「きっと部署が変わって仕事内容も一気に、責任のあるものになったせいだと思います」
確かに慣れない仕事による疲れのせいで、それが顔に表れてしまうのは、容易に想像ついた。それよりも一番の原因について、自分の口から語るには、それなりの心の準備が必要だった。
「責任か……。自分がしたかった仕事ができるようになって、やりがいを感じられるだろう?」
言いながら番人の口角が上がると、肩にかかっていた髪がさらりと動いた。それが月明かりに反射し、とても綺麗なものとして目に映る。
前と変わらず、惹きつけられるような美しさをもっている番人を見ているというのに、ドキドキする胸の高鳴りみたいなものが、いっさい感じられなかった。
「番人さま、僕の仕事よりも貴方のことを教えてくだ……さい」
「俺の仕事?」
感情を押し殺した敦士の言葉を聞き、口元に湛えられていた番人の柔らかい笑みが、すっと消える。
「番人さまの仕事は、悪夢を消し去ることですけど、その……活動するのに僕は悪夢を見られなかったから、番人さまに『精』をお渡しできませんでした」
「なんだ、そんなことか」
妙に乾いた番人の声が、敦士の鼓膜に張りついた。
「そんなことって僕にとっては、すごく気になっていたことなんです。精を差しあげることができなければ、番人さまが困ってしまうだろうって」
「おまえから続けて供給できないことは、最初からわかっていた。俺がくたばるタイミングで、悪夢を見るなんていう芸当が、普通の人間にできるわけがないからな」
(サイショカラ、ワカッテイタ――!?)
「嘘……そんな、の、最初からわかっていたな、ら、僕に関わってほ、しくなか…った」
目の前で躰を震わせる敦士を見て、番人は目を見開きながら、激しく首を横に振った。
「敦士、よく聞くんだ。俺のこの躰は創造主が作り出した、人形のようなものなんだ。おまえ以外のヤツに抱かれても、それは夢の番人として生きるために、仕方なく」
「仕方なく、他の人に抱かれたとしてもっ! 僕はどうしても嫌なんです。たとえ人形でもいろんな人とヤって、番人さまは感じながら喘いでそして……」
「心を許したのは、おまえだけだ!!」
番人が両腕を伸ばして敦士に抱きついたが、それは絡むことなく、 簡単にすり抜けてしまった。
「夢の中だったら、すれ違うことがなかったのに」
敦士の躰をすり抜けてしまった自分の行動に、番人が内心苛立ったそのとき、ものすごく小さなつぶやきが耳に聞こえてきた。慌てて身を翻して、敦士の前に回り込む。うな垂れている視界に入るように両膝を折って跪き、顔をしっかりと上向かせた。
顔と顔を突き合わせているはずなのに、なぜか視線が絡まないことに不満を抱き、番人は眉間に皺を寄せながら口を開く。
「俺はこの躰から本体に戻ったら、世間を騒がせるような大規模テロを起こそうと、密かに計画していた」
「テロ?」
どこか虚ろな敦士のまなざしが、番人を捉える。そのことに気がついて、首を大きく縦に振ってみせた。
「ああ。死にたくて死んだはずの俺を生かし、夢の番人として働かせる創造主に復讐するために、テロを起こそうと心に決めたんだ」
「そんなこと、絶対にしちゃいけないです。罪のない無関係な人を、たくさん傷つけることになってしまう」
「夢の番人になったばかりの俺は、そのことにも気づけずにいた。だがおまえに出逢って、変わることができた」
番人の両目に涙が浮かび、やがてそれは頬のラインを伝って、はらはらと流れていく。敦士はそれに手を伸ばしかけたが、ハッとして拳を作った。
「番人さまが涙を流しているのに、拭うこともできない僕は、ただの役立たずですよ」
「俺も大好きなおまえに触れることのできない、どうしようもないダメな男さ。だから考えた」
「…………」
「早く夢の番人の仕事を終えて、自分の躰に戻り、敦士を抱きしめたいって」
「それは、夢の中じゃなく?」
「現実世界の中で、おまえを強く抱きしめたい。でもこの躰とはまったく違う姿の俺を見たら、幻滅するかもしれないな。目つきが悪いせいで、見てくれがあまり良くない上に背も低い、ただのオッサンだし」
物悲しげな番人を見ているだけで、敦士の心の中にあたたかなものがじわりと湧き上がった。でもそれはすぐに、真っ黒いものが覆い被さって、すべてをなきものにする。
自分以外を受け挿れたというのに、謝ることなく平然としていられる番人を、敦士はどうしても許せなかった。
「僕は自分が思っている以上に、番人さまのことを愛していたみたいです」
「敦士――」
「だから、どうしても許せない。好きだから、すごく悔しくてならない」
「悪夢を見られなかった自分を、責めているのか?」
番人が訊ねた瞬間、俯いていた敦士の瞳から、大きな涙が降り注ぐ。
「うぅっ……」
「それとも、俺が他のヤツと寝たことが許せないのか?」
ぽたぽたと零れ落ちる涙は、番人の躰を濡らすことなく静かに通過して、フローリングの上に落ちていった。
「すみません……」
「おまえが自分と俺のことを責めていても、この躰から解放されたら、必ず逢いに行く。嫌われたままでも構わない。絶対に逢いに行くから」
「えっ?」
自分を見上げる番人の躰が、青白い光を放ちはじめた。やがてそれが眩いものに変わったため、片手で顔の前を塞ぎながら、ぎゅっと目を閉じる。ほんの数秒後には、瞼を閉じていても光を感じなくなったので、恐るおそる目を開けた。
頭の中では、何かがなくなったということが認識できるのに、それがなんであったかというのが、まったく理解できない。わからないのは、それだけでなく――。
「あれ? どうして僕は、泣いているんだろう?」
真っ暗闇の自宅の中、リビングの中央に立ちつくした状態でいる自分が、不思議でならなかった。両手で涙を拭いながら、この状況を考えてみる。
(慣れない部署での仕事にほとほと疲れて、退勤したことの記憶はある。いくら疲れていたからって電気もつけずに、ぼーっとするなんてありえない)
拭ったはずなのに、ふたたび涙が頬を伝った。悲しくなる理由を考えると、胸が絞られるように痛んだ。わけもわからずに、ただひたすら涙を流すしかなくて、苦しさを感じる胸元を押さえる。
「好きな人に罵倒されても、こんなふうになったことがないのに、どうして苦しいほどに、切ない気持ちになってしまうんだろう」
つらい夢を見たというのに、目を覚ますと記憶がなくなっているような感覚に近い今の現状に、敦士はただ困惑するしかなかった。