同じだ。
もう一度試みる。
これで入らなかったら、仕方がない。売店で買―――
ドン。
脇から手が出てきて、自動販売機を叩いた。
驚いて振り返ると、そこには智司と同じくらい色の白い少年が立っていた。
少し伸びた髪の毛をヘアゴムで結んでいる。
「なんかこの自販機、10円だけさ、叩かないと入っていかないんだよね」
彼は松葉杖を持ち直しながら笑った。
「―――ありがとう」
智司が言うと、彼は、
「どういたしまして!」
と微笑んだ。
「翔真!タクシーが来たぞ!」
後ろから父親が彼を呼ぶ。
「看護師さんからもらった写真、ちゃんと持ってきた?」
出入口の前で母親が手招きをしている。
「じゃあ!」
彼は智司に向けてもう一度微笑むと、
「ちゃんと持ってきたよー!」
松葉杖を上手に使って、両親の元へ駆け寄っていった。
「――――」
智司はボタンを押し、自動販売機からアイスココアを取り出した。
「――――あれ……?」
その瞬間、何か大事なことを忘れた気がした。
智司は彼らを振り返った。
出入口から出て行く3人は、微笑み合いながらタクシーに乗り込んでいった。
その父親の方と一瞬目が合ったような気がしたが、見覚えはなかった。
気のせいだったかもしれない。
「――じゃあ、ね」
智司も微笑み、カシュッと音を立てながら缶の蓋を開けた。
口に含んだココアは甘く、そしてほのかに苦かった。
【完】