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Side佐久間
都市伝説とか、怪談とか、そういう“ちょっと怖い話”が昔から好きだった。
いや、正確に言えば「怖いけどロマンがある話」って言ったほうが近いかもしれない。たとえば吸血鬼とか、人魚とか、雪女とか。
実在するかなんてどうでもいい。そこに物語があるなら、俺は惹かれてしまう。
そんなわけで、今俺が書いてる卒論のテーマは──
「近代日本における吸血鬼伝承と、その変遷に見る人間の死生観」。
……うん、タイトルだけ聞くとちょっと痛いよね。自分でもそう思う。
けど、大学院まで来てこのテーマを本気でやってるのは、たぶん俺くらいだと思う。
ゼミの教授からは「ホラー研究家になる気か?」って笑われたけど、それでも資料を漁るのが楽しくてしょうがないんだよな。
中でも最近気になってるのが、某区の古い図書館に眠る“未整理文書”の中にあると噂されてる「明治期の吸血事件の記録」。
──だから俺は、週に何度もその図書館に通っている。
閉館間際の静まり返ったあの場所が、妙に落ち着くのはたぶん気のせいじゃない。
静かで、時間が止まってるみたいで。
俺以外誰もいないこの空間に、本のページをめくる音だけが響いてる。
──いや、正確には、俺以外にも“誰か”はいた。
気づいたのは、三回目くらいにこの図書館に来たときだった。
閉館の30分前、資料室の奥でカートを押してる人影がちらっと見えた。
グレーのカーディガンを着てて、髪は黒くて整ってて。
……男の人だったと思う。けど、妙に存在感が薄くて、こっちが意識しなければ通り過ぎてしまうくらい静かな気配だった。
「……あの、すみません」
思いきって声をかけたのは、それから数日後。
古い郷土資料の棚を探しても見つからなくて、半分諦めかけてた時に、ふと視界の隅にその人が映った。
「……何かお探しですか?」
静かな声だった。
でも、耳に届いた瞬間、まるで水面に音が落ちたみたいに、胸の奥がひんやりと揺れたのを覚えてる。
「あ、はい。えっと……明治期の民間伝承について調べてて。都市伝説とか、古い噂話とか……そのへんの資料って、このあたりに──」
「吸血鬼、ですか?」
「──え?」
思わず聞き返した。
なんで知ってるんだよ、ってちょっと笑いそうになったけど、その人は冗談とかじゃなくて、本気の顔で俺を見ていた。
「今のところ、整理されていない資料が別室に保管されています。許可を取れば、閲覧も可能です。案内しましょうか」
そう言って微笑んだその人の目は、図書館の薄明かりの中で、ほんの少し……
何か、夜を閉じ込めたみたいに、光って見えた。
「……あ、でもこんな夜遅くにすみません。迷惑じゃなかったですか?」
俺がそう聞くと、その人──名札には“阿〇亮平”と書いてあった──は、ゆっくり首を横に振った。
「いえ。僕はもともとこの時間の担当ですから」
「へぇ〜、夜専門なんですね。なんかちょっとカッコいいっすね。闇の番人みたいな感じで」
思わず言った俺の言葉に、阿部さんが少しだけ眉を上げた気がした。
けど、怒ってるわけじゃなさそうで、むしろ少し困ったような顔だった。
「……番人というほど立派なものじゃありませんよ。ただの司書です」
「いやいやいや、普通に夜の図書館ってロマンあるじゃないですか。俺、小さい頃からそういうの大好きだったんですよ。閉館後に動き出す本棚とか、誰も知らない秘密の書庫とか──あっ!もしかしてここってそういう“隠し部屋”とか、あるんですか!?」
テンションが上がって、思わず身を乗り出してしまった。
静まり返った館内に、俺の声が反響する。
──しまった、って思った時にはもう遅かった。
「……もう少し声を落としていただけますか」
低く、けれど柔らかい声で、阿部さんが俺を見ていた。
「ここは図書館です。資料にも、周囲にも、敬意を持ちましょう」
「あ……すみません……!」
反射的にぺこりと頭を下げた俺に、阿部さんはほんの少しだけ、目元をゆるめた。
「知的好奇心は、歓迎します。ですが静かにお願いしますね」
阿部さんは俺の視線に気づいたように、ふっと目を細めて、にっこりと微笑んだ。
「いえ、それでは。何かありましたら、また声をかけてください」
そう言って、すっと身を翻すと、静かに資料室の奥へと歩いていった。
足音も気配もほとんど残さないその背中を、俺はしばらくぼうっと見送ってしまった。
なんなんだろう、あの人。
司書って、もっとこう、事務的というか淡々としてるイメージだったのに……
丁寧なのに、どこか冷たくて、でも優しくて。
言葉ひとつひとつが、妙に耳に残る。
──ていうか、なんで「吸血鬼ですか?」なんてピンポイントで言ってきたんだろ。
疑問と興味と、ちょっとしたざわつきが、胸の奥でふわふわと浮かび上がる。
再び静寂に包まれた資料室で、俺は椅子に腰を下ろし、古い民俗学資料のページを慎重にめくっていく。
黄ばんだ紙に滲んだインク。手書きの仮名遣いに少し戸惑いながらも、目を凝らして読み進めていた。
「……“夜を生きる者は、人の姿を借り、己を偽り、長命の代償に孤独を背負う”……」
それが、“吸血鬼”について書かれた明治期のフィールドノートだった。
筆者不明、年月日もあいまいなまま。けれど、あきらかに何かを見た者の手で書かれている、そんな生々しさがあった。
次のページに目を移すと、ふと一文が目に留まった。
──“稀に、彼らの瞳は翡翠のような緑を湛えることがある”。
……緑?
その瞬間、ふと頭の中で再生されたのは、さっきの阿部さんの横顔だった。
あの微笑んだときの目。図書館の薄暗い灯りに照らされて、一瞬だけ──たしかに、緑だった気がする。
いや、待て待て、そんなバカな……
偶然だろ、ライトの反射とか。そもそも、緑の目の人なんて普通にいるし。
でも、あの光は──まるで宝石みたいだった。
吸い込まれるような、不思議な深みがあって、目が離せなかった。
「…………」
ページをめくる手が止まる。心臓が、ひとつ強く脈打った。
さっきまではただの好奇心だったのに、今は──何か、知らないほうがいい真実に触れかけているような、そんな予感がしていた。
―――――――――――
翌日。授業が早く終わった俺は、いつもよりだいぶ早い時間に図書館を訪れた。
昨日のあの資料が気になって、というのもあるけど──
本音を言えば、また阿部さんに会いたかった。
あの落ち着いた声、穏やかな笑顔、それから……やっぱり、あの瞳の色。
「……こんにちはー」
入口で挨拶しながら中へ進み、こっそり資料室の奥を覗く。
けど、そこに阿部さんの姿はなかった。カートもないし、あの静かな足音も聞こえない。
(まだ来てないだけかな……)
そう思って、数時間粘ってみたけど、彼が現れる気配はなかった。
閉館時間が近づいてきたころ、俺はカウンターの職員っぽい女性に思い切って声をかけてみた。
「あの、昨日の夜ここでお仕事してた、阿部さんっていう人……今日はお休みですか?」
その女性は少し驚いた顔をして、すぐに優しい笑みに戻った。
「ああ、阿部さん? あの人は夜間専門なのよ」
「……夜間専門?」
「うん、開館時間の後半、それも夕方以降にしかいらっしゃらないの。昼間にはまず見ないわねぇ」
「そうなんですね……」
少しがっかりした声が出たのが、自分でもわかった。
でも、続けて返ってきた言葉が、さらに気になった。
「不思議な人よねえ。とっても丁寧で物腰も柔らかくて、それでいて……なんだか、いつの時代の人なのか分からないような雰囲気があるというか」
「……たしかに、ちょっとだけ、そんな感じします」
「でしょ? ふふ、でも図書館の人間には人気があるのよ。利用者にも優しいし、資料の扱いも驚くほど綺麗でね。あの人が触った本って、まるで時間を巻き戻されたみたいに綺麗になるの。不思議よねぇ」
そう言って職員さんは首をかしげて微笑んだ。
俺はなんとなく笑い返しながら、その言葉の一つひとつが、昨日の記憶と重なっていくのを感じていた。
夜にしか現れない司書。
宝石のような緑の瞳。
そして、“吸血鬼”という言葉を、初対面の俺に口にした人。
──偶然だとしても、できすぎてる。
俺はそのまま、誰もいない資料室の椅子に腰を下ろして、昨日のノートをもう一度広げた。
そして思った。
今日の夜も、ここに来よう。もう一度──彼に会ってみたい。
――――気づけば、薄暗い資料室の天井が、視界いっぱいに広がっていた。
頬に触れるのは硬い机の感触。開きっぱなしのノートと、こぼれ落ちたシャーペン。
ああ、やっちゃった……寝てたのか、俺。
「……佐久間さん」
その瞬間、頭上から聞こえてきた声に、心臓が跳ねた。
「……阿部さん……?」
ゆっくり顔を上げると、そこには確かに彼がいた。
静かな図書館の空気を乱すことなく、いつの間にか隣に立っていたその人は、俺を見下ろして、ほんの少しだけ眉を寄せていた。
「こんな場所で眠ってしまうなんて。風邪をひきますよ」
いつもの穏やかな声。でも、その中に少しだけ、責めるような響きが混じっていた。
「す、すみません……。今日、どうしてももう一度会いたくて、待ってたら……」
言い訳じみたことを口走ってから、しまったと思った。
別に“会いたい”って、そんな……恋人でもあるまいし。
けれど阿部さんは、特に驚くでもなく、ただ静かに目を細めた。
「……それは、光栄です」
言葉に照れも怒りもなく、ただまっすぐに。
まるで、本当にそれが“珍しいことではない”かのように。
「でも、佐久間さん。夜の図書館には、不思議なものが集まります。好奇心もほどほどにしておかないと、眠っている間に連れて行かれてしまいますよ」
そう言って、いたずらっぽく笑うその顔は、やっぱりどこか“人間離れ”していて──
俺の胸の中で、昨日の“緑の瞳”の記憶がまたゆっくりとよみがえる。
「……じゃあ、阿部さんはその“連れて行く側”なんですか?」
半分冗談、半分本気でそう聞くと、阿部さんは少しだけ黙った。
そして――
「……それは、どうでしょうね」
含みのある微笑みを残して、阿部さんはふいに視線を落とした。
俺もつられるように下を見て、はっとする。
「……あれ?」
「どうかしましたか?」
「いや……さっき“佐久間さん”って呼びましたよね。俺、名乗ってないですよね?」
そう。昨日も今日も、俺は一度も名前を名乗っていない。
けど阿部さんは、さっき自然に俺の名前を口にした。
「……まさか、図書カードとか調べたり……?」
冗談半分で聞いてみたけど、阿部さんは肩をすくめ、机の上を指差した。
「筆箱に、書いてありますよ。わりと大きく」
「……あ」
俺は慌てて筆箱をつかむ。
黒いナイロン地の表面に、白インクのペンで自分の名前がしっかり書いてある。
「まじか……俺、恥ずかし……」
「持ち物に名前を書くのは、紛失防止に有効です。いい心がけだと思いますよ」
笑うわけでも茶化すわけでもなく、阿部さんは本気で言っているらしい。
俺はなんとなく照れくさくて、咳払いでごまかした。
「……じゃあ、その“いい心がけ”の俺からひとつ質問してもいいですか?」
「どうぞ」
「阿部さんって、“吸血鬼”って信じてます?」
その瞬間、空気がほんのすこしだけ、張りつめたような気がした。
けど阿部さんは、表情を崩すことなく、淡々と首を傾げた。
「それは、伝承としてですか? あるいは、実在するものとして?」
「うーん、どっちでもいいです。俺、卒論のテーマが“吸血鬼と死生観”で……まぁ、ちょっと変わってるってよく言われるんですけど」
そう言って笑うと、阿部さんはほんのわずかに目を細めた。
「変わっているとは思いません。人は、理解できないものにこそ惹かれるものです」
「じゃあ……阿部さんはどうですか? 信じる派? 信じない派?」
阿部さんは少しだけ考えるそぶりを見せたあと、静かに答えた。
「……世の中には、信じられないほど長く生きている存在も、いるかもしれませんね」
「……おお、それって信じてるってことでいいんですかね?」
「ご想像にお任せします」
そう言って、また例の含み笑いを浮かべる阿部さん。
──やっぱりこの人、どこか“人じゃない”感じがする。
けど、それなのに、どこか……安心する。
――――――――――――
気づけば、図書館に通うのが習慣になっていた。
目的はもちろん卒論資料を集めること。……のはずだったんだけど。
「佐久間さん、昨日の続きの文献はこちらです。1868年の記録ですね」
「うわっ、助かります……阿部さん、ほんとなんでも知ってますよね」
「図書館の資料ですから。“知っている”というより、“探せる”が正確です」
「いやいや、それでもこの文献、俺三回くらいスルーしてましたよ……。マジで阿部さん、歩く検索エンジンみたいっすね」
思わず笑いながら言うと、阿部さんは小さく首を傾げた。
「検索エンジン……それは褒め言葉として受け取ってよろしいんでしょうか?」
「もちろんです!」
返事をしながら、俺は自然と彼の顔を見ていた。
整った横顔、落ち着いた声、そして──あの、たまに翡翠みたいに見える瞳。
変わってる。なんか不思議。だけど、不快じゃない。むしろ……心地いい。
「……あの、もし良ければ、またちょっと教えてもらってもいいですか? なんか自分だけじゃ限界感じてきてて……」
「もちろん。知の共有は図書館の本懐ですから」
そう言って微笑んだ阿部さんは、まるで最初から、俺がここに来ることを知っていたみたいだった。
日を追うごとに、阿部さんと話す時間は自然と増えていった。
卒論の話、資料の話、昔の伝承にまつわる都市伝説──それだけじゃなく、たまにごく普通の雑談も交えるようになった。
「佐久間さんは、血が苦手ですか?」
「え、唐突ですね!? ……まぁ、別に平気ですけど」
「そうですか。人によっては、見るだけで倒れてしまう方もいらっしゃいますから」
「そっちの方が“普通”っぽいですけどね。てか阿部さん、めっちゃそういう話題ぶっこんできますよね。もし吸血鬼だったらどうしようって思いますよ、マジで」
冗談まじりに言った俺の言葉に、阿部さんはまた例の、意味ありげな微笑みを浮かべた。
「……もしそうだったら、どうしますか?」
「うーん……取材させてください?」
「ふふ、面白い答えですね」
……なんなんだろう、この人。
妙に知識が豊富で、会話も独特で、でもどこか落ち着く。
ふと資料のページをめくっていたときだった。
阿部さんが机の上にそっと置いた文献と、俺の手が重なった。
「あ──」
ほんの一瞬。触れただけだった。
けれど、その一瞬で、俺の指先に走った感触は……明らかに“普通じゃなかった”。
冷たい──なんてもんじゃない。
まるで氷に触れたみたいだった。肌の上を、ぴり、と冷気が這ったような錯覚すらある。
「あれ……阿部さん、手……すごい冷たくないですか?」
咄嗟に顔を上げて問いかけた俺に、阿部さんはしばらく沈黙したまま、じっと俺の目を見ていた。
そして次の瞬間、ふわりと──いつものように、優しく微笑んだ。
「……そうでしたか?」
それだけだった。
まるで、自分の体温が異常だということに気づいていないみたいな、静かな表情。
けれど俺の心臓は、ドクンと跳ねた。
(……いや、でも、本当に冷たかったよな……?)
脳裏をよぎるのは、あの日資料で読んだ一節。
──「夜を生きる者は、体温が極端に低く、まるで死者のような肌をしている」
まさか。そんなはず、あるわけがない。
でも──
俺の指先には、まだあの冷たさが残っていた。
――――――――
それから、俺は図書館に足を運べなくなった。
いや、行こうと思えば、行けた。
だけど、どうしても体が動かなかった。
あの時、偶然触れた阿部さんの手。
あれは――明らかに人間の温度じゃなかった。
冬の金属のような、張りつくような冷たさ。
それが“病気”とか“体質”なんかじゃないってことは、直感が教えていた。
──もし、あの人が吸血鬼だったら?
──あの瞳の色も、夜しか姿を見せないことも、すべてが本当だったとしたら?
……俺は、どうする?
自分で選んだ卒論のテーマ。都市伝説、怪異、死と生の境界。
それを“学問”として扱うつもりだったのに――まさか、自分が巻き込まれるなんて思ってなかった。
それに、なにより困ったのは……怖がるどころか、
俺の中のどこかが、あの冷たさをもう一度確かめたがってるってことだ。
なんなんだよ。
なんで、あの人のことがこんなに気になるんだよ。
阿部さんのことを考えるたびに、胸の奥がざわついて、落ち着かない。
もしかして“人じゃない”かもしれないってのに、それでも会いたいって思ってしまう。
……やばいな、これ。
ため息をつきながら、自室の机の上にある文献に目をやった。
阿部さんから借りたままの、あの資料。まだ返していない。
──返さなきゃ。
借りたままの資料。阿部さんに返さなきゃ。
ようやく決心して、俺は図書館に向かっていた。
夕暮れがすっかり沈みきって、街灯の灯りだけがぽつぽつと浮かぶ静かな路地。
日中の喧騒が嘘のように、あたりにはほとんど人の気配がなかった。
そのときだった。
「おい、そこの兄ちゃん」
背後から低い声が響いた。思わず振り返ると、黒いフードを被った男が二人、こちらに向かって歩いてくる。
顔はよく見えない。ただ、背中に冷たい汗がにじむ。
やばい、って本能が言ってる。
「ちょっと財布出してくれねぇ?」
「……は?」
足がすくむ。頭が真っ白になる。
「な、なんの話ですか、俺……」
「は? 聞こえなかったか?」
一人が一歩近づいてきた瞬間、脳がやっと現実を理解した。
──これ、襲われる。
「……っ!」
反射的に背を向け、駆け出していた。
スニーカーの足音が、夜の静寂を切り裂くように響く。
後ろから怒鳴り声と追いかけてくる足音。近い、近すぎる。
(やばいやばいやばい! 誰か──!)
スマホを取り出す余裕なんてない。
何かにぶつかって転びそうになりながら、裏路地へ逃げ込む。だが、道は細く、どこまでも暗い。
「クソッ……!」
路地の先にある塀を乗り越えようとした瞬間、足がもつれ、地面に倒れ込んだ。
腕が擦れてズキッと痛む。振り返れば、男の影がもう目前まで迫っている。
「やめっ……来んな……!」
声は震えていた。助けを呼ぶにも、喉がうまく動かない。
(だれか……っ)
(もう、だめだ──)
息が上がり、視界が揺れる。
膝が震えて立てない。
迫り来る男の影が、まるで悪夢のように覆いかぶさる。
「終わりだな、坊や」
乾いた笑いとともに、男が腕を振り上げた。
その瞬間だった。
「……その手を、下ろしてください」
どこか低く、けれど澄んだ声が、暗がりに響いた。
「……あ?」
男たちが振り返る。
そこに立っていたのは、ひとりの男。
薄闇の中でもはっきりとわかる、白い肌と整った顔立ち。
グレーのカーディガン。――阿部さん。
けれどその姿は、図書館で見たときの穏やかな雰囲気とは明らかに違っていた。
風もないのに、彼の服の裾がふわりと揺れている。
月明かりの下、瞳が……光っていた。
それはまるで、濡れた翡翠が夜を映したような、非現実的な緑。
「お、おい……誰だこいつ」
「関係ねぇなら下がってろ!」
そう怒鳴った男が、阿部に向かって走りかかろうとした、その瞬間だった。
──風の音すらしなかった。
気づいたときには、男の体が宙に浮いていた。
阿部の手が、まるで何でもないものを払うように男の胸元を軽く押していた。
「がっ……!」
空気を裂くようにして、男の体が後方の壁へ叩きつけられる。
骨の砕ける音が、生々しく響いた。
もう一人の男が悲鳴をあげて逃げようとするも、阿部は一歩も動かずに、ただ視線を向けた。
その目を見ただけで、男は震え上がり、まるで足が地面に縫い付けられたように動けなくなる。
「──行きなさい。二度と、彼の前に姿を見せないことです」
低く、凍りつくような声だった。
男は力尽きたようにうずくまり、ようやく逃げていった。
阿部はそれを見送ることなく、ゆっくりと振り返った。
「佐久間さん、大丈夫ですか?」
そこには、見慣れた柔らかい微笑み。
けれど──俺にはもうわかっていた。
今目の前にいるこの人は、人間じゃない。
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