数ヶ月後、誠也の家で動きがあった。誠也は義実家に追い出した直美の不貞の証拠をつかんだ。当然さらに態度を硬化させ、直美に改めて離婚を要求。直美は不貞を認めたが、ただの火遊びで夫婦関係を壊すつもりはなかったと離婚は断固拒否。泥沼の離婚調停に突入した。
また、誠也は直美と間男に慰謝料を請求する内容証明をそれぞれ送りつけた。請求額はそれぞれ一千万。
もちろん裁判になったとしてもそんな額が認められるわけはないが、いくら請求しようがそれは誠也の自由。シタ側が弁護士を立てて、たとえば判決で慰謝料が二百万に決まった場合、弁護士から見ればそれは敗訴でなく慰謝料を八百万も値切った実質勝訴。弁護士への成功報酬もその差額の八百万をもとに計算されて非常に高額になるという。つまり、誠也の慰謝料請求は金が目的ではなく、あの手この手で妻と間男に嫌がらせして、二人をとことん追いつめること。
直美と間男の関係は職場の同僚。どちらも既婚者だから、いわゆるW不倫。二人の不倫関係は二年前から。誠也は直美の職場に乗り込み、どういう社員教育をしてるんだ? と二人の上司に詰め寄った。二人はまだ同じ部署にいるが、周囲から冷ややかな視線を浴びて針のムシロらしい。
間男の妻も三人の子どもを連れて家を出ていき、離婚を要求している。ちょっとした火遊びのつもりが、二人とも火だるまになった。
義実家の資金繰りも行きづまってきて、義父は消費者金融を回って金策に奔走している。こおろぎハウスを依願退職し、無職となった夢香の就職活動もうまくいっていない。いよいよ僕にすがるしかなくなったのだろう、夢香は最近さらに僕に対してますます従順になった。
とはいえ、どうしたら僕を自殺に追い込めるかとベッドの上で憲和弁護士にレクチャーされていた夢香に心を許すつもりはない。向こうは向こうで娘たちとの関係を繋ぎ止めるための役割しか僕に期待していないようだ。今、娘たちは僕の手元にある。それを利用して時間をかけて徹底的に夢香をいじめ抜いてやるのも悪くない。
たとえばこんなふうに――
婚費を払ってほしいな。毎月三十万で請求したいけど、あなたも大変みたいだから二十万でいいよ。今無職で払えない? 退職金があるでしょ? 娘たちがかわいくないの?
やっぱり離婚しようか? 子どもたちには会わせてあげる。約束するよ。ただし養育費は毎月払ってね。もう退職金も底をついた? 風俗で働けば? そういうの好きでしょ? お金も稼げて一石二鳥じゃん。
娘たちと会わせるという約束をいつになったら守ってくれるかって? 娘たちが会いたくないってさ。嘘じゃない。自筆の手紙見る? ほらここに、お母さん大嫌い! って書いてあるじゃん。養育費をケチるから嫌われるんだよ――
娘たちを連れ去られた直後、僕は佐礼央に感化されて別居親も子の養育に参加できる共同親権賛成派になったが、娘たちを取り返して独占する今は、共同親権絶対反対、別居親を子の養育から排除する単独親権賛成派に鞍替えした。
夢香の不倫が発覚したときは嫉妬と悔しさで気が狂いそうだった。僕だけ置いてきぼりで間男と幸せになるのが許せなくて、二人の仲も引き裂いた。それでも気が収まらなくて、夢香を鉄砲玉にしてまだ何も制裁していない憲和弁護士と刺し違えさせようかとも本気で思った。でも、時間が経つにつれてその気持ちも薄れてきた。
娘たちに会えなくて焦り、たまに会えても罵倒されて憔悴する夢香を見て、今は優越感で胸がいっぱいだ。娘たちとの暮らしも充実している。夢香が憲和弁護士と刺し違えて死んだとしても僕は悲しまないだろう。
ただ、そうしろと夢香をそそのかしたのが僕だと知られた場合、僕にも何か不利益があるかもしれない。せっかく娘たちを取り返して幸せな生活を取り戻したのに、むざむざそれを捨てるわけにはいかない。たとえば、夢香が裏切って憲和弁護士を殺せと僕に命令されたと警察に密告した場合、僕が殺人の教唆の罪に問われる恐れがある。その場合、二人の娘の親権はふたたび夢香のものになるだろう。
確かに立場を利用して夢香を寝取った憲和弁護士は気に入らないが、すべてを失う覚悟で彼を殺す? それはありえない!
まず杉原弁護士に依頼して松永賢人と示談した。松永は脅迫罪に問われ、地裁で執行猶予付きの懲役刑の判決を受けた。控訴せずそのまま確定。刑務所には行かずに済んだが前科持ちの身分になった。
示談の内容は夢香と不倫して婚姻関係を破綻させた慰謝料として三百万、娘たちを脅迫したことに対する慰謝料として二百万。計五百万円。松永は退職金なしで会社をクビになったばかり。前妻の里英からも慰謝料を請求されていて一括では払えないとゴネられたから、分割で勘弁してやった。
次に夢香。この数ヶ月のあいだに夢香の妊娠が発覚した。当然三年間レスられていた僕の子どもではない。松永の子らしいが夢香は確かめもせず墮胎した。夢香はちょっとした事故くらいにしか思ってなかったが、僕は気持ち悪くなり夢香を生理的に受けつけられなくなった。
離婚と慰謝料と養育費を要求した。慰謝料は松永と同額の三百万。養育費は毎月十万円。夢香はまだ僕との再構築を夢見ていたから、見ていて笑えるくらい取り乱していた。
「再構築してくれると言ったじゃない!」
「人の気持ちは変わるんだよ。あなたが僕を裏切って不倫したようにね」
「あなたが嘘をつくような人だと思わなかった」
「僕はもともと嘘のつける人間ではなかった。あなたが僕をそう変えたんだよ」
「ひどい! 私を裏切るの?」
不倫しといて何言ってるの? ともう余計なことは言わなかった。
「慰謝料、分割でもいいけど、払い終わるまで面会はなしね。もちろん養育費の支払いが滞った場合もね」
と告げたら泣き崩れた。
払い終わってももう会わせないけどね!
僕の企みを見抜く余裕もなく、夢香は離婚届と示談書にサインした。慰謝料は三年間の分割払い。夢香は里英にも慰謝料を分割で支払い中。最初の数ヶ月は退職金から取り崩してなんとか払うだろうが、おそらく一年もしないうちに支払いは滞るだろう。そうしたらさっさと給料を差し押さえるだけだ。
「早く就職先見つけてね」
そう声をかけたきり、夢香とは会ってない。慰謝料と養育費は今のところ毎月しっかり支払われている。
子どもの連れ去りは国際問題にもなっている。外国でその国の男性と結婚して子どもを出産した日本人女性が、夫に無断で子どもを日本に連れ帰るからだ。
岡室春子とかいう、離婚ビジネス弁護士の親玉みたいな女性弁護士がテレビに出て吠えていた。
「子どもに会いたいのに会えない? 日本に来て面会交流調停すれば子どもに会える。それをしないのだから、悪いのは男性側です!」
面会できるのだからいいだろうって? 外国人の夫は面会したいのではない。親として子を養育したいのだ。そもそも無断で連れ去ること自体が犯罪ではないかと言われてるのだ。それに面会交流調停で面会が認められたところで、子と会えない別居親は何万人といる。裁判所に認められた面会日に訪問しただけなのに、毎回警察を呼ぶ頭のおかしい同居親だっている。会わせないのに養育費は払え? 払われた養育費も悪徳弁護士にピンハネされる。これがわが国の単独親権制度の実態。
でも娘たちが帰ってきて分かったが、この制度は別居親には地獄でも同居親には天国だ。岡室や鷲本といった、子の連れ去りを推奨する悪徳弁護士たちが単独親権制度維持に血眼になることだけ見ても、単独親権制度は間違いで原則共同親権が正解だと分かる。
間違いだと分かっていても、今の僕は単独親権維持に賛成だ。共同親権なら、顔も見たくない夢香にも子の養育に参加させなければならない。そんなのはまっぴらごめんだ!
最後に残るは鷲本憲和弁護士への慰謝料請求。お金なんかいらない。自殺した佐礼央が見た以上の地獄を見せてやる、と思いつめた頃もあったが、よく考えたら僕にとって佐礼央は一度会っただけの赤の他人。赤の他人のために僕の人生を危険にさらすわけにはいかない。
気の毒だとは思う。運が悪かったのだ。僕はあなたの分まで娘たちと幸せに暮らす。数ヶ月前、本気で鷲本夫妻を破滅させようと動いたこともあった。でも、連帯して鷲本夫妻と戦おうと考えていた望月保の協力は得られず、僕の熱気は一気に冷めてしまった。
佐礼央さん、復讐してくれると思ったのに裏切られて、僕が憎いかい? でもあなたがもっとも恨むべき相手は息子を殺した奥さんの交際相手か、不倫して息子を連れ去った奥さんか、奥さんに息子の連れ去りをそそのかした鷲本夫妻の誰かだろう。少なくとも僕じゃない。
特に鷲本弁護士の責任がもっとも重そうだ。夢香のケースもそうだった。
夢香が言うには、子どもの連れ去りもDVのでっち上げも婚費の請求も全部鷲本夫妻が提案したこと。鷲本友子弁護士はこんなふうに言って夢香をあおったそうだ。
「いいから子どもを連れて出て行きなさい。もちろん旦那さんには黙ってうちを出るのよ。別に珍しいことじゃない。みんなやってること。不倫してる? 関係ない。DVをでっち上げて逆に慰謝料も巻き上げてやればいい。とにかく親権争いは連れ去った者勝ちなの。連れ去られて文句を言ってきたら、面会させないよと脅して黙らせればいい。連れ戻しに来たら警察に通報して逮捕してもらえばいい。調停で面会が認められたって関係ない。それでも面会させなくたって別にあなたは困ることにはならない。別居親なんて金づるくらいに思っとけばちょうどいいの! たまに追い込みすぎて自殺しちゃう男もいるけど、それならそれで離婚前なら妻として夫の財産を相続できるから全然悪い話じゃない。婚費に慰謝料に分与された共有財産。成功報酬として30%くらい私たちがいただくけど、残りはすべてあなたのもの。さあ、お子さんとあなたの幸せのために一日でも早く決断して一歩踏み出しなさい! 私たちも全面的にあなたを支えると約束します」
弁護士だから弁が立つ。ただしその論理は虐げられた弱者を救うためのものでなく、ただひたすら私腹を肥やすため。夢香は催眠術をかけられたように、友子弁護士の提案に乗った。僕からすべてを奪い尽くした上で、松永賢人と再婚し娘二人も加えた四人暮らしの新生活を始める計画だった。
だが計画どおりだったのは最初だけ。僕らから予想外の反撃を食らい、運命の人の松永は警察に逮捕された挙げ句ケンカ別れ、娘たちは勝手に僕のもとに行ってしまい、結局職まで失った。
「私、一人ぼっちになっちゃいました。これからどうすればいいんですか?」
夢香はもう一人不倫関係にあった憲和弁護士にすがるしかなかった。確かに彼は優しくささやいてくれた。いつものホテルのベッドの上で。
「厳しい状況だけどあきらめるのは早い。いっしょに打開策を考えようじゃないか。――とりあえず挿れるね」
夢香は憲和弁護士に抱かれながら、この人も私の味方じゃないんじゃないかとようやく気がついた。
「本当に私に優しかったのは俊輔さんだけでした」
面会交流の日にそう言われたが、不倫する前に気がついてほしかったところだ。
結局、杉原弁護士が最初に提案した制裁案を採用した。奥さんに不倫を知らせないことを条件に相場を無視した高額慰謝料を請求する、というもの。素人目には恐喝にしか見えないが、そうならないように杉原弁護士がうまく交渉してくれるそうだ。
交渉の結果、慰謝料は千五百万円。双方に守秘義務。違反した場合の罰金は百万円。
もちろん速攻で友子弁護士に証拠を示して全部バラした。罰金百万円は取られたが、その代わり奥さんから証拠代として百万円もらったからプラマイゼロ。
鷲本夫妻は離婚しなかった。でも憲和弁護士は当分針のムシロだろうし、友子弁護士もフラバに苦しめられるだろう。いつまでも苦しめばいい。あなたたちがいくら苦しんだところで、突然かわいい子どもを連れ去られてそれからずっと会わせてもらえない別居親の苦悩には全然及ばないだろうけどね。
和海とともに証拠を示して校長と談判して、僕が逮捕された件は完全に冤罪だったと理解してもらえて、問答無用で担任や部活の顧問を外されたことの謝罪もされた。新年度から改めて三年生の担任にするという内示も受けた。
「いろいろあったけど、家から夢香がいなくなったこと以外はこれで元通りかな」
「不倫DV妻がいなくなって慰謝料で大金ゲット。元通りというより大成功だろうよ。焼肉くらいおごれよ」
というから、週末の夜、誠也も誘って三人で食べ放題の焼肉屋に行って、一番高い和牛食べ放題コースをおごった。本当は小麦も誘いたかったが、女子生徒を私的に食事に誘うのはコンプライアンスの面で問題があるだろうから自粛した。
季節はすっかり冬。学校ももうすぐ冬休み。焼肉の一番おいしい季節。
珍しく雪が降り積もる夜だった。心ゆくまで和牛とお酒を堪能してタクシーで帰宅すると、マンションのエントランスの前に見慣れぬ人影があった。若い女のようだ。白地に不自然な赤い柄のコートを着ているなと思ったが、柄だと思ったものは血液かもしれない。
「鳥居俊輔だな」
「そうだけどあなたは?」
「望月茉利子」
と答えるなり、彼女は僕の胸に刃物を突き立てた。茉利子の不倫を夫の保に告げ口した復讐に来たらしい。保と連帯して鷲本夫妻を地獄に落とそうと思ったら、保の妻に刃物で刺された。これも因果応報なのか?
「こんなことしたらご主人が悲しむよ……」
「それはない」
茉利子は刃物を引き抜いて、僕の胸に再度刃物を突き立てた。僕の体は雪の上に崩れ落ち、雪が鮮血に染められてゆく。
「私が今も不倫していることをおまえから知らされても、保は気づかないふりを続けていた。昨日、鷲本友子から慰謝料を払えという内容証明が届いて、それを同居してる姑が受け取って中を見てしまった。だから離婚しとけばよかったのに何回裏切られたら気が済むの! って姑から責められて保は自殺したよ。〈鷲本を殺せば君を許す〉という書き置きだけを私に残して。私と出会ってから保にはずっと悲しい思いをさせてきたけど、これでもう悲しさを感じることもなくなった」
「それなら鷲本を殺せばいいだろう?」
「あの夫婦なら真っ先に殺してきた。おまえで三人目だ。憲和とは手切れ金をもらって一回関係が切れたんだ。たった百万だったから、たったこれっぽっちで私から自由になれると思うなと私の方からまた復縁を迫ってしまった。三人殺したから私は死刑だろうな。死ぬことに悔いはないが、お腹にいる保の子を出産するまでは死刑を待ってもらうつもりだ。私は鷲本夫婦といっしょに地獄に落ちるが、おまえは保のいる天国に行って、あいつが寂しくならないように話し相手になってやってくれ。私は地獄でもう一度あの夫婦を殺すつもりだ」
茉利子のコートの赤い柄は鷲本夫妻の返り血だったようだ。血も涙もないと思っていた二人の体にも赤い血が流れていたんだな、と僕は妙なことに感心していた。
「これで許してくれるんだよな!」
茉利子は誰に言うでもなくそう口走ると、エントランスの照明に照らされながら、それからずっとケラケラと笑い続けた。薄れゆく意識の中で、こんなことなら鷲本夫妻を僕の手で殺しておけばよかったな、とただそれだけを後悔していた。
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