テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
◇◇◇◇
朝から空に散っていた星々は、夜の訪れとともに、いっそう深く、濃く、世界を覆い尽くすように輝きを増していた。
まるで、空そのものが夜に侵食されているかのように。
その異様な光の下で。
ヴァルディウス王国の王、ユークリッドは牢にいた。
王城へ戻ったその日から、彼の声に耳を傾ける者は、ひとりとしていない。
かつて隣にいた王妃も。
王妃からあったのは、ただ一言。
『一度は愛した男よ。死ぬまで生かしてあげる』
その言葉だけを残して。
彼女は、彼をこの場所へと落とした。
石造りの牢は冷え切っている。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、肺の奥へと沈んでいく。差し出される食事は粗末で、味も温度もなく、ただ命を繋ぐためだけのものだった。
ユークリッドの身体は、見る影もなく痩せ細っていた。
それでも。
彼の瞳だけは、死んでいなかった。
瘴気に満ちたこの国においてなお、彼の精神は侵されていない。
魔族の魔法、傀儡の術。
それが、彼には通じなかった。
理由は、ただ一つ。
揺るがぬ心。
それだけだった。
鎖に繋がれた両手を振り上げ、鉄格子へと叩きつける。
ガン、と鈍い音が響いた。
もう一度。
ガン、ガン、と。
だが力は続かない。数度打ち付けただけで、息が荒くなる。腕は細く、骨ばり、叩くたびに痛みだけが返ってくる。
それでも、止めない。
「うるっさいわね」
対面の牢から、呆れたような声が飛んできた。
星篝の魔女、リースペイト。
同じ牢に囚われているはずの存在。
だが、その有り様は、あまりにも対照的だった。
石床の上に置かれた机には、湯気を立てる料理と、深い色のワイン。香りだけで満足できそうなほど豊かだ。奥には柔らかな寝具を備えたベッドがあり、さらに数冊の本が無造作に積まれている。
牢というより、閉じ込められた客室。
そんな印象すらあった。
「さっきまで死んだ魚みたいな顔してたと思ったら、急に暴れ出して。気まぐれにもほどがあるんじゃない?」
リースペイトはグラスを傾けながら、退屈そうに言う。
「違う……思い出したんだ」
ユークリッドは鉄格子に手をついたまま、顔を上げた。
その瞳に、かすかな光が宿る。
「早く、ここから出ないといけない」
リースペイトは肩をすくめる。
「確かに、魔族の術に耐えられるくらいの精神力はあるみたいだけど……」
ちらりと、その痩せた身体を見やる。
「ここを出たところで、貴方に何ができるの?」
冷静な言葉だった。
現実を突きつけるように。
だが、ユークリッドはそれでも折れない。
「思い出したんだ。私の執務室にアメリアの名が記された羊皮紙があることを」
息を荒げながらも、言葉を繋ぐ。
「それを破れば、蘇りの魔法は無効になるんじゃないか!」
リースペイトの動きが、わずかに止まった。
「それは、なに?」
「白の魔女がアメリアを蘇らせる時に使った魔法陣だ」
「……まだ残っているの?」
「ある」
短い肯定。
「……」
リースペイトは、しばし沈黙する。
指先でグラスの縁をなぞりながら、何かを測るように。
やがて。
「破ってはダメよ」
静かに、言った。
ユークリッドが顔を上げる。
「命令するの」
視線をまっすぐ向ける。
「その羊皮紙を持って、『冥界へ帰れ』と命じるの」
言葉は淡々としていたが、その奥には確かな確信があった。
「魔族が冥界へ戻ったあとで、羊皮紙を破る。そうすれば、こちらの世界と冥界を繋ぐ橋が断たれる」
ユークリッドの瞳が、はっきりと光を取り戻す。
「それで……終わるのか」
希望が滲む。
だが。
「いいえ。終わりじゃないわ。悲しみが残る」
その声には、わずかな重さがあった。
「アメリアは消える」
ユークリッドの表情が曇る。
「それでも、やる?」
問いかけ。
試すように。
ユークリッドは、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、かつての彼女。
笑っていた顔。
寄り添っていた温もり。
そして、いまの姿。
ゆっくりと、目を開く。
奥歯を噛み締める音が、わずかに響いた。
「……私は、王だ」
心を押し殺した声。
「国民のためなら、私情は切り捨てる」
それは誓いだった。
誰に向けたものでもない。
ただ、自分自身に対する。
「……そう」
リースペイトは短く応じる。
その瞬間。
ガタン。
鈍い音が、牢内に響いた。
ユークリッドの前の鉄格子が、力を失ったように外れ、ゆっくりと倒れる。
リースペイトの牢屋も同様に。
まるで、最初から閉じ込める意思などなかったかのように。
リースペイトは、何事もなかったかのように立ち上がる。
手首にはめられていた魔法封じの枷を、軽く外し、床へと放り投げた。
乾いた音が、カンと鳴る。
そして。
軽く振り返り、微笑む。
「じゃ、行きましょうか」
まるで、夜の散歩にでも誘うような気軽さで。
522
#希望
#感動的