テラーノベル
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レッスンが始まると、稽古場は一気に静寂に包まれた。一流と呼ばれるマダムたちの表情は真剣そのもので、その手元をじっと見つめる美玲も、師範としての厳しい顔つきに変わっている。
「師範、いかがでしょうか」
「とても素敵です。ただ、ここをこうすると、さらに見栄えが良くなりますよ」
「まあ、本当だわ。ほんの少しのことなのに……」
美玲が一本の花の角度をわずかに変えただけで、作品全体の印象がぱっと華やいだ。これこそ、生まれ持った感覚と日々の努力の積み重ねの賜物に違いない。
今日一日、大変な目に遭ったはずなのに、稽古場に立つ美玲は誰よりも輝いていた。その姿は自然とマダムたちの支持を集めている。その事実に気づいていないのは、美玲本人だけなのかもしれない――
美玲を敵に回す人間は、それ相応の覚悟が必要だと痛感させられる。
「美玲さん、困ったことがあったらいつでも言ってちょうだいね。私たちが握り潰して差し上げるわ」
「そうよ、私たちはいつだって美玲さんの味方だから」
レッスンが終わると、笑顔のままにそんな恐ろしい言葉をさらりと口にして、マダムたちはそれぞれ帰っていった。
***
翌日――
――ガチャ
「おはようございます」
「うわっ、びっくりした……早いな」
先に出勤して黙々と仕事を始めていた美玲に、誰もいないと思って部屋へ入ってきた颯斗が目を丸くする。しかし美玲はそんな反応など気に留めず、淡々とテキパキ動き回っていた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう……って、うまっ」
言葉にする前からコーヒーが颯斗の前に置かれる。専務室の片隅にあるキッチンをすでにチェックしていて、置かれていたのが安物の豆だと知ると、自宅から上質な豆を持参していたのだ。
「本日のスケジュールを確認させていただきます」
「あ、ああ……」
驚く颯斗をよそに、美玲は書類を手際よく捌きながら淡々と予定を読み上げていく。
「……以上になります。変更などはございませんか?」
「ああ……」
あまりの完璧さに、颯斗が口を挟む隙などまるでない。そしてスケジュール確認が終わったその時――
――ガチャ
ノックもなしに、いきなり専務室の扉が開け放たれた。
「はーくん! 来ちゃった」
「……何の用だ? ここは会社だ。お前が遊びで来る場所じゃない。どうやって入った? それに、ノックもせずに入るとは失礼にも程があるぞ」
「そんな冷たいこと言わないでよ。ちゃんとはーくんママに許可をもらったんだから」
昨日の今日で堂々と現れるとは、その厚かましさに呆れるばかりだ。颯斗への執着だけで動いているのだろう。
「こっちは遊んでいる暇なんてない。帰れ」
「ユリにそんな態度をとっていいの? パパがすごく怒ってたよ」
「だから、こちらは困らないと何度も言っているだろ。嵯峨さん、警備員を呼んで追い出してくれ」
「畏まりました」
颯斗の指示に従いスマホを手にした美玲を、ユリが鋭く睨みつけ、次の瞬間には勢いよく突進してきた。
――ドンッ
「きゃっ」
美玲が突き飛ばされ、スマホが床を滑って部屋の隅へと飛んでいく。尻もちをつき呆然とする美玲を、ユリは鬼の形相で見下ろしていた。
「おいっ、何してるんだ!?」
慌てて颯斗がユリを押さえる。
「どうしてこの女の味方をするの? はーくんは私と結婚するんだから!」
「勝手なことを言うな。お断りだ」
思い込みが激しすぎて、まともな会話が成立しない。颯斗は完全にお手上げ状態だ。
――コンコン、ガチャ
「専務! 大きな音がしましたが、何かありましたか?」
美玲が突き飛ばされた音が外にまで響いていたのか、通りかかった男性社員が慌てて飛び込んでくる。尻もちをついている美玲と、ユリを押さえ込む颯斗の姿を見て目を見開いた。
「すまない、警備員を呼んでくれ」
「わかりました!」
ほどなくして警備員が駆け付け、颯斗は暴れるユリを引き渡した。
「ちょっと離してよ! 私はローズガーデンの社長の娘よ! こんなことして、ただで済むと思ってるの!? 覚えてなさい!」
悪態をつきながら必死に抵抗するユリは、専務室から無理やり連れ出されていく。
部屋に再び静けさが戻ると、颯斗はすぐに美玲に駆け寄った。
「大丈夫か? 本当にすまない」
「大丈夫です。それより、予定が押していますのでお仕事を始めてください」
心配する颯斗とは対照的に、美玲は平然と立ち上がり、服についた埃を払うと、何事もなかったかのように自分の席へ戻って仕事を再開した。
その姿を見て、颯斗はユリの存在に苛立つのも馬鹿らしく感じてくる。常識が通じない相手にムキになるだけ無駄だ。
ふと脳裏に、ユリをしつこく勧めてくる義母・由紀子の姿がよぎる。
***
颯斗の母はもともと身体が弱かった。それでも子どもを持ちたいと願い、妊娠・出産を決意したという。案の定、身体への負担は大きく、出産後に颯斗を一度抱いただけで帰らぬ人となってしまった。母を深く愛していた父の落胆ぶりは目を覆うものだったと、家政婦から聞かされている。
子育てと仕事の両立に疲弊し、精神的にも追い詰められていた父に寄り添ったのが、父に好意をもっていた幼馴染みの由紀子だった。父は颯斗が三歳の頃に由紀子と再婚し、その後、四歳下の弟・海斗が生まれる。
もちろん、複雑な気持ちがなかったわけではない。それでも颯斗は、自分をここまで育ててくれた恩義を由紀子に感じていた。
だが、やはり血のつながった海斗との間には目に見えない差を感じずにはいられなかった。
だからこそ、ユリを颯斗に押しつけようとする由紀子の意図が透けて見える。本当にユリを可愛がっているのなら、ユリに好意を抱く海斗と結婚させれば済むはずだ。
颯斗の頭に浮かぶのは、腹黒さを隠しきれない由紀子の顔だった――
コメント
1件
颯斗のお母さまはそうゆうことでお亡くなりになっていたのね。 有紀子は初めから狙ってたんじゃない?腹黒なんだよ。貴斗パパ騙されてると思う。 黒幕は有紀子? 海斗好きなの?ユリを?まぁお似合いだけど😆