地上を覆う幾層もの屋根、戴いた信仰を支える幾本もの柱、兆しに見える幾重もの露台、尖塔、門、青銅像が星々の代わりに輝く篝火に照らし出されている。
ユカリたちは通りを抜けて、山のように巨大なジンテラの建築群の覆い隠していた夜空が開ける。シャリューレが盗賊たちに与えた魔術によって曇った暗黒の空の下、ユカリたちの目の前に現れたのは湖だ。星のない夜空と街の篝火を写し取った階調的色彩の湖面の真ん中辺りに篝火に照らされた島があり、そこへ四方から四基の橋が架かっている。
聖ターティア人道寺院は湖に浮かぶ島と架かる橋で構成されていた。ただし島そのものには篝火台があるばかりで寺院そのものは四つの橋の上に造立されている。それぞれが典礼監督室の部局の管轄であり、そのどこかに魔導書がある。
修道教団。ターティア福祉会。教敵選定議会。典礼僧兵団。
ユカリたちはそれぞれの部局の活動内容を事前に調べ、魔導書を秘匿するのに向いている部局は典礼僧兵団と見込み、その橋上伽藍へと忍び込むことに決めてある。
「当てが外れれば隣の橋に向かうとして、どっちに行く?」とユカリは赤い髪の揺れるベルニージュの背中に尋ねる。
「どちらかといえば教敵選定議会かな。十中八九僧兵団にあると思うけど」とベルニージュは答え、立ち止まり、振り返って夕間暮れの太陽のような赤い瞳でユカリを見上げる。「やっぱり銀の冠、かぶっときなよ」
「何で? 走れないし、はぐれても分からないし、気づかずにぶつかるし、二人で行動するなら必ずしも有用じゃないって言ったのはベルだよ。そうするくらいなら私とベルで典礼監督室と共同宣教部に分かれた方が良いって言ったのもベル」
いざという時に水を零してしまう可能性もあるので、『至上の魔鏡』に頼り切らない方がいい、と結論を出したのだった。
「うん。でも確実に一人が見つからないっていう利点があれば十分に思えてきた」
「うーん。強く反対する理由もないけど。ああ、なるほど」そう言ってユカリはベルニージュを見下ろしてにやにやと笑みを浮かべる。
「え? 何?」ベルニージュは身を引き、怪訝そうな目でユカリを見る。「どういう意味の笑み? 怖い」
「分かったよ。杖は目立つし、湖で水汲んでくる」ユカリは合切袋から『至上の魔鏡』を取り出す。「まったく、友達思いは良いですけどベルニージュさんは過保護ですね」
「別にワタシがかぶってもいいけど!?」と言ったベルニージュが伸ばした手から逃れるように、ユカリは湖岸へと向かい、冠に水を汲んで戻って来る。
「ベルは護女の僧服を着たら? ノンネットに貰ったやつ。気休めくらいにはなるかも」
「背嚢背負った護女がこんな時間に現れたら怪しさは変わらないような気がするけど」と言いつつもベルニージュは冠で両手の塞がったユカリの合切袋を漁って僧服を取り出し、上から羽織る。
「どう? ユカリが着た時よりは護女っぽいと思うんだけど」
「あれでも首席焚書官を欺けたけどね。あ! あれ見てベル」
ユカリが指さした東の空が赤く染め上がり、不吉な黒い煙が幾本も立ち昇っている。
「焚書機関の、聖ラムゼリカ焚書寺院の方角だね。もう盗賊の誰かが見つかったんだね。なりふり構わず火付けしたんだよ。ユカリ。冠かぶって」
銀の冠をかぶり、己の体の所在が分からなくなる慣れない感覚にユカリは意識を集中させる。
真夜中だが火災に気づいて方々から少なからぬ野次馬が集まって来る。火に飛び込む蛾のように様子を見に行く者もいる。それは典礼監督室の僧侶も同様だった。異教徒を拒む呪いを秘めた青銅の大きな門扉が僅かばかり開かれて、何人かの僧侶が現れる。
「行くよ、ユカリ」と戦いに臨む者特有の適度に緊張した声でベルニージュは言った。
どさくさに紛れて聖ターティア人道寺院の門扉をくぐるベルニージュの後を追って、ユカリは堂々と僧侶の横を通り、侵入する。
ベルニージュのやり方もあまり華麗とは言えなかった。三回見つかり、三回とも相手を眠らせて事なきを得た。典礼僧兵団の僧兵たちは伽藍の内部を巡回するにしては重い武装を身につけている。草原で待ち伏せていた焚書官たちほどではないが、邪な剣を退ける護符の縫い付けられた鎖帷子を身につけ、誤りを両断する長剣を佩いていた。
ほとんどベルニージュの働きで、虱潰しに探す。中央廊を横目に前室脇から庫裏へ。酒の貯蔵庫、僧房、厨房を通り抜け、翼廊の裏に位置する螺旋階段を上までのぼると、慌ただしい様子の回廊へとやってくる。火事のせいだろうか、回廊脇の部屋の出入りが激しいためにベルニージュは柱の陰で様子見する。ユカリは臆することなく、小鬼の巣を偵察するような気持で扉の間から中を覗きこむ。どうやら寺務所らしいと分かり、ユカリは隙を見て扉をくぐる。
「聖ラムゼリカ焚書寺院です!」「いえ、ジンテラ各地で火の手が上がっているようです!」「救援に向かいますか!?」「焚書機関が火をつけられるとはな。傑作だ」「総長はどこだ!?」「次に何かあればお終いだってのに!」「宝物庫を固めるべきでは?」「門を閉じろ! 皆叩き起こせ!」
宝物庫の場所が分かる何かがないものかと僧侶たちの間を通って探りを入れるが、あいにくそれらしい物は見つからなかった。
ユカリは寺務所を出て、そっと閉めた扉を背中で抑え、少しだけ冠を上げて元に戻す。ベルニージュがすぐに回廊を走り抜け、ユカリも後に続いた。
人のいない通路に身を隠し、ユカリは亡霊の如く何もない所から姿を現して見聞きしたことを知らせる。
「宝物庫っていうのがあるらしいよ。どこにあるかは分からなかったけど」
ベルニージュは満足そうに頷いて言う。「そこだね。魔導書を隠すなら上階か地下だよ、きっと。でもこの橋上寺院に地下はない」
ユカリは再び朝には露と消える心地よい夢のように姿を隠し、ベルニージュは階段を見つけて上る。
ベルニージュが見えないユカリを片手で制止して立ち止まる。目の前の通廊に僧兵が血を流して倒れていた。鎖帷子ごと切り裂かれている。
ユカリは咄嗟に魔法少女の杖を空気の狭間から取り出して握る。が、杖もまた見えず、握った感触すらない。とはいえ、既にこのことは検証済みで、確かにユカリは紫水晶の神秘の杖を握っている。落としてしまえば目に見えてしまうので確かに握っている、という訳だ。
傷ついた獲物の血の匂いをたどる猟犬のように、ベルニージュは背を低くして、二人以外の侵入者の後を追う。それから三人の伏した僧兵の脇を通り抜け、宝物庫らしき重厚な扉の前へとやってくる。ただし扉は開いていた。隙間から蝋燭の明かりが隠し事を暴くように揺らめいている。
ベルニージュもまた宝物庫の中へと入る。剥き出しになった雪花石膏の杯や想像上の最終聖女の絵画もあるが、宝物のほとんどは木箱に納められているようだ。その埃っぽい宝物の間に一人の男がいた。細身ながら立派な体躯に鹿革の衣を身につけ、麻布の帯で締めている。榛色の瞳は喜びを帯びて、銅色の髪は強風に巻かれた雲のように乱れている。それはシャリューレの部下、ヘルヌスだ。
ヘルヌスは剣の柄に手をかけるが、抜き放ちはしなかった。
「んん? その服は、護女のお嬢さん? どうしてこんなところに? ここは危険だよ。お家に帰った方が良い」
「あんた、ヘルヌスだよね?」と言ってベルは宝物庫を眺める。「どうやら『神秘の秘扇』も『深遠の霊杖』も、魔導書は見つからなかったらしい」
ヘルヌスは仮面劇の役者のように大袈裟にため息をついてみせる。
「また不測の事態か。君、誰? 護女じゃあないんだね? ドボルグの仲間、とは思えないし、そもそも奴は俺の名を知らないはずだ。他に俺の名を知ってるのはジェスラン……いや、ユカリちゃんのお友達か? たしか海に人質になってたとかいう。あいにくユカリちゃんがどこにいるのか、俺は知らないぜ。上司がどこかに連れて行ってそれっきりだからな」
ベルニージュはその問いに答えない。「あんたも盗賊たちと同じく囮にされたんだね。本命はシャリューレが狙っている、と」
「いや、正直に言って、残りの二つがどこにあるのか、俺たちも知らなかっただけだよ。まあ、俺たちがどう狙いを絞ったのか、君はなぜか分かってたみたいだけど」そう言ってヘルヌスは自嘲的に笑う。「あの盗賊ども。意外と使えると思ったらこれだよ」
シャリューレたちの推測は外れたらしい。青銅の武人ヒューグは焚書機関ではなく、典礼監督室のこの宝物庫から魔鏡を盗みだしたに違いない。だとすれば焚書機関からはまだ何も盗まれていない。杖と扇のありかは共同宣教部と焚書機関に絞られる。そしてヘルヌスがここにいるということは、もう一つの盗賊を向かわせていない寺院、共同宣教部の聖隻手の祈り寺院にシャリューレが向かっている可能性が高い。レモニカを連れて大王国に帰っていないならば、だが。
「でも盗賊どもは大仕事を始めてるんだよな。ってことは君らも奴らを囮にしたってわけだ」
そう言ってヘルヌスは剣の柄に手を伸ばし、それを牽制するようにベルニージュは言う。
「下手に動かない方が良い。ワタシがこの部屋に入った時点で勝負はついてる」ベルニージュはこれ見よがしに懐から魔導書を一冊取り出す。「もちろんこれだけじゃないってことは知ってるよね。ユカリもまたいつでもあんたを殺せる位置についてる」
その言葉を聞いて、ユカリは慌ててヘルヌスのそばへ近づき、剣の柄を根元から【噛み砕く】。
ヘルヌスは呆然とした表情で腰の辺りを見下ろし、左右に視線を走らせる。
「分かった。殺さないでくれ」とヘルヌスは観念して言った。
「殺さないですよ」とユカリは言うが、『至上の魔鏡』の下にあっては誰の耳にも届かない。
「一応シャリューレの居場所を聞いておこうかな」とベルニージュは言う。
「悪いけど知らないよ。ユカリちゃんを連れて行って以来、連絡なし。今は俺が指揮を執っているが、ジェスランとも連絡が取れなくなった。盗賊どもにあのおじさんをどうにかできるとは思えなかったが、そういうことだったんだね」
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