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#🐟️×🍇
ねぎ茶
27
三年前のその日、現場の空気に慣れていなかった。
フリーランスのヘアメイクとして独り立ちしたばかりで、業界で名の知れたディレクターと組む仕事はこれが初めてだった。相手は──勇斗。
年齢はそう変わらないはずなのに、現場を仕切る声にも、スタッフへの気の配り方にも、既に一目置かれるだけの何かがあった。
「よろしくお願いします」
「あ、どうも。よろしくお願いします」
挨拶を交わすだけの、他人行儀なやり取り。
この時はまだ、互いにとって数多くいる仕事相手の一人に過ぎなかった。
トラブルが起きたのは、撮影の直前だった。
「クライアントから急遽なんですけど、モデルさんの地毛、一時的に脱色するカラースプレーを使ってほしいって」
アシスタントが慌てた様子で伝えてきた要望に、仁人の眉間へ、はっきりとした皺が寄った。
「──それ、誰の判断ですか」
「え、クライアント側からの要望で……インパクト出したいからって」
「頭皮にも髪にも負担がかかりますし、このモデルさんの肌色だと、色味が浮いて見えます。仕上がりの絵として、良い方向に転ぶとは思えません」
淡々とした口調の奥に、妥協を許さない強さがあった。
周囲のスタッフは、クライアントの要望を無下にはできないという空気に流されかけている。
そんな中、割って入ってきたのが勇斗だった。
「ちょっと待って。それってどのくらいのリスクあるんですか?」
「一時的とはいえ、乾燥とダメージは避けられません。それに、色が肌に合わなければ、修正でまた別の時間がかかります」
「なるほどね。じゃあ、代案は?」
責めるでも流すでもない、まっすぐな聞き方だった。
仁人は一瞬、意外そうに顔を上げる。
「ウィッグを使うか、あるいは陰影の作り方でもう少し立体感を出す方向にすれば、同じインパクトは出せるはずです」
「それいいじゃん。じゃあ、クライアントには説明入れるんで、その案でいきましょう」
その判断の速さに、仁人は少し驚いた。
理由を聞き、納得すれば、すぐに動く。
当たり前のようでいて、なかなかできることではないと知っていた。
撮影は無事に終わった。
「今日はありがとうございました」
現場の片付けをしながら、仁人が短く頭を下げる。
「いや、こっちこそ。ちゃんと説明してもらえたから助かりました。仁人さんの言うこと、ちゃんと聞いてよかった」
大した会話ではなかった。
この人となら、いい仕事ができるかもしれない。
それから数ヶ月、二人が現場で顔を合わせる機会は自然と増えていった。
最初はただの仕事相手だったのが、いつからか現場終わりに軽く食事に行くようになり、次の現場の話をするついでに、他愛もない話をするようになった。
「仁人さんの仕事、いつも安心して見てられるんすよね」
「別に、当たり前のことをやってるだけですよ」
「その当たり前が、意外とできない人多いんだって」
仕事がしやすい、という感覚は、いつしか一緒に仕事をしたい、という気持ちに変わっていた。
さらにその先で、この人がいると安心する、という感覚に変わるまで、そう長くはかからなかった。
ある現場の終わりの酒宴の席で、小さな出来事があった。
酒の入った席で、居合わせたスタッフの一人が、特に深い意味もなさそうな調子で切り出した。
「ヘアメイクさんとかスタイリストさんって、ゲイの人多いイメージあるよねー。ほら有名なあの人とか」
周りは軽く笑って聞いている。
悪気のかけらもない、ただの世間話。その流れのまま、話を振られた。
「仁人くんも、男の人もイケちゃう系?」
「──いや、別にそんなことないですよ」
反射的に出た言葉だった。
笑いながら流したつもりだったが、声が一瞬強張らなかったか、表情がおかしくなかったか、自分でもよく分からなかった。話題はすぐに次へ移っていく。誰も気にした様子はない。
けれど、心臓だけは、まだ早鐘を打っていた。
横目で、そっと勇斗の様子を窺う。いつも通りの顔で、他のスタッフの話に相槌を打っている。
それが、かえって落ち着かなかった。
気づかれていないのか、気づいていて何も言わないだけなのか、判断がつかないままだった。
数日後、クライアントとの打ち上げだった。
酒の席が進むうち、クライアント側の一人が悪ノリで仁人に酒を勧め始めた。
断っても断っても杯を重ねられ、笑いながらも徐々に顔が強張っていく。
「仁人さん、あんまり強くないんで。俺が代わりに飲みますよ」
割って入ってきたのは勇斗だった。
断る隙も与えず、仁人の分まで杯を重ねていく。
普段は場を仕切る側の人間が、あっという間に目に見えて出来上がっていくのを、仁人はただ黙って見ているしかなかった。
「無理しないでください」
「平気平気、これくらい……あー、ちょっと目、回るわ」
強がっていた声が、次第に呂律の怪しいものに変わっていく。
打ち上げがお開きになる頃には、勇斗はまともに立っているのもやっとという有様だった。
「送ります。タクシー呼ぶんで」
他のスタッフに任せるという選択肢もあったはずなのに、仁人は迷わずそう言っていた。
タクシーの中でも、勇斗はずっと上機嫌に笑っていた。
意味の分からない鼻歌や、途切れ途切れの世間話。
普段は決して見せない、隙だらけの姿だった。
部屋の前まで支えながら送り届け、鍵を開けるのに手間取っている勇斗の背中を、仁人はただ支えていた。
「……ありがとな、仁人」
「いえ。ちゃんと水飲んで、早く休んでください」
「仁人はさ」
ドアにもたれかかったまま、勇斗が振り返る。
酒に緩んだ目元は、いつもより無防備で、いつもより近かった。
「俺も、いけちゃう系だったら、どうする?」
酔いに任せた軽口のつもりだったのか、本気だったのか、本人にすら分からないような言葉だった。
答える間もなく、勇斗の手が仁人の頬に触れ、そのまま引き寄せられる。
抵抗しなければ、と頭のどこかでは思った。
けれど体は動かなかった。
酔いに紛れたこの瞬間だけは、自分の本当の気持ちを誤魔化さなくていい気がしてしまった。
キスは性急で、酒の匂いがした。
それでも、拒む言葉は、最後まで出てこなかった。
玄関先で始まったそれは、そのまま部屋の中へとなだれ込んでいった。
翌朝、目を覚ました勇斗の記憶は、ところどころ曖昧だった。
それでも、隣で身支度を整える仁人の姿を見れば、何があったかは察しがついた。
「……昨日は、その」
「大丈夫です。酔ってたの知ってますし。しょうがないですよ」
先に言葉にしたのは仁人だった。
まるで、それ以上何も言わせないようにするみたいに。
勇斗は、何かを言いかけて、結局黙り込んだ。
酔っていたとはいえ、自分から手を伸ばしたことに変わりはない。
そのことを、どう詫びればいいのか分からなかった。
詫びることが、この夜をなかったことにしてしまう気もして、結局何も言えないまま、仁人を見送った。
仁人の目には、その沈黙が、後悔の顔に見えた。
なかったことにしたい、という顔。
あれをもう一度見るくらいなら、夜のうちに帰ってしまった方がいい。
本当は、嬉しかったのだ。
気づけば目で追っていた人の部屋で、朝を迎えている。
それだけで、胸の奥が満たされていた。
だからこそ、何かを言いかけて飲み込んだ勇斗の顔が、胸に刺さった。
その日から仁人は、どれだけ遅くなっても、朝を迎える前に勇斗の部屋を出るようになった。
帰り道、仁人はずっと自分に言い聞かせていた。
──あれは、酒のせいだ。庇ってくれた、その延長で、たまたまああなっただけだ。
そう思い込むことでしか、色んなものから、目を逸らし続けることができなかった。
それから三年、何も変わらない。
変わったのは、ときどき、思い出したように声がかかるだけ。
だから、体だけでも求められているなら、それでいいと決めた。
気持ちを口にすれば、きっと面倒がられて終わる。
断れないのは、秘密を握られているから。
──もし本当に誰かに知られたとして、困るのは自分だけじゃない。
自分だけが、握られている秘密なんて無いのに。
誰かに知られたら、二人とも何もかも失うかもしれないのに。
あの夢みたいな夜を、無かったことになんてしたくなくて、口を噤む。
――誰にも言えないことすらも、繋がっていられる証だと思えば、ただ愛おしくて。
だから、思考に蓋をした。
理屈が崩れてしまえば、残るのは理屈ではない、もっと剥き出しの感情だけ。
それを直視する方が、よほど怖かった。
本当の理由には、まだ、気づかないふりをしたままで。
コメント
1件
うわ、この話……すごく胸が締め付けられた。 仁人がずっと「あれは酒のせい」って自分に言い聞かせてるところとか、朝になる前に部屋を出るようになったとこ、切なすぎる。本当は嬉しかったのに、それを認めたら全部が崩れるのが怖くて口を噤んでる感じ、理解できるだけに辛いわ。 「誰にも言えないことすらも、繋がっていられる証」って台詞、刺さりすぎた。もう戻れない関係だからこそ噤むしかないってとこに泣ける。 るりさん、この静かな苦しさの描写、めちゃくちゃ好きです…!