テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第268話 匠の身体
【現実世界・湾岸旧研究施設/身体側固定室・夜】
「……ここだ」
外から届いたラストの声を、集音器が拾った。
旧研究施設の入口から、まだ数十メートル。
それなのに、身体側固定室の照明が一度だけ明滅した。
日下部が端末を見る。
「腐食反応、施設外周へ到達!」
城ヶ峰が通信へ向かう。
「外周班、距離を取れ」
『対象は入口前です!』
「撃つな」
『しかし――』
「固定装備を使えば逆に食われる。誘導だけしろ」
城ヶ峰が言い切る。
木崎は保存槽の前から動かなかった。
透明な槽は正面から見れば空だが、角度を変えると雲賀匠の輪郭が断続的に浮かぶ。
今までより濃く、顔から肩、胸、右腕まで、身体のほぼ全体が一瞬だけ見えた。
「近づいてきたせいか?」
木崎が聞く。
「逆です」
日下部は端末を操作する。
「匠さん側が固定を強めています」
「自分で?」
「おそらく」
局所端末へ文字が現れる。
『身体を引っ張るな』
木崎が読む。
「分かってる」
『今、動かせば切れる』
「それも聞いた」
少し間を置いて、次の文字が現れた。
『昔から話を最後まで聞かないな』
木崎が鼻で笑う。
「生きて戻ってから文句言え」
城ヶ峰が二人を遮った。
「匠さん、確認したいことがあります」
局所端末が明滅する。
『何だ』
「あなたを現実へ戻す条件です」
室内が静かになった。
ラストが来ている。
だからこそ、これ以上曖昧なままにしておくことはできない。
◆ ◆ ◆
日下部が画面を切り替える。
これまでの解析結果。
湾岸旧研究施設、身体側固定点、補助層、主鍵、異世界側の支援線、
そして本人の現在の選択。
「今の時点で、必要な条件は五つと考えています」
一つ目。
《身体側固定点》
「ここです。匠さんの身体が現実側へ戻る場所」
二つ目。
《本人の現在選択》
画面には《帰還》と表示される。
「過去に帰りたかったかではありません。今、帰ることを選んでいる必要があります」
端末に文字が出た。
『帰る』
迷いはなかった。
日下部が頷く。
三つ目。
78
上野文
10,338
柊遊馬
6,207
《主鍵》
「雲賀ハレルさんの主鍵」
木崎が眉を寄せる。
「やっぱり必要か」
「はい。匠さんの身体と意識は、通常の転移より深いところで分かれています。
固定点だけでは重ねられないので、
主鍵で“この身体へ戻す”という参照を固定する必要があります」
四つ目。
《異世界側支援線》
「補助層だけを現実側から引っ張ると、途中で意識がずれる可能性があります。
異世界側からも同時に押さえる必要がある」
城ヶ峰が聞く。
「誰が担当する」
日下部は答える。
「現状では、アデルさんたちの結界支援、ノノさんの座標解析、
それに可能ならエリウスの案内層です」
木崎が画面を見る。
「案内層?」
「無理に戻すのではなく、匠さん自身が選んだ帰還先を途中で別の道へ取られないようにするためです」
そして五つ目。
日下部の指が止まった。
《補助層の一時代替》
城ヶ峰が画面を見る。
「それは何だ」
日下部はすぐには答えなかった。
匠からも文字は出ない。
「ここが、一番の問題です」
◆ ◆ ◆
【異世界・王都外縁/森林旧道・夜】
高瀬を乗せた馬車は、ようやく広い街道へ出ていた。
ジャバの反応は遠ざかっている。
完全に消えたわけではないが、今は追いつかれていない。
ヴェルニが馬の上で大きく息を吐いた。
「さすがに今日は疲れたな」
アデルが横を見る。
「さっきまで笑っていただろう」
「戦ってる時と、終わった後は別だ」
リオは右腕を庇ったまま馬車の横を歩いている。
副鍵の亀裂は完全には壊れていないものの、強い出力はもう危険だった。
サキのスマートフォンでreが弱く光る。
その時、ノノから通信が入った。
『みんな、聞こえる?』
ハレルが答える。
「聞こえる」
『現実側で、匠さんの帰還条件を確認してる』
ハレルの表情が変わった。
「父さんを?」
『うん。でも……問題がある』
通信越しに、日下部の声が入る。
『こちら日下部です。ハレルさん、主鍵が必要になります』
ハレルは胸元へ手を当てた。
ネックレス。主鍵。
「いつ使うんですか」
『まだです。今使うべきではありません』
「どうして?」
数秒の沈黙のあと、日下部が答えた。
『匠さんが戻ると、補助層が一時的に弱くなる可能性があります』
アデルの表情が変わる。
「なぜだ」
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸旧研究施設/身体側固定室】
日下部は異世界側にも同じ画面を共有した。
雲賀匠の意識が存在する補助層。
それは単なる待機場所ではなく、そこからいくつもの細い線が伸びている。
異世界、現実、学園跡地、オルタ・スパイア、湾岸旧研究施設。
ハレルたちがこれまで使ってきた例外的な経路の一部も、その線につながっていた。
「匠さんは、自分の意識をこの補助層に置くことで、層そのものを支えています。
柱の一部になっている、と考えた方が近い」
木崎が言う。
「本人を抜いたら柱が一本減る」
「はい」
「崩れるのか?」
「完全には崩れません。ただ、一時的に不安定になります」
城ヶ峰が理解する。
「その時にハレルたちの帰還を重ねれば」
「危険です」
日下部は即答した。
「主鍵も使う。補助層も揺れる。リオさんの副鍵も現在損傷している。条件が悪すぎます」
イヤーカフの向こうで、リオが小さく舌打ちした。
『俺のせいみたいに言うなよ』
ノノが返す。
『事実を言ってるだけ。責めてないから』
リオは黙った。
ハレルが尋ねる。
『じゃあ、父さんを先に戻すと』
「ハレルさんたちの帰還路が、一時的に弱くなる可能性があります」
『逆は?』
「あなたたちを先に戻せば、主鍵が現実側へ戻ります。
その後で、匠さんの帰還に使えるので、その方が条件は整えやすい」
木崎が匠の端末を見る。
「つまり順番は決まったな」
だが、匠から出た文字は違った。
『まだ決めるな』
木崎が眉を寄せる。
「何でだ」
『ラストがいる』
全員が黙る。
『こいつが固定点を壊すなら、待っている時間そのものが危険になる』
その通りだった。
ハレルたちを安全に帰還させる準備には、まだ時間が必要だ。
リオの副鍵も不安定で、高瀬の保護も続いている。
その間にラストが身体側固定点を壊せば、匠自身の帰還場所がなくなる。
◆ ◆ ◆
外で大きな音がした。
ガンッ。
研究施設の入口にある金属製の外扉が歪む。
日下部の端末が赤くなる。
《外周固定・低下》
《腐食侵入》
木崎が振り返った。
「来やがった」
城ヶ峰が通信を開く。
「第二線、後退」
『対象、正門を突破します!』
「戦うな!」
『しかし!』
「触れれば装備ごと食われる!」
映像には、ラストが入口を歩いている姿が映っていた。
急がない。走らない。ただ、こちらへ向かっている。
通路照明が一つ、また一つと消え、闇が近づいてくる。
◆ ◆ ◆
【異世界・森林旧道】
reが突然強く光った。
サキがスマートフォンを見る。
「お兄ちゃん」
「何?」
白い線はいつもの道を示すものではなく、画面の中央へ円を描いた。
その中へ、
《身体》
次に、
《名前》
《選択》
そして、最後だけ空白。
ハレルが息を止める。
「エリウスの案内層……?」
ノノの声が入った。
『こっちでも反応してる』
旧治療施設に残されたエリウスの案内層にも、新しい表示が浮かんでいた。
《帰還先を固定》
《本人の選択を優先》
《途中経路を閉じない》
ダミエが通信へ入る。
『使えるかもしれない』
アデルが尋ねる。
「何に」
『匠の帰還』
ノノが続ける。
『補助層が弱くなる瞬間、エリウスの案内層で匠さん本人の道だけを守れるかもしれない』
ハレルが聞く。
「そうしたら父さんを先に戻せる?」
『まだ分からない』
ノノは慎重だった。
『補助層そのものを支える力はない。
でも、匠さんの意識が別の場所へずれるのを防ぐ補助にはなる』
セラの声が続く。
『エリウスの方法は、道を強くするものではありません。
本人が選んだ道を、他者に奪わせないためのものです』
アデルが理解する。
「帰還力の不足は補えない」
『はい。ですが、危険を一つ減らすことはできます』
ハレルは主鍵を握った。
父を先に戻すか、それとも自分たちを先に戻すか。
まだ答えは出ない。
そこへ、現実側から大きなノイズが入った。
◆ ◆ ◆
【湾岸旧研究施設/第一地下通路】
ラストが施設内へ入った。
警察官たちはすでに退避しており、廊下には誰もいない。
ラストは壁へ触れていない。
それでも配管が赤茶色へ変わり、照明が消え、非常灯まで停止していく。
ラストは歩く。
「止まっている」
床の下にある匠の固定点、その反応だけを追っていた。
途中、一枚の古い扉の前で足を止める。
《LOCAL AUXILIARY NODE》
匠が使っていた局所補助装置の部屋。
ラストが扉を見る。
「……動いている」
初めて、その声にわずかな違いが出た。
止まっているものではない。
まだ動いている、補助層を支える装置。
ラストは手を伸ばした。
◆ ◆ ◆
【身体側固定室】
日下部が叫ぶ。
「局所ノードに接触!」
古い画面の数値が一気に落ちる。
《補助出力 82》
《71》
《63》
木崎が端末を見る。
「まずいぞ!」
「匠さんの身体じゃない!」
日下部の顔色が変わる。
「先に補助装置を止めようとしてる!」
《51》
《47》
匠の輪郭が薄くなっていく。
ハレルの声が通信から響く。
『父さん!』
局所端末の文字が乱れる。
『まだいる』
『慌てるな』
『主鍵を使うな』
ハレルが息を呑む。
『でも!』
『今ここで使えば』
文字が一瞬消え、再び現れる。
『あいつに道を教える』
日下部が理解した。
「そうか……」
ラストは今、固定点を感じている。
だが、主鍵を強く発動すれば、匠の意識、身体、ハレル、その三つを結ぶ線が一気に強くなり、ラストにも見える。
「今は主鍵を使えません」
日下部が言う。
「使えば匠さんの身体側固定点を、正確に示すことになる」
木崎が拳を握る。
「じゃあどうする」
数値は《39》から《34》へ落ち、補助層がさらに弱くなる。
その時、サキが叫んだ。
『re!』
◆ ◆ ◆
サキのスマートフォンから白い線が伸びる。
現実と異世界。本来なら、そこまで直接届くはずのない線。
だが、エリウスの案内層が反応した。
《偽の入口》
《停止》
《迂回》
湾岸旧研究施設の古い局所端末、その画面の隅にも白い記号が現れる。
日下部が目を見開いた。
「こっちにも出た!」
エリウスの標識。
《偽の入口》
木崎が理解する。
「ラストに別の道を掴ませる?」
セラの声が入る。
『騙すのではありません。危険な道を閉じます』
『本人が選んでいない入口を、入口として扱わせない』
ダミエが続ける。
『匠の身体への直線を隠せる。短時間だけ』
日下部が局所端末へ手を伸ばした。
「やります」
城ヶ峰が言う。
「条件は」
「匠さん本人の選択、現在位置、身体側固定点。それを開かず、記録としてだけ残します。ハレルさんの主鍵は使いません」
白い表示。
《雲賀匠》
《湾岸旧研究施設》
《帰還》
その下に、
《入口――閉》
日下部が確定した。
◆ ◆ ◆
第一地下通路。
ラストの手が局所ノードの扉へ触れ、赤茶色の腐食が広がる。
だが突然、ラストが動きを止めた。
その奥に感じていた「停止」が薄くなる。
匠の身体側固定点は消えたわけではない。
ただ、どこから入ればいいのか分からなくなった。
ラストの顔が初めてわずかに歪む。
「……どこだ」
白い標識はラストには文字として見えない。
ただ、入口だった場所が入口ではなくなる。
ラストは別の廊下を見ると、一歩そちらへ進んだ。
日下部の端末で進路が変わる。
「逸れた!」
木崎が叫ぶ。
「どこへ行く!」
日下部が地図を見る。
ラストは身体側固定室から外れた。
だが完全には離れていない。
古い地下保管路、局所設備、その先にはこの施設へ後から運び込まれた簡易保管設備がある。
城ヶ峰の表情が変わった。
「止めろ」
日下部が振り向く。
「何があるんですか」
城ヶ峰が答える。
「警察施設から緊急移送したものがある」
木崎の顔が強張る。
「何を持ってきた」
「白いコアだ」
室内が静まる。
ラストから離すため、厳重保管区画の機能が崩れたため、警察は白いコアだけを湾岸側の仮設保管設備へ移送し始めていた。
そして今。
ラストが向きを変えた先へ、白いコアが近づいている。
日下部が叫ぶ。
「搬送を止めて!」
城ヶ峰が通信を開く。
「白いコア搬送班!」
ノイズ。
応答がない。
ラストの腐食で通信が乱れている。
木崎が走り出した。
「俺が行く」
「木崎さん!」
「匠の場所を隠せても、次を取られたら意味ねえだろ!」
城ヶ峰も動く。
「私も行く」
日下部は匠の固定点を見る。
一時的に隠すことはできた。
だが、帰還条件そのものが解決したわけではない。
匠を戻せば補助層は弱くなる。
ハレルたちを先に戻せば、匠の固定点をラストから守り続けなければならない。
どちらを先にするか。
答えを出す時間は、もうほとんど残されていなかった。
局所端末へ、匠から最後の文字が出る。
『ハレル』
異世界側で、ハレルが息を止める。
続いて。
『焦るな』
『帰る順番は』
一文字ずつ。
『生き残った方からじゃない』
『全員が帰れる順番を選べ』
文字が消える。
その直後、地下保管路の奥から金属が崩れる大きな音が響いた。
ラストが、白いコアの方へ向かっていた。
コメント
1件
いやもう、第268話もめっちゃ熱かった…!匠の「全員が帰れる順番を選べ」って台詞、グッときたわ。ラストに迫られてる状況で、自分のことよりみんなの帰還を優先するところ、匠らしいよな。エリウスの案内層でラストを一時的に逸らせたのは良かったけど、白いコアの存在が新たな火種になってて…次どうなるか気になりすぎる。ハレルと匠、どっちを先に戻すか、答え出す時間がもう残ってない感じがヒリヒリするわ。続き待ってる🔥