テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
会議室を出てすぐ、舜太が誘ったのは、いつも二人でよく行く小さな定食屋だった。
「柔太朗さん、今日もいつもの定食でええ?」
「うん、それで。舜太は?」
「俺は生姜焼き。……いや、やっぱ柔太朗さんと同じでええわ」
「決められないだけじゃん」
「バレたか」
くだらないやり取りに、柔太朗が小さく笑う。
仕事の緊張から解けたばかりのこの時間が、舜太は昔から好きだった。
誰に気を遣うでもなく、ただ隣にいて話すだけの時間。
料理を待つ間、話題は自然とヒヴァ行きに向かった。
「めっちゃ楽しみやな、正直。ああいう歴史的な街並み、写真として撮りごたえありすぎるやろ」
「舜太、そういうとこ本当に子供みたいだよね」
「褒めてる?」
「さあ、どうだろう」
柔太朗の口調は素っ気ないようでいて、目元にはちゃんと笑みが浮かんでいる。
この温度差込みで、舜太にとっての「いつもの柔太朗さん」だった。
他のスタッフや、クライアントと話すときの柔太朗は、もう少し丁寧で、もう少し距離のある喋り方をする。
けれど自分と二人のときだけは、こうして飾らない言葉が返ってくる。
誰も知らない顔を、自分だけが知っている。
「柔太朗さんってさ、人気モデルなのに、こういう定食屋とか全然平気なんやな」
「別に、普通のことじゃない? ブランドの服着てる時だけが自分ってわけでもないし」
「まあ、それはそうやけど」
柔太朗は、雑誌の表紙を飾り、大きなキャンペーンに次々起用される、自分とは住む世界がどこか違う人間だ。
そう思うたび、この関係に踏み込む勇気が少しだけ萎む。
今のままの距離感を壊したくない、という気持ちの方が、いつも一歩前に出てしまう。
一年ほど前、一度だけ、その境界線に足を踏み入れかけたことがあった。
現場の空気に流されるまま、少し踏み込んだ発言をした舜太に、スタッフの一人が冗談半分に「二人って、すごく仲いいね」と笑った。深い意味のない一言だったのに、柔太朗の表情がほんの一瞬だけ硬くなったのを、見てしまった。
人気モデルに妙な噂が立てば、仕事にも、本人にも、確実に迷惑がかかる。
その現実を思い知らされたとき、自分の中にあった気持ちに、静かに蓋をすることを決めた。
踏み込まないことが、自分にできる唯一の誠実さだと思った。
料理が運ばれてくると、柔太朗が、卓上の醤油差しへ手を伸ばした。
長袖の袖口が、ずるりと前へ滑る。その先には、湯気の立つ味噌汁の椀があった。
「あ──」
袖が汁に触れる寸前で、舜太の手が、柔太朗の手首を掴んでいた。
「危なっ。袖、味噌汁につくとこやった」
「……え」
柔太朗は、掴まれた手首と、舜太の顔を、順番に見た。
驚いた顔のまま、すぐには動けなかった。
舜太は、袖口をそっと持ち上げてから、手を離した。
「ごめん、急に掴んで」
「……あ、ありがと」
柔太朗はそう言って、少しだけ視線を逸らした。
#🐟️×🍇
ねぎ茶
27
笑ったというより、笑顔の形をなぞっただけのような、曖昧な表情だった。
「いや、別に」
数秒、どちらも次の言葉を探しあぐねるような、妙な間があった。
いつもならすぐに軽口へ逃げ込むところを、今日はなぜか、うまく言葉が出てこなかった。
柔太朗の手首には、掴まれた感触がまだ残っていた。
強い力ではなかったのに、そこだけが、やけにはっきりと熱を持っている。
内心では気づいていた。舜太のこういう仕草に混じる視線が、ただの親切心だけでは説明のつかないものであることに。
写真を撮るときの、被写体として見る目とは違う。もっと個人的な、自分自身に向けられている視線。
けれど、それを言葉にした瞬間、この心地よい距離感が崩れてしまう気がした。
だからいつも通り気づかないふりをする。
それが今の自分にとって、一番楽な選択だった。
「そういえば、現地の撮影スケジュール、結構タイトらしいで」
先に話題を変えたのは舜太だった。
「まぁ、確かに。移動も多いみたいだしね」
「柔太朗さんの体力、心配やわ」
「うそでしょ、それ舜太の方が心配なんだけど。すぐ夜更かしするし」
「バレてるやん」
他愛もない会話に戻ると、さっきの妙な間はなかったことのように溶けていく。
それでも、舜太の中には小さな余韻が残っていた。
食事を終えて店を出ると、夜の空気は思いのほか涼しかった。
「じゃあな」
「うん、また」
それだけの、いつも通りの別れ際。
どちらも、すぐに背を向けることができなかった。
ほんの数秒、視線を交わしたまま、次の言葉を探すような間があって、それから、どちらからともなく歩き出す。
一人になった帰り道、舜太はふと、さっきの柔太朗の顔を思い出していた。
手首を掴まれて、一瞬だけ驚いたように見せた表情。
あれは、誰にも撮らせたことのない顔だ、と思う。
柔太朗が見せる表情のすべてに、特別な意味を感じてしまう。
──あの顔、写真に残しておきたかったな。
そう思ってから、自分でも少し可笑しくなった。
仕事でもないのに、そんなことを考えている自分に。
ファインダーを覗く時間が長くなるほど、思うようになっていた。
レンズ越しの柔太朗は、確かにこちらを見ている。けれどそれは、カメラに向けられた視線だ。
ファインダー越しではなく、あの顔の持ち主の目に、自分がどう映っているのか。
──フリムイテ。
カメラを構える側としてではなく、ただの俺として。
そんな願いを口にする資格が、自分にあるのかどうか分からないまま、夜道を歩いた。
コメント
1件
うわあ、この回すごく良かったです……。「俺は生姜焼き……いや、やっぱ柔太朗さんと同じでええわ」みたいな、決めきれないところから始まる何気ないやり取りがもう、二人の距離感を自然に見せてて好きです。手首を掴むシーンの一瞬の緊張、柔太朗があの曖昧な笑顔をなぞっただけの表情を見せるところとか、どちらも「踏み込まない誠実さ」で距離を保っているもどかしさが伝わってきました。最後の「ファインダー越しじゃなくて」っていう願い、めちゃくちゃ刺さります。次が気になる……!