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#お友達探し
けいか🎼
2,364
海愛
4,368
世界は、いつだって白黒に見えていた。
誰もが綺麗だと口を揃える虹も、俺の目には白と黒が並んだだけの、何の変哲もないものにしか映らなかった。
花も、空も、人の笑顔も。
何もかもが同じ色をしている。
俺を楽しみに訪れる人たちの心だって、きっとそうだ。
笑顔の裏に何を隠しているのかなんて、考えたこともない。どうせ、みんな同じ。俺という人間ではなく、俺の持つ何かを見に来ているだけなのだから。
「……」
コン、コン、コン
静かな部屋に、控えめなノックの音が響いた。
「暇ちゃん、お昼の時間だよ」
扉の向こうから、聞き慣れた声がする。
「いらない……」
布団に顔を埋めたまま、短く返事をした。
「だーめ。ちゃんと食べなきゃダメだよ? 健康管理も大事なんだから」
いつものように、優しい声。
けれど、今の俺にはそんな言葉さえ煩わしかった。
「俺が骨みたいな細さになったら、あいつらはもう来ないんだろ? じゃあ、いらない」
ぽつりと吐き出した言葉。 自分でも驚くほど、冷めた声だった。 どうせ、俺がどうなろうと関係ない。 綺麗な衣装を着て、笑って、求められた言葉を口にする。
それができなくなれば、きっと誰も俺を見なくなる。 だったら、もう何もいらない。
しばらく、返事はなかった
怒らせただろうか。呆れられただろうか。 そう思っていると、扉の向こうから小さな声が聞こえた。
「……それでも食べて」
いつもより、少しだけ弱々しい声だった。
「俺は、君が消えたら悲しいよ」
「…」
「お昼、ここに置いておくね。食べられそうになったらでいいから」
足音が遠ざかっていく。俺はしばらく見つめから、ベットから降りて、ゆっくりと扉を開けた。
廊下には、誰もいない。
足元に置かれたトレイには、綺麗に盛り付けられた昼食が並んでいた。
(…また、この料理か)
目に入ったのは、白い皿に盛られた料理と、湯気の立つシチュー。
すちの料理が食べたかったのに。
いつも用意されるのは、専属のシェフが作った豪華なものばかり。見た目も味も申し分ないのだろう。きっと、他の人間なら喜んで食べる。
けれど、俺はあまりこの味が好きじゃなかった。
(すちの作るシチューの方が美味しい)
野菜の大きさも、少し焦げたパンも、あいつが作るものにはどこか温かみがあった。
高級な食材を使っているわけでもない。 特別な調理法があるわけでもない。
それなのに、すちの料理は美味しかった。
「あいつが世話係なら、あいつにも料理作らせればいいのに…」
ぽつりと呟く。
そもそも、どうして料理まで別の人間が用意する必要があるのだろう。
俺の世話をするのは、あいつなのに。
そんなことを考えながら、俺はシチューの置かれたトレイを持ち上げた。
そして、誰もいない廊下を一度だけ見渡してから、再び部屋の中へと戻った。
ベッドの縁に腰を下ろし、トレイを膝の上に置く。白の スプーンを手に取り、シチューをひとすくいして口へ運んだ。
「…まず」
そんな言葉が漏れる。
何が悪いというわけでもない。きっと、きちんとした料理なのだろう。けれど、俺の舌にはどうにも合わなかった。
数口も食べないうちに、スプーンを皿の脇へ置く。
もういい。
そう思ってトレイをベッド脇に置くと、今度は本でも読もうとベッドから降りた。
部屋の隅にある、背の高い木製の本棚。彫刻の施された扉を開け、並んだ背表紙に目を向ける。
(あ、また本が増えてる…)
見覚えのない本が、何冊か新しく並べられていた。 白雪姫、眠り姫、人魚姫。
どれも、子供向けのおとぎ話だ。 きっと、お母様が用意させたのだろう。
俺がこういう物語を好むと思っているのか、それとも、ただ読ませたいだけなのか。
理由は知らない。 一冊ずつ背表紙を指でなぞり、しばらく眺める。
どの物語にも、王子様やお姫様が出てくる。
綺麗なドレスに、輝く宝石。魔法に、不思議な生き物。そして最後には、幸せな結末。
…本当に、そんなものがあるのだろうか。
俺は一番端に置かれていた、濃い黒の表紙の本を手に取った。
「不思議の国のアリス……」
表紙に書かれた題名を、ぽつりと読み上げた。
懐かしい。
小さい頃、夜になってもなかなか眠れなかった俺に、すちが読み聞かせてくれたことがあった気がする。
あの頃は、まだ今ほど退屈ではなかった。
すちは本を読むのが上手だった。登場人物によって声を変えたり、時には大袈裟に身振りをつけたりして、俺を楽しませてくれた。
その中でも、俺はこの物語に出てくる人物が好きだった。
マッドハッター
いつもお茶会をしていて、お喋りが大好きで、会う人会う人になぞなぞを出してくる。 少し変わっていて、何を考えているのか分からない。
けれど、不思議と目が離せなかった。
(…いいな)
俺は本を胸元に抱えた。
あの帽子屋なら、きっと退屈しないだろう。
どれだけくだらない話をしても、どれだけ同じことを尋ねても、きっと飽きずに相手をしてくれる。
今の俺には、そんな相手が必要だった。
毎日同じ時間に起きて、同じ食事をして、同じように人形のような笑顔を浮かべる。
そんな日々には、もう飽き飽きしていた。
「…マッドハッター」
小さく名前を呼んでみる。
もちろん、返事なんてない。
俺は本を開き、窓から差し込む午後の日差しの中で、ゆっくりとページをめくった。
いつか、この白黒の世界にも、不思議なことが起きればいいのに。
その日の昼下がり
俺は、使用人たちに囲まれながら、フリルのたっぷりついたドレスに着替えさせられていた。 胸元には小さなリボン、袖口には繊細なレース、スソにも幾重にもフリルがあしらわれている。
鏡の中には、着飾られた俺の姿が映っていた。
「あぁ、なつサマ! とてもお美しいです!」
「ただ出かけるだけだろ、どうしてこんな…」
「奥さまからだよ、暇ちゃん」
その声とともに、すちが奥の部屋から出てきた。 手には、外出用の日傘を持っている。
「……そうか」
母様の言いつけなら仕方がない。
俺はそれ以上何も言わず、用意された靴に足を通した。 すちとともに馬車へ乗り込み、屋敷を後にする。
窓の外には、石畳の道を行き交う人々。商店の軒先には色とりどりの商品が並び、通りには焼き菓子の甘い香りが漂っていた。
もちろん、俺の目にはそのすべてが白黒に映っているけれど。
「暇ちゃん、今日は何を買いに行くんだっけ?」
「紅茶のクッキー」
「ふふ、そうだったね。あと、お茶会のお洋服も見に行くんでしょ?」
「……うん」
今度、屋敷で開かれるお茶会。
母様の知り合いや、名家の方々が集まるらしい。俺はそこに座って、愛想よく微笑んでいればいい。
店に着くと、すちが店員に声をかけ、いくつかの商品を並べてもらった。
紅茶の葉に、焼き菓子。それから、綺麗に包装されたクッキーの箱。
買い物を済ませたあと、俺たちは洋服店へ向かった。
「いらっしゃいませ。あら、なつ様!本日はどのようなものをお探しで?」
「次のお茶会で着るお洋服を」
すちがそう答えると、店員は嬉しそうに何着かのドレスを持ってきた。
「こちらはいかがでしょう? こちらもお似合いになると思いますよ」
「暇ちゃん、どれがいい?」
「……どれでもいい」
「えぇ、ちゃんと選んでよ」
すちは困ったように笑いながら、俺の顔を覗き込んだ。
「じゃあ、これは?」
「……分からない」
「こっちは?」
「それも」
並べられたドレスを眺める。 どれも違う形をしているし、飾りだって違う。
けれど、俺には全部が白黒だ。
すちの言う、赤いリボンも、青い刺繍も、淡い桃色のレースも… 俺には、違いが分からない。
「……すち」
「ん?」
「俺には、何色が綺麗なのか分からないよ」
そう言うと、すちは一瞬だけ目を丸くした。 それから、俺の頭を優しく撫でる。
「そっか。じゃあ、俺が暇ちゃんに似合うと思うものを選んでもいい?」
「……うん」
「任せてね」
すちは、並べられたドレスを一着ずつ見比べ始めた。 俺はその横顔を眺めながら、ふと思った。 すちには、世界がどんなふうに見えているのだろう。
俺と同じ景色を見ているはずなのに、どうしてそんなに楽しそうなのだろう。
「ぁ……」
ふと、通りの向こうに目が留まった。
本屋だ。
大きな窓からは、壁一面に並べられた本棚が見える。店先にも何冊か本が積まれていた。
そういえば、近々フランスから来客があると聞いた。 せっかくだし、フランス語の本でも買おうか。昔に習ったものの、最近はあまり使っていない。少しくらい復習しておきたい。
「すち、あそこ行っていい?」
「え? あ、待ってね。すぐ決めるから」
すちはドレスを二着手に持ったまま、悩ましげに眉を寄せていた。
どうやら、まだ決められそうにない。
(…時間がかかりそうだな)
俺は店先に並んだドレスを一瞥してから、すちに声をかけた。
「俺、一人で行くよ。日傘持たせて」
「えっ、でもそんな…暇ちゃんを一人にするなんて」
「大丈夫。俺、そこまで弱くないから」
「でも…」
「すちが選び終わるまでには戻るよ」
そう言って手を差し出す。
すちは少し迷ったあと、持っていた日傘を俺に渡してくれた。
「……分かった。でも、あまり遠くに行かないでね?」
「うん」
「知らない人についていっちゃダメだよ?」
「子供じゃないんだから」
「ふふ、ごめんごめん」
すちの困ったような笑顔を背に、俺は本屋へと歩き出した。 店の扉を開けると、からん、と小さな鐘が鳴る。
外の喧騒が遠のき、紙とインクの匂いが鼻をくすぐった。
「……いい匂い」
思わず、小さく呟く。
本棚の間をゆっくり歩きながら、フランス語の書籍が置かれた棚を探し始めた。
「んしょっ……」
背伸びをして、棚の上段に並べられた本に手を伸ばす。
指先が背表紙に触れる。あと少し、あと少しと手を伸ばして、ようやく一冊の本を引き抜くことができた。
「……取れた」
手にしたのは、フランス語の書籍だった。
近くの小さなテーブルに移動し、ページをめくってみる。
パラ、パラ。
「うん、あってる…あとはこれを買うだけ」
昔習った単語も、文法も、まだそれなりに覚えているらしい。 これなら、来客があっても困らないだろう。
本を閉じ、元の場所に戻そうとした、その時だった。 ふと、視界の端に何かが映った。
「……?」
隣の棚。
そこに並べられた一冊の本が、妙に目を引いた。
見たことのない色。
いや、正確には、色というものを見た記憶がほとんどない。 俺の世界は、いつだって白と黒でできていた。
花も、空も、宝石も。
誰かがどれほど美しいと褒め称えても、俺にはその違いが分からなかった。
なのに
その本だけは違った。
白黒の景色の中で、そこだけが淡く、けれど確かに輝いている。 まるで、そこにだけ別の世界が存在しているみたいだった。
気づけば、手を伸ばしていた。 指先で表紙をなぞり、そっと手に取る。
そこには、見覚えのある文字が並んでいた。
『不思議の国のアリス』
「…………」
息をするのも忘れて、表紙を見つめる。 どうしてだろう。 さっきまで読んでいた、あの本と同じ題名なのに。
屋敷の本棚にあったものとは、何かが違う。 俺はその場から動けなくなった。 この本は、一体何色なんだろう。
そして…どうして、俺にはこれだけが見えるのだろう。
興味本位だった。 ただ、どうしても気になってしまったのだ。
俺は本を両手で持ち、ゆっくりと表紙を開いた。
パラッ
最初のページには、見慣れた挿絵が描かれている。 白いウサギに、懐中時計。木々に囲まれた小さな道。
「……これ、知ってる」
小さい頃、すちに読んでもらった物語。
懐かしさに惹かれるように、もう一枚ページをめくった。
その瞬間だった。
パァァッ
「わわっ!?」
本の隙間から、眩しいほどの白い光が溢れ出した。
「な、なに……!?」
思わず本を閉じようとする。
けれど、指が動かない。
光は瞬く間に店内を包み込み、並んでいた本も、棚も、床も、すべてが見えなくなっていく。
「っ、すち……!」
呼ぼうとした名前も、光の中に溶けていった。
そして
俺の意識は、ぷつりと途切れた。
「_起きて!起きて!おーい!起きてってば!」
甲高い声が、遠くから聞こえてくる。
……うるさい。
声が大きい。頭に響く。
その声に混じって、もう一人、どこか焦ったような声も聞こえた。
二人もいる…誰だろう?
「……ん、ん……」
重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。
ぼんやりとした視界が、少しずつはっきりしていく。 すると、俺と同じくらいの歳の少年が二人、すぐ目の前からこちらを覗き込んでいた。
「わっ!?」
思わず声が出た。
「あ!やっと起きた!」
甲高い声が、また耳元で響く。 あぁ、こいつか… さっきからずっとうるさかったのは。
「誰…?」
「あっ、こさめだよー!で、こっちがみこちゃん!」
こさめと名乗った少年が、隣にいるもう一人を指差す。
「よかった…やっと起きてくれた」
みことと呼ばれた少年は、ほっと胸を撫で下ろしていた。
誰なんだ、この人たち… そもそも、ここはどこだろう? 本屋にいたはずなのに。
周囲を見渡そうとして、ふと気がついた。
「…………」
色。
目に入るものすべてに、色がついている。
草は鮮やかな色、空はどこまでも澄んだ色。近くに咲いている花は、それぞれ違う色をしていた。 木々の間から差し込む光さえ、温かみのある色を帯びている。
「わぁ……」
思わず、声が漏れた。
こんな景色、見たことがない。
いや、正確には知っているはずなのに、見たことがなかった。 俺の世界には、こんなにもたくさんの色があったのか。
「ねーねー、君、なんていうの?」
こさめが顔を近づけてくる。
「え?な、なつ……」
「なつくん!」
ぱっと花が咲いたように、こさめが笑った。
その笑顔も、ちゃんと色がついていた。
……不思議だ。
ここは、一体どこなんだろう。
「てか、それ……」
俺は、目の前にいるみことを指差した。 頭についている、三角形の耳。 背中から伸びる、長いしっぽ。
服も普通のものとは違う。なんだかどくみたいな色のシマシマの模様が入った、不思議な衣装を身につけていた。
「ん? あぁ…これ?」
みことは自分の頭に手をやり、少し照れくさそうに笑った。
「俺はチェシャ猫なんよ」
「チェシャ猫?」
「そそ!」
すごい。 本で読んだことがある。アリスを不思議な世界へ導く、あの猫だ。
本当に猫の耳やしっぽが生えているなんて。
「こさめはオイスター!」
こさめは元気よく両手を広げた。
「だいぶ前、オットセイに騙されてレストランの店主にカキフライにされるところだったんだー! 笑。みこちゃんが助けてくれたの!」
「笑い事やないで!」
みことがすかさず声を上げる。
「俺がおらんかったら、こさめちゃん食べられてたんやからね!」
「えへへ、ごめーん!」
「もう…」
みことは呆れたように息を吐いたあと、改めて俺の方を向いた。
「…あ、そうそう。俺たちは二人でハンプティ・ダンプティとも呼ばれてるんよ」
「ハンプティ・ダンプティ?」
「女王にその名を名乗れって言われてな」
そう言って、みことは肩をすくめた。
俺は二人を交互に見つめる。
チェシャ猫に、オイスター。 そして、ハンプティ・ダンプティ。
どれも聞き覚えのある名前だった。
「……ここって」
「ん?」
「不思議の国、なの?」
俺の問いかけに、二人は顔を見合わせた。 そして、こさめがにっこりと笑った。
「そうだよー!」
「ようこそ、不思議の国へ」
みことも、穏やかな声でそう告げた。
…本当に? 俺は膝の上に置いていた手を見つめた。 夢じゃない。 頬を撫でる風も、草の匂いも、二人の声も。 全部、本物だった。
「なつくんは、見た目的にアリスだね! 髪の毛の色は少し濃いかもだけど…服装はちゃんとアリス!」
こさめが俺の周りをくるりと回りながら、楽しそうに言った。
「アリス…?」
聞き覚えのある名前に、思わず聞き返す。 俺は自分の服装を見下ろした。
…あれ?
さっきまで着ていた、フリルだらけの重たそうなドレスがなくなっている。
代わりに身につけていたのは、膝丈ほどのスカートに、白いエプロンがついたワンピース。
袖口には小さなレースがあしらわれていて、胸元にはリボンまで結ばれていた。
まるで、物語に出てくるアリスそのものだ。
「濃い青色だね。似合ってるよ、なっちゃん」
みことが俺の服を見ながら、優しく微笑んだ。
「…これ、青色って言うの?」
「?うん」
みことは不思議そうに首を傾げた。
青色。 これが、青。
俺はもう一度、自分の服を見つめた。
白黒の世界では、どんな服もただの濃淡にしか見えなかった。
けれど、今は違う。
布地は深く澄んだ青色をしていて、エプロンは雪のように白い。
「……そっか」
小さく呟く。
「なつくん?」
「なんでもない」
こんなに綺麗な色があったんだ。
俺は、自分の袖をそっとつまんだ。
この世界なら、今まで知らなかったものを、もっと知ることができるのかもしれない。
(ずっと、この世界にいればいいのかもしれない)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
ここには、知らないものがたくさんある。 見たことのない色も、聞いたことのない声も、物語の中でしか知らなかった住人たちもいる。
毎日同じ時間に起きて、窮屈なドレスを着せられて、誰かの顔色を窺いながら過ごす必要もない。
(あそこにいたら、毎日嫌なドレスを着せられて…それで、)
「……」
『暇ちゃん』
「…っ」
脳裏に、すちの声が浮かんだ。
そうだ、 すちがいる。
俺が突然いなくなったら、きっと心配する。もしかしたら、今頃必死になって探しているかもしれない。
(ダメだ、戻らなきゃ…)
俺は顔を上げ、二人を見た。
「ねぇ、この世界から戻れる方法はない?」
すると、こさめとみことは一瞬だけ目を合わせた。
「…みーんな、そうやって考えてたよ?」
「え…?」
「でもね、残念…戻れないんだ」
みことは、にこりと笑った。 その笑顔は、先ほどと何も変わらない。 なのに、どうしてだろう。 ひどく寂しそうに見えた。
「……え?」
「こさめたちも、最初は帰りたかったよ?」
こさめは自分の胸元に手を添え、ゆっくりと言葉を続ける。
「お家に帰りたいって、何度も思った。でもね、帰れないの」
「……そんな」
「なつくんも、すぐ慣れるよ!」
こさめは再び、いつもの明るい声に戻った。
けれど、俺は笑えなかった。
帰れない。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 俺には、まだ帰らなければならない場所がある。
俺を待っている人がいる。
「……すち」
小さく名前を呼んだ。
この世界の空は、こんなにも綺麗なのに。
初めて見る色で溢れているのに。
どうして今は、こんなにも心細いのだろう。
「……」
俺が俯いたまま黙っていると、みことがゆっくりと腰を落とした。
俺と目線を合わせるように、しゃがみ込む。
「それなら、白うさぎを追いかけるとええよ」
「…白うさぎ?」
「まぁ、白要素はそんなにないんだけど…髪の色は、そこの葉っぱと同じくらい濃い緑。目はりんごの色…赤だよ」
みことが近くの木を指差した。 枝に茂る葉っぱと、そこに実っているりんご。
緑と、赤…
「白うさぎくんなら、何か知ってるかも。聞いてみて。あと、多分あっちかな」
そう言って、みことは森の奥を指差した。
そこは、木々が生い茂り、先ほどまでいた場所よりもずっと暗い。
「……うん、ありがとうっ!」
俺は立ち上がり、二人に背を向けた。
帰れるかもしれない。
その可能性があるのなら、確かめないわけにはいかない。
俺は教えられた方向へと走り出した。 小さな足音が、草の上に響いていく。 その背中が見えなくなるまで、二人はその場に立っていた。
「…なんで、教えちゃうの?」
こさめが、隣にいるみことを見上げる。
「どうせ帰らないのに」
「俺らみたいに、現実を見た方がええかな思って」
みことは、なつが走っていった方向を眺めたまま答えた。
「みこちゃんって、たまに酷いことするよねー」
「…そうかな」
「それにさ、あっち、白うさぎくんが走ってった方じゃないじゃん」
こさめは森の奥を指差した。
「あの狂った帽子屋がいるところだよ?」
「……知ってるよ」
「えー!?笑」
みことは小さく息を吐いた。
木々の隙間から、遠ざかっていく小さな背中が見える。
「…あの子、あの場所に行ったらどうなるんやろね」
「さぁ?」
こさめは、いつものように笑った。
「でも、ちょっと面白くなりそう!」
二人の声は、森を吹き抜ける風に乗って消えていった。
みことに教えてもらった方向を頼りに、俺は森の中を一生懸命走り続けた。
「はぁっ、はぁ…っ」
息が切れる。
日頃から運動なんてほとんどしてこなかった俺にとって、こんなに長い距離を走り続けるのは初めてだった。
ドレスの裾を片手で持ち上げながら、なんとか足を前に進める。
「……っ、もう少し」
そう自分に言い聞かせた、そのとき。
ふいに、目の前の景色が開けた。 木々が途切れた先に、見慣れない建物がそびえ立っている。
円筒形の、珍しい造りの家だった。
(ここは……)
周囲には小さな花が咲き、庭にはいくつもの椅子やテーブルが置かれている。
その中央には、少し開いた門があった。
俺は恐る恐る近づき、少し汚れた木製のゲートに手をかける。
ギギギ…
古びた音を立てながら、門が開いた。
(?誰かいる)
庭の奥に、白く長いテーブルが置かれていた。
その上には、紅茶の入ったティーカップに、クッキー、ケーキ。それから、食べかけらしい焼き菓子まで並んでいる。
そして、そのテーブルの向こう側。
一人の人物が、退屈そうに頬杖をついて座っていた。
「誰だ」
低く、少し気だるげな声。
俺は思わず足を止めた。
その人は、みことに教えてもらった特徴を持っていた。
濃い緑色。 …ただし、髪ではなく服装だった。
身体には深い緑色の衣装をまとい、頭には大きな帽子を被っている。
帽子の飾りも、服の模様も、どこか奇妙で目を引くものばかりだった。
一方、髪の色はというと。
(……紫、だっけ?)
みことが着ていた服と同じような色。
俺は目の前の人物をじっと見つめた。
もしかして。
この人が
「……あの、あなたが」
言いかけたところで、相手がゆっくりと顔を上げた。
「ん?」
帽子の影から、こちらを見つめる瞳。
その口元には、どこか面白がるような笑みが浮かんでいた。
「白うさぎ……ですか?」
「あ?」
彼は頬杖をついていた手を離し、心底理解できないといった顔で俺を見た。
「俺が、あの時間に厳しい、つまらない人生を送ってそうなスイカ頭だって言いたいのか?」
「え、スイカ……?」
何を言っているんだろう。
俺が首を傾げていると、彼はおもむろに椅子から立ち上がった。
そして、
スッ…
「っ、」
突然、顎を掴まれた。
乱暴に顔を持ち上げられ、彼の顔がすぐ目の前に迫る。
帽子の下から覗く紫色の髪。少し吊り上がった目元には、明らかな不機嫌さが浮かんでいた。
「……よく聞けよ、お嬢さん」
低い声が耳に届く。
「今お前のせいで、最高な気分が最悪の気分になった」
彼は俺の顎から手を離すと、面倒くさそうに手を払った。
「今すぐ俺の庭から出てけ」
「……っ」
怒らせてしまった。 どうやら、人違いだったらしい。 みことが言っていた特徴とは少し違う。
緑色の服に、帽子。 紫色の髪。
…それに、この円筒形の家。
俺は目の前の人物をもう一度見上げた。
(もしかして、この人が…)
「おい。聞こえてんのか?」
「あ、あの…!」
彼が踵を返そうとしたところで、俺は慌てて声を上げた。
「あなた、…マッドハッターですか?」
その言葉に、彼の動きがぴたりと止まった。
(本の中とは、全然性格が違う…けど)
けれど、不思議の国のアリスでお茶会を開いていて、いつも帽子を被っている人物といえば、一人しか思い浮かばない。
「マッドハッター …まぁ、そう呼ばれてる。女王の命令でな」
彼は帽子のつばを指先で軽く持ち上げた。
「ところで、お前はアリスか?」
「そ、そう!」
俺が答えると、彼は俺の服装を上から下まで眺めた。
「なるほどな。確かにそれらしい格好だ」
「あの、俺、白うさぎを探してて…」
「白うさぎ?」
途端に、彼の顔が露骨に歪んだ。
「やめとけ、あんなの。時間に執着してばっかのただの変態だ」
「へ、変態…?」
「俺の話にも全く乗らない。つまらないし、めんどくせーし。時計ばっか気にしやがって」
どうやら、相当嫌っているらしい。
本の中では、アリスと一緒にお茶会をしていたはずなのに。 俺の知っているマッドハッターとは、ずいぶん違う。
「……」
どうしよう。
白うさぎについて聞きたかったのに、これでは話を続けられそうにない。
そんなことを考えていると、彼は突然、テーブルの方へ歩き出した。
「そこ、座りな」
「え?」
「紅茶を出してやるよ」
そう言って、彼は空いている椅子を引いた。
先ほどまで追い出そうとしていたのに、今度はお茶に誘ってくる。
本当に、気まぐれな人だ。
「……いいの?」
「二度も言わせんな。気が変わる前に座れ」
俺は少し戸惑いながらも、彼が引いてくれた椅子に腰を下ろした。
目の前には、綺麗なティーカップ。 その隣には、焼きたてらしいクッキーが並んでいる。
「さて、アリス」
彼は自分のカップに紅茶を注ぎながら、にやりと笑った。
「お前、面白い話はできるんだろうな?」
「面白い話?うーん…」
面白い話と言われても、急に思いつくものではない。
そもそも、俺は誰かを楽しませるような話をしたことがほとんどなかった。
いつも話を聞かされる側だったし、会話だって必要最低限で済ませていた。
「…おい」
「?」
「名前は?アリスと呼ぶのはめんどくさい」
「なつ…!」
「なつ……ね」
彼はティーポットを傾け、俺のカップにも紅茶を注いだ。 それから、自分の帽子を軽く持ち上げる。
「俺はいるま」
「いるま……?」
「あぁ。狂ってなんかない。みんなが狂ってる」
そう言って、いるまは椅子に深く腰掛けた。
テーブルの上には、まだ湯気の立つ紅茶と、色とりどりの焼き菓子。
俺はカップを手に取り、そっと中を覗き込んだ。 透き通った琥珀色。
「…綺麗」
「ん?」
「紅茶。こんな色なんだね」
「紅茶なんだから当たり前だろ」
いるまは呆れたように言う。
けれど、俺はカップから目を離せなかった。
俺の世界では、紅茶もただの黒っぽい液体だった。 こんなに綺麗な色をしていたなんて。
「…お前、紅茶を見るの初めてなのか?」
「うん」
「変な奴」
いるまはそう言って、クッキーを一枚口に放り込んだ。 そして、俺の顔をじっと見つめる。
「で、なつ」
「なに?」
「お前の世界では、どんな話が流行ってる?」
「…俺の世界?」
「そう。俺の知らない世界の話だ。少しくらい面白いものがあるだろ?」
いるまは頬杖をつき、楽しそうに口角を上げた。
「さぁ、聞かせてみろよ」
コメント
2件
あなた神ですか、? ほんとに物語が素敵すぎて,!! 憧れすぎるんですよ!! ほんとに本屋さんに売ってる小説以上に没頭できるし物語が面白いし素敵で、 心情ってゆうのかな、を書くのがほんとに上手くて! テラノでみてきた方々ももちろんとても素敵なんですけど1番物語の構成とか書き方とかが好きな方です!! いっつも楽しみに見てます,! これからも頑張ってください、!!
もしかしたら1話2話位で終わるかもしれない