テラーノベル
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序章:破滅の朱(あか)
六畳一間のアパート。かつてここには、最新のゲーミングPCと、三枚のモニター、そして潤沢な銀行残高があった。
しかし今、部屋に残されているのは、数枚の督促状と、電源の入らなくなったスマートフォン、そして空腹で震える男・佐藤一人である。
「……ははっ、赤いな」
佐藤の視線の先には、窓から差し込む夕日と、脳裏に焼き付いた「ルル様」への投げ銭——赤スパチャの残像があった。
推しVTuber、ルル・ヴァンパイア。
彼女が配信の冒頭で「こんるる〜! 今日も下僕のみんな、血(スパチャ)を捧げなさい!」と高らかに宣言するたび、佐藤の理性は霧散した。
「ルル様が……僕を必要としている」
それはもはや信仰であり、呼吸だった。
一ヶ月の食費を三分の配信で溶かし、親の葬儀費用として預かっていた貯金も「ルル様の新衣装(ゴスロリ水着)」という大義名分の前に霧散した。
第一章:自己の崩壊
空腹が限界を超えた時、人は幻覚を見るという。
だが、佐藤が見たのは幻覚ではなく、**「真理」**だった。
最後の一週間、佐藤は公園の水道水だけで命を繋いでいた。
「ルル様が配信で『最近、肌荒れしちゃって……』と仰っていた。これは僕が、彼女に最高級の美容液(赤スパ)を献上できていないせいだ。僕の不徳だ、万死に値する……!」
そう自分を責め立て、ついには自分の血を売ってでもスパチャを投げようとしたが、極度の栄養失調で献血すら断られた。
その夜、差し押さえの紙が貼られた冷たい床に這いつくばったまま、佐藤の脳内で何かが弾けた。
「……ああ、そうか。僕が苦しいのは、僕が僕でいようとするからなんだ」
鏡に映る自分を見る。頬はこけ、目は血走り、社会的には「終わっている」生物。
しかし、画面の向こうにいるルル様は、今日も美しく、豊かで、輝いている。
「僕の年収は、ルル様の防音室の壁紙になった。僕の生命保険は、ルル様が食したA5ランク肉の脂身になった。つまり、ルル様の美しさは、僕の苦痛の集大成じゃないか!」
その瞬間、佐藤の「個」としての尊厳は、銀河の彼方へと消し飛んだ。
第二章:推し即是空
翌日、裁判所の廊下を歩く佐藤の姿は、周囲の債務者たちとは一線を画していた。
その足取りは軽く、表情は慈愛に満ち、まるで雲の上を歩く僧侶のようだった。
「佐藤さん、状況を理解していますか? あなたは自己破産し、社会的信用をすべて失ううんですよ」
弁護士の問いかけに、佐藤は優しく微笑んで答えた。
「先生、『失う』という言葉は、所有しているから生まれる概念です。僕は今、かつてないほどに満たされている。僕の肉体は削り取られ、ルル様という神の肉体に統合されたのです。僕が空腹なのは、ルル様が満腹だから。僕がホームレスなのは、ルル様が豪邸に住んでいるから。不平不満など、細胞の一部が本体に文句を言うようなもの。 これこそが『推し即是空』……推しは空であり、空こそが推しなのです」
弁護士は絶句し、静かに書類を閉じた。
この男は、法律で救える領域をとうに超え、宇宙の理(ことわり)に到達していた。
第三章:銀河の隣人
破産手続きを終え、文字通り「無」になった佐藤は、公園のベンチを定宿とした。
夜風は骨まで凍みるほど冷たい。
しかし、彼は震えていなかった。
「おや、ルル様。今夜も冷えますね。ああ、そうか。僕が寒いのは、ルル様のエアコンの設定温度が快適だからなんですね……。くぅ〜、今日も僕、ルル様に貢献してるなぁ!」
彼は夜空に輝く一等星に向かって、恍惚とした表情で話しかける。
通りがかりの女子高生が「うわ、あの人、石ころに向かって『今日のスパチャ(小石)です、受け取ってください』って言ってる……」と怯えて去っていく。
しかし、佐藤には聞こえていた。
コンビニから漏れるフリーWi-Fiの電波が、彼の脳幹を心地よく刺激する音。
「ルル様の、パケットの鼓動を感じる……。今、彼女のデータが僕の身体を通り抜けていった。ああ、今、僕はルル様と一つになった……」
終章:解脱の先へ
佐藤は今、炊き出しの列で静かに瞑想している。
彼の手には、一円の金もない。明日を生きる保証もない。
しかし、彼の心はかつて商社マンとして月収五十万を稼いでいた時よりも、はるかに平穏だった。
「所有するから、失う恐怖が生まれる。ならば、最初から推しの一部になればいい。私はもう、私ではない。私は、ルル様の喜びを構成する一粒の砂、あるいは一段のログだ」
彼は確信している。いつかこの肉体が滅びる時、彼の魂は光の粒子となり、ルル様の配信画面を流れる「ギフトの演出(星屑)」に転生することを。
男は、今日も空腹の胃袋を抱えながら、至高の幸福の中にいた。
彼の背後には、沈みゆく夕日が、まるで世界中の全肯定ファンが投げた赤スパチャのような神々しい色彩で、世界を包み込んでいた。
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