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大学卒業以来ずっと正社員として働いてきたから、アルバイトという働き方をなめていた。ファミレスのホールスタッフの仕事が正直こんなに大変だとは思わなかった。しかも時給は驚くほど安い。こんなに安い時給でてきぱきと働いている同僚たちをいまだに信じられない目で見てしまう。
勤務時間が終わり更衣室で制服を脱いで着替えていると、金森千鶴さんに話しかけられた。金森さんはこのアルバイト十年目のベテラン。年は私より三歳年上の四十歳。背が高くて小顔の美人。頭がよくて仕事もできる。一昔前に流行ったクールビューティーという言い方がぴったりの人。もっと稼げる仕事をすればいいのに、とこの人と話すたびにいつも思う。
「仁科さん、どう? 仕事は慣れてきた?」
「いえ、要領悪くてすいません」
まだ旧姓で呼ばれることに慣れない。離婚するとき子どもたちと違う姓になるのが嫌だったから、旧姓に戻したくないと俊輔に要望したけど、
「一度リセットした方がいい。あなたにとってもね」
とあっさりと却下された。
「離婚したご主人、学校の先生だったんだっけ? ということは仁科さん、ずっと専業主婦で外で働いてなかったんじゃない? それならなかなか仕事に慣れないのもしょうがないよ」
専業主婦だったことはない。むしろ専業主婦を馬鹿にしていた。女だからといって仕事しないで狭い家の中に閉じこもるなんて、籠の中の鳥みたいだと。
そんな私が仕事も家庭もどちらも失った。笑い話みたいだけど当事者としてはまったく笑えない。今の私は糸の切れた凧と同じ。自由ではあるけれど、大空を風任せでいつまでも漂うだけ。
「仁科さんはなんで離婚したの?」
いきなり直球が来た。たいして親しくないのに、というか親しくてもそんな込み入った質問をするのは失礼ではないだろうか。
「いろいろあって……」
もとから態度悪かった上に不倫してるのがバレて挙げ句の果てに不倫相手の子どもを妊娠してしまったから、とはとても言えない。
「つらいことがあったみたいね」
金森さんはうんうんとうなずいた。励ますような笑顔を作って。
「お子さんもいるんだよね。実は私もシンママでさ。離婚したのは五年前。それまで元旦那は浮気にDVにやりたい放題だった。いまだに子どもに会わせろとやいやい言ってくるけど、養育費だけ払わせて一度も会わせてない。それが私の復讐」
娘が二人いるけど、同居してないから、正確に言えば私はシングルマザーではない。つまり私は金森さんの元夫と同じ立場。離婚の理由を正直に話さなくてよかった。
「育児しながら仕事して、シンママ生活はつらいよね。でも子どもの笑顔を見たらつらい気持ちなんて吹き飛ぶよね。生活は大変だけど、私は今の自分に誇りを持ってるんだ」
私の場合、連れ去った娘たちは私の交際相手に殺すぞと脅迫されて逃げ出して、俊輔のもとに戻っていった。それから子どもの笑顔なんて見たことない。たまに会えば、浮気女死ねと罵られた。今は会わせてももらえない。次の面会は慰謝料を払い終わってから、と俊輔に通告されている。勝手すぎると抗議したら、不倫していたあなたに言われたくないと一蹴された。
まだ再就職はできないけど、昼も夜もバイトして慰謝料と養育費は毎月必死に払っている。慰謝料を払い終えるのはまだ二年以上先。今はもう何のために生きているかも分からない。
「ちょっと聞いてもいいですか。五年間一度も子どもに会わせてないのに、ご主人よく養育費払ってくれますね」
「向こうは復縁を希望しててさ、養育費しっかり払ってくれるなら前向きに考えるって伝えてあるからだよ。もちろん全部ウソ。私なんか死ねばいいって不倫相手の女とLINEでやり取りしてたことを私は一生忘れない!」
どうしよう。話せば話すほど胃が痛くなってくる……
「今は育児と仕事で全然余裕ないけどさ、いつかまた恋をしたいと思ってる。不倫したら〈不倫しました〉って焼印を顔に入れてほしいよね。これ以上人生の貴重な時間をくだらない男のせいで無駄にしたくないからね」
「ほ、本当にそうですね……」
「女でも不倫くらい別にいいじゃんとか言い出す馬鹿がたまにいるけど、仁科さんがそんなクルクルパーじゃなくてよかったよ」
今、私の顔色は貧血患者みたいに青白くなってるはずだけど、幸い金森さんは興奮しているせいで気づかない。
「今の私の夢は浮気もDVもしない男と再婚して、〈僕のお父さんは新しいお父さんだけです、もう僕と会おうと思わないで下さい〉と子どもが書いた手紙をあの男に送りつけてやること。今すぐは無理でも、今年か来年のうちには必ず実現してみせるんだから!」
金森さんがクールビューティーのイメージをぶち壊す勢いでこぶしを振り上げて決意表明している前で、私の心はみっともないくらいぶるぶると震えていた。私の過去がバレる前に、アルバイト先を変えた方がいいかもしれない――
金森さんと話して不安になった。不倫して離婚された過去を知られて責められることを恐れたからじゃない。金森さんの夢は元夫とは違う男と再婚して、子どもと元夫との関係を完全に遮断することだという。
同じことを俊輔も考えて、それを実行したらと想像して胸が苦しくなったのだ。
地方公務員で年収も七百万。バツイチでコブツキなのがマイナス要素だとしても、俊輔が婚活市場に参入すれば、生活苦のシンママたちがほっとくわけがない。たとえば、アプリや合コンで俊輔と金森さんが出会ってしまったとしたら――
恋人としては多少不満があっても、いい夫であったと思うし、父親としても申し分なかった。何より俊輔は娘たちの同居親であり、今や娘たちの心をしっかりとつかんでいる。俊輔との決別は娘たちとの決別も意味する。俊輔をほかの女に盗られるのも嫌だけど、娘たちと二度と会えなくなるなんて想像もしたくない! だからどうしても俊輔の再婚だけは阻止しなければならない。
時間は夜の六時。勤務時間は終わっているし、なぜか知らないが部活の顧問を外されたらしいから、少しくらいなら話す余裕もあるだろう。いても立ってもいられなくなって俊輔に電話した。
「夢香? どうしたの?」
「これから雪が降るって。いっしょに見たいなって思って」
あからさまにため息をつかれた。
「あなたとは離婚したばかりだけど……」
「もう一度恋人からやり直してほしいです」
「あなたは相変わらず自分のことばかりだよね――」
必死な私に冷淡な俊輔。恋人時代は逆だった。だから私はいつしか俊輔を侮るようになってしまった。
「あなたとはもう恋人になれないよ。だってこうやって電話で話してるだけでも、嫌なことばかり思い出して暗い気持ちになってしまうんだから。恋人にするならいっしょにいて明るい気持ちになれる人がいい」
「俊輔さんがこれからは明るい気持ちでいられるように精一杯努力します。もう一度だけチャンスをもらえませんか?」
「僕は学校の教員だから思うんだけどさ、不倫っていじめとよく似てる気がするんだよね。やった方はすぐに忘れるけど、やられた方は一生忘れられないところとか。あなたはどう思う?」
「俊輔さんの心に消えない傷をつけて申し訳ありませんでした。どうすれば俊輔さんの心の傷を癒やすことができますか?」
「心の傷を癒やす一番の薬はあなたのことを忘れることだよ」
身も蓋もないとはこのことだ。最後にもう少しだけ食い下がってみた。
「半年ほど前に、私たちが受けた以上の制裁を鷲本憲和に与えることができたら許してくれると俊輔さんに言われました。その約束はまだ有効ですか?」
「それか。あなたがあの男を社会的にでも物理的にでも殺してくれれば、確かに個人的にはスッとするよ。でも、あなたが刑務所に行くようなことになるのは困るんだ。だって僕の妻ではなくなっても、あなたは真希と望愛の母親なんだから。あの子たちを犯罪者の娘にするわけにはいかないんだ。だからあの男とはお金だけもらって示談した。悔しいけど仕方ない」
「そうだったんですね……」
「そういうわけだから、これからのあなたは娘たちの母親として恥ずかしくない生き方をひたすら貫いてください。慰謝料も養育費も僕のためではなく、娘たちのためだと思って払い続けてください」
「分かりました……」
「じゃあ電話切っていい? これから焼肉食べに行くことになってるんだ」
「女とですか!」
思わず大声になってしまった。俊輔の苦笑してる顔が目に浮かぶようだ。
「男三人でだよ。言っとくけど当分彼女を作る気はないから。娘たちがあなたの不倫相手に殺すぞって脅されてまだ間もないのに、これ以上あの子たちにショックを与えたくないんだよ。まさか、あなたはもう新しい彼氏ができてたりするの?」
「そんな人いません! 信じてください。離婚しても私の身も心も俊輔さんだけのものです。女の体がほしくなったらいつでも言ってください。私をどれだけ都合のいい女扱いしてもかまわないので、ほかに女を作らないでください!」
「あなたの気持ちは分かったけど――」
私が熱く語れば語るほど、俊輔の口調はますます冷淡になっていく。
「今のセリフも娘たちが聞いたら悲しむと思うよ。じゃあ――」
プツッと通話を切られた。俊輔はこれからみんなで楽しく焼肉か。私はこれからスナックでさらにバイト。今まで好き勝手やってきたツケが回ってきたのは理解してるけど、いつまでこんな先の見えない消耗するばかりの毎日を送らなければならないのだろう?
スナックでのアルバイトはお客さんとお酒を飲みながらしゃべったり、ときにデュエットしたり一人で歌ったり。ママは瞳さんという自称42歳の和服美人。でも実際は50歳を越えてると思う。もちろん野暮な追及はしませんけどね。私は春花という源氏名で、週三で夜の八時から夜中の二時までこの店で働いている。俊輔と松永賢人の元奥さんにそれぞれ分割で毎月払っている慰謝料(俊輔には養育費も)の負担は大きいが、約束通りそれを払い続けることが俊輔の信頼を取り戻す第一歩だと信じている。
ファミレスのシフトは夜六時まで。スナックのシフト開始時刻まで二時間ある。天気予報の通り、その二時間のあいだに雪がチラチラと降り出した。気温もひどく低い。今日はお客さんはあまり来ないかもしれない。
街灯に照らされた雪はまるで私の心めがけて降ってくるように錯覚させる。夫のいる身でありながら夫以外の男との恋に溺れてしまった。そうなる前にこの雪が降っていれば、雪がきれいねと夫婦らしい会話が俊輔とできていれば、こんなことにはなっていなかったはず。今は後悔しかない。
ほかの誰でもない。俊輔の隣でこの雪を見上げたかった。俊輔はまだ焼肉のお店の中にいて、雪が降り出したことに気づいてないのかもしれない。誰より早くあなたに伝えたい。
俊輔はきっと、私が復縁を求めているのは娘たちといっしょにいたいから、それだけが理由だと思い込んでいる。確かに離婚する前はそうだった。でも今はそうじゃない。恋人時代より夫婦時代より、離婚した今が一番俊輔に恋をしている。
案の定、お店は閑古鳥が鳴いていた。来るか分からないお客さんを待ちながら、瞳ママと話をした。
「これからお客さんが来ても私一人でなんとかなりそうだし、春花さん、今日は上がってもいいわよ」
「瞳さんはラストまで?」
「そうね。お客さんが来て閉まってたらかわいそうだしね。それに今日は一人息子の誕生日だから、なるべく仕事をしていたい気分なの」
「誕生日おめでとうございます。それなら早く帰ってお祝いしてあげないと」
こういうところが私のダメなところだ。一人息子の誕生日にあえて帰らないと言われた時点で、訳ありなんだなと察することができないところが――
「私にとっては一人息子でも、向こうは私を母親だと思ってくれてないからね」
胸が痛くなった。息子と娘の違いだけで、それは私も同じ。娘たちは私をお母さんと呼んでくれなくなった。しまいには俊輔の判断で会うこともできなくなった。
近くに住んでいるのだから会いたい気持ちがあれば勝手に会いに来るはずだけど、娘たちは一度も姿を見せない。
まだ私は許されていない。俊輔にも娘たちにも。
不倫して舞い上がって何も見えなくなっていた。今は目が覚めて、それだけのことをしてしまったという自覚はある。
家族が私を捨てたんじゃない。私が家族を捨てたのだ。私が許される日はもう来ないかもしれない――
「もう二十年以上前の話だけどね、生活が苦しくて飲み屋さんでバイトしたら、気前のいいお客さんにくどかれてそういう仲になって。すぐに旦那にバレて家から追い出されて男にも捨てられて、それからずっと一人でこの道一筋で生きてきた。子どもを産んだのに子どもと住めない女に世間の目は冷たかったよ。たくさんの男を見てきたけど、結局旦那以上の男はいなかった。たくさんお金を稼いでさんざん贅沢もして、若くして自分のお店も持てたけど、子どもに会えないというだけで空しくなった。いくら手紙を送っても返事は一度も来なかった。子どもが小学校に上がるときランドセルを送ったら送り返された。その子ももう成人して結婚して子どももいるみたい。結婚式にも呼んでもらえなかったけどね」
ナイフでえぐられたみたいに心が痛い。瞳さんの過去は私の未来だ。もうすぐ学校は冬休み。私が不倫さえしなければ、正月休みにどこに旅行に行こうなどと今ごろ家族で楽しく話し合っていたはずだったのに。
「こんな馬鹿な女の与太話、誰にもしたことなかったのに、なんで春花さんに話しちゃったんだろう。不倫して制裁されてすべてを失った友達に励ますつもりで身の上話をしたことはあったけど、そんな人といっしょにされたら春花さん怒るよねえ?」
「怒ってません。参考になりました……」
「私の話が参考になるような人生を送ったらダメだけどね」
吹っ切れたようにケラケラと笑う瞳さん。たぶん空元気だろう。私にはそんな空元気さえ残されていない。
お客さんが全然来ないから早上がりして、日付が変わる前に帰宅することができた。また不採用通知が二通届いていた。外は雪だけど、私の心も懐はもっと寒い。正社員としてどこかの会社に採用が決まるまでのつなぎとして、昼はファミレスでパートして、夜はスナックでバイトしている。忙しいだけでいろいろなものをすり減らすだけの日々。
不採用通知を手に持ったまま呆然としていると、姉の直美が話しかけてきた。私と同じく直美も実家に出戻ってきた。私と違ってまだ離婚は成立していないけど、夫と子どもたちから徹底的に嫌われている点は私と同じ。
「その顔はまた不採用だったの?」
「うん」
「またいいことあるよ。と励ましたいところだけど、夢香あてにまた内容証明が届いてたよ」
内容証明? 俊輔と賢人の元奥さんからそれぞれ送られて、莫大な慰謝料を払ってる途中。内容証明だから不幸の手紙と決まってるわけではないが、思わず身構えてしまった。
今回の内容証明の差出人は鷲本友子。私の不倫相手の一人であった憲和弁護士の妻。震えながら開封して中身を見たら、案の定、憲和との不貞を理由に慰謝料を求める通知だった。請求金額は書いてない。日時が指定されていて、事情を聞きたいからその日に事務所に来いという内容。
憲和との関係は半年前にすでに切れている。今になって請求してきたのは、何があったか知らないが友子弁護士が最近ようやく夫の不倫を知ったからだろう。
娘たちの養育費に、俊輔と賢人の元妻への慰謝料の支払い。今でさえ生活はギリギリなのに、さらに友子への慰謝料まで? 絶望的すぎて言葉を失ってしまった。
「その顔はまた慰謝料請求?」
「うん」
「またいいこと――あるのかしらね、私たち」
ため息をつきながら、直美が部屋から出ていった。直美はDVを理由に家を追い出され、さらに不倫がバレて夫の誠也から離婚調停を起こされている身。職場不倫だったから会社からも退職を迫られている。
私も直美も夫婦仲がよかった時期もあった。どうしてこんなことになってしまったのだろう?
人の幸せとは楽しい思い出の積み重ねでできている。俊輔と婚前に行った旅行とか、みんなに祝福された結婚式とか、娘たちが生まれて見せた俊輔の笑顔とか、最近そんなことばかり思い出す。
不倫とはこういう思い出をすべて台なしにすることだったんだ。俊輔は今は私と話しても嫌なことしか思い出さないと言っていた。嫌な思い出を積み重ねれば夫婦は破局するしかない。
家族との楽しい思い出が浮かぶほどつらい。もう二度と手に入らないものと認めるのはつらいけど、もう認めるしかないところまで来てしまったのかもしれない――
そのときスマホの着信音が鳴り出した。時間はちょうど日付が変わったところ。
こんな時間に非常識な!
イライラしながらスマホの画面を見ると、発信者は娘の真希。慌てて通話ボタンをタップした。
「もしもし!」
「お母さん? こんな時間にごめんね」
「そんなこと全然気にしないで! あなたから電話してきてくれると思わなかったから、感動して涙まで出てきちゃった!」
「涙ならさっきまで私たちも流してたよ。もう一滴も出ないくらいにね」
「どういうこと?」
「聞きたいことがあるから来てほしいんだけど」
「おうちに行けばいいの?」
「違う。市民病院」
「病院? お父さんもそこにいるの?」
「病院にはいるよ。もうこの世にはいないけどね」
「それってどういう……?」
プツッと通話を切られた。話の途中で電話を切られたのは今日二回目。でもかまわない。俊輔と真希、少しでも二人と話せただけで涙が出るほどうれしかった。
一分一秒も惜しいとはこのことだ。着換えと化粧もそこそこに車に乗り込んだ。
服装は入社試験で着ていくリクルートスーツにした。実際、試験を受けに行くようなものだ。もう一度家族に加えてもらうための最初で最後のチャンスかもしれない。与えられたせっかくのチャンスを逃すわけにはいかない。
家族とは決して平凡なものではなかった。毎日の小さな積み重ねの上に築かれる非凡な関係だった。その価値を見失い家庭を壊したのは私だ。
離婚するまでその価値を忘れていた私は本当に馬鹿だ。あふれる思いを誠心誠意精一杯訴えるしかない。
私が不倫したのはほかの誰のせいにもできないけど、娘たちを連れ去ったり、迎えに来た俊輔を逮捕させたり、俊輔の不倫やDVをでっち上げて法外な金額の婚費を請求したりしたのは、全部弁護士の鷲本夫妻にそそのかされて実行したこと。だから何だと俊輔には言われそうだが、決して本心からの行為ではなかった。それは分かってもらいたい。
雪はいつのまにか降り止んでいた。会いたくてたまらない私の心を天も後押ししてくれているように感じた。真夜中、空いている道を制限速度いっぱいに車を爆走させて、俊輔たちの待つ市民病院へと急いだ。
病院に着いたと真希に電話して知らせると、病室番号を告げられそこに来てほしいと返事された。喜び勇んで駆けつけると、ベッドの前の丸椅子に真希と望愛の娘二人と俊輔が勤務する高校の制服を着た見知らぬ女子生徒が一人腰掛けていた。
ベッドに横たわっているのは俊輔。一目見てただ眠っているわけではないことが分かった。
「お父さん、病気なの?」
「知らないの? ネットつないでみなよ。トップニュースになってるから」
真希の口調は挑発的だった。ずっと働きづめでネットニュースなんて見ている暇はない。スマホを操作してポータルサイトのトップニュースの見出しを一目見るなり、魔法使いに悪い魔法をかけられたみたいに私は動けなくなり、言葉を失った。
弁護士夫妻ら三人を殺害して犯人は逃走中
記事の中に殺害された三人の氏名も明記されていて、その中に俊輔の名前もあった。残り二人は弁護士の鷲本夫妻。容疑者の氏名は書かれていないが、若い女で身元は特定されていて警察が全力で行方を追っているということだ。若い女がなぜ鷲本夫妻と俊輔を? わけが分からず、沈黙するしかなかった。
「聞きたいことがあるから呼び出したって言ったよね。これから聞くことに正直に答えて。あなたは松永賢人だけじゃなくて、お父さんより先に殺された鷲本憲和という弁護士とも浮気していた、というのは本当なの?」
私はなんて浅はかなんだろう? 突然こんな夜中に呼び出されて、私にとって都合のいい話をしてもらえるなんてことあるわけないのに。私はうなだれて、本当ですと答えるしかなかった。
「じゃあ、やっぱりあんたがお父さんを殺したようなもんじゃん! 今すぐお父さんを返してよ! この人でなし!」
「私がお父さんを殺した? なんでそんなひどいこと言うの!」
その問いかけに答えたのは真希でなく女子高生だった。
「記事に容疑者の名前は出てなかったと思いますが、警察の人が教えてくれました。容疑者は殺された鷲本憲和の愛人の一人で、望月茉利子という女です。容疑者の女も結婚していて夫も子どももいました。シュン先生は茉利子の夫の保と協力して、共通の敵の鷲本憲和と対決しようとしたことがあったんです。その試みは保が乗ってこなくて断念したようです。その後、夫の保が自殺して、鷲本夫妻を殺したら不倫を許すという遺書を茉利子に残したそうです。茉利子は遺書を見てすぐ鷲本夫妻を殺害しました」
「その女がなぜ俊輔まで……?」
「自分の不倫を夫にバラした逆恨みだろうって警官が言ってました」
「つまりあんたが浮気しなければ、お父さんが死ぬことはなかったってこと! お父さんは殺されたのに、三年間も浮気して裏切り続けて、しまいにはお父さんを死なせてしまったあんたがなんで生きてるの? おかしくない?」
今までの話を聞いて、正直私もおかしいと思った。なぜ何の罪のない俊輔が死んで、俊輔を苦しめた私が生きているのか?
犯人の家庭はもっと壮絶で、妻に不倫された夫は自殺。不倫妻は三人も殺して逃走中。
「もう一つ質問があるんだけどさ、浮気相手の子どもを妊娠して中絶したって本当なの?」
「それも本当です」
「最低!」
家族にまた加えてもらうどころか、今日が娘たちとの今生の別れの日となりそうだ。私の不倫が夫の命まで奪ってしまった。それを挽回する手段などあるわけがない。
「私たちを連れ回してるあいだ、あんたはお父さんの悪口を言いまくりだったけど、あんたの浮気相手が一人じゃなかったことも、あんたが浮気相手の子どもを妊娠したことも、私たちは今日はじめて知った。お父さんは一度も私たちにあんたの悪口を言わなかった。今の話を聞いてどう思った?」
真希に続いて望愛も参戦した。
「ねえ。犯人の女を殺してお父さんの仇を取ってきてよ!」
娘たちがそれを望むならそうしたい。でも夕方俊輔に言われたばかりだ。刑務所に行くようなことをしてはいけない。俊輔と離婚しても、私は真希と望愛の母親。この子たちを殺人犯の娘にするわけにはいかない。
「私たちはあんたのことが大嫌いだけど、それでもお父さんがあんたを許すのなら私たちも許すつもりでいた。でもお父さんは死んじゃったから、もうあんたを許すことは永遠になくなった。それだけは正直うれしい」
ざまあみろと言わんばかりの真希と望愛の顔を見て悲しくなった。許されないから悲しいのもあるが、それより娘たちが優しい心をなくしたのを目の当たりにしていることが何より悲しかった。ただ娘たちの心を鬼に変えたのは私の不倫。責められるべきは私一人だ。
俊輔が横たわるベッドのそばに近づいて土下座した。額を床に押しつけて精一杯の謝罪の言葉を口にした。
「俊輔さん、あなたの人生をめちゃくちゃにして本当にごめんなさい。娘たちは絶対に私を許してはくれないでしょう。あなたに言われたとおり、離れて暮らしていても、これからは娘たちの母親として恥ずかしくない生き方を貫きます。私がもっと早く目を覚ましていればこんなことにならなかったのに。本当に申し訳ありませんでした!」
「謝って許されるなら警察なんていらないよ。あんたも死んでお父さんに謝ってくれば? ああ、無理だった。あんたが落ちる地獄にお父さんはいないだろうからね」
真希がそう毒づいたところで、病室に入ってきたのは義父母だった。私は土下座する向きを180度変えた。
「最初の話し合いを娘たちに任せたのは、暴力を振るわずにあんたと話す自信がなかったからだ」
「いくら殴られても仕方ないことをしたと自覚しています。死ねと言うならそうします」
私がそう言うと義父母は苦りきった顔になった。
「個人的には今すぐ死んでもらいたい。ただ孫たちの両親が二人ともいなくなるのは……。おれたちはあと数年で八十になる。この子たちを成人するまで無事に育て上げるのはとても無理だ。あんたは俊輔の妻としては失格だが、孫たちの母親としてはしっかりやっていたと思う。これから言う条件を全部飲めるなら、孫たちとの同居を認めてもいい」
「ありがとうございます! 子どもたちのそばにいられるならなんでもします!」
課された条件は次の五点。
1 義父母と娘たちが養子縁組する。親権者は義父母。
2 養育の場所は義父母宅。義父母と同居。
3 娘たちが自立するまで男女交際禁止。
4 問題があれば即座に叩き出す。
5 俊輔と同じ墓には入れない。
もちろん即座に承諾した。特に過酷な条件とは思わない。娘たちのそばにいられるなら、手足の一本を切り落とせという条件でも喜んで飲んだはずだ。
同居しても娘たちは決して私をお母さんとは呼んでくれないだろう。今だって二人で私をにらみつけている。おそらく義父母に私の力を借りようと提案されて、真希たちは反発して、この話をつぶすつもりで、先に自分たちだけで私と面会したのだ。挑発された私が松永のように逆上する姿を義父母に見せつけて、娘たちと同居する資格はないよねという方向に話を持っていくために。
私は試験に合格したらしい。でも、今のはただの資格試験。同居してからもずっと厳しい試験が続く。そのつもりで義父母と娘たちとの同居生活を始めよう。空の上に行ってしまった俊輔に私ができる償いは、娘たちが自力で夢を実現できる大人になるまでしっかり養育することしかないのだから。