テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
夏目莉央
1,537
131
くま🐻☁️
12
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
龍彦は、私と朝倉くんを目で往復する。
「もしかして、お前ら出来てんの?」
ほら、またくだらないことに気を取られる。
金満フーズの株価が暴落しているというのに、顧客のことより私たちの関係が気になるらしい。
これでは、顧客のフォローどころか、自分の置かれている状況すら理解していないのだろう。
今まで私は、そんな龍彦の仕事を何度も支えてきた。
彼が困れば助け、失敗すれば尻ぬぐいをしてきた。
それなのに。
(私、どうしてこんな人を……)
胸の奥がすっと冷めていく。
もう、何も感じなかった。
私は小さく息を吐き、静かに視線を床へ落とした。
「おいっ、雨森! どこにいたんだ、探してたんだぞ!」
廊下の奥から、息を切らして走ってくる男性がいた。
第2営業部の社員だ。
その顔には、焦りと苛立ちが浮かんでいる。
「どうかしましたか?」
龍彦が振り返る。
「雨森担当の茂原産業の社長から、ずっと電話が来てるんだ! 金満フーズの株がストップ安なのに、顧客へフォローしていないって何考えてんだよ!」
「えっ!? ストップ安って……なんかあったんすか?」
龍彦が目を丸くする。
私は思わず絶句した。
(嘘でしょう……?)
証券マンでありながら、担当している顧客の保有株がストップ安になったことすら知らない。
事実を理解した瞬間、龍彦の顔から血の気が引いた。
「とにかく、先方に早く連絡を入れろ!」
「は、はいっ! 今すぐ行きます!」
同僚に急かされ、龍彦は慌てて駆け出した。
ところが数歩進んだところで、くるりと戻ってくる。
そして私に縋るように近づいてきた。
「ど、どうしよう。茂原産業は瞳子からもらった顧客だよな? 顧客のためにも、一緒に対処法を考えてくれよぉ」
両手を顔の前で擦り合わせる。
その姿は、まるで助けを乞う蠅のようだった。
(あ……)
不思議なくらい、心が動かなかった。
(もう何にも感じない)
この人は、自分から成長しようとしない。
誰かに助けてもらうことを当然だと思っている。
「自分の力で切り抜けてほしい」
私は龍彦をまっすぐ見た。
「もう、あなたの怠慢の尻ぬぐいは絶対にしない」
「そう言わずに、頼むよぉ。瞳子ぉ」
龍彦が大袈裟に拝み始める。
今までの私なら、「仕方ないわね」と手を差し伸べていた。でも──。
(私はもう、あなたの正体を見てしまったの)
「自分から信頼を壊したのは、あなたよ」
声が震えないように、はっきりと言った。
「もう二度と、あなたを助けない」
龍彦の表情が消えた。
「瞳子は俺のこと、見捨てる気? こんなに困ってるんだよ?」
次の瞬間、腕を掴まれた。
「痛いっ!」
思わず顔を歪める。龍彦の指が、私の腕に食い込んだ。
その瞬間──黒い影が、すっと目の前を横切った。
「いててててっ!」
龍彦の手が私の腕から離れた。
いや、朝倉くんが、龍彦の腕を掴んでいたのだ。
そのまま腕を捻り上げ、龍彦の背中へと回した。
動きに一切の迷いがない。
まるで、最初からそうすることが決まっていたかのように、龍彦を軽々と押さえ込んでしまった。
「朝倉っ! 何しやがるっ!」
龍彦が悲鳴を上げる。
「瞳子さんに、指一本触れるな」
朝倉くんの声は、低く冷たかった。
「そう忠告したはずです」
いつもの柔らかな笑顔はない。
流し目で龍彦を見下ろすその表情には、一切の隙がなかった。
(朝倉くん……私を守ってくれた)
そう思った瞬間、胸の奥が大きく鳴った。
「わ、わかったから離してくれっ!」
龍彦が苦悶の表情で懇願する。
朝倉くんは、ぱっと手を離した。
龍彦は右肩を押さえながら、彼を睨みつける。
「朝倉……こんなことして、ただで済むと思うなよ!」
「瞳子さんへの嫌がらせに対する、当然の処置です」
「アホがっ! おまえだけは絶対に許さないからな!」
捨て台詞を吐き、龍彦は職場へ戻ろうと身体を翻した。
「おばさん、邪魔だよっ!」
「きゃっ!」
勢いよく走り出した龍彦が、清掃ワゴンを押していた後藤さんにぶつかった。
細身の後藤さんが、バランスを崩して床へ倒れる。
「後藤さん!」
私と朝倉くんが同時に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「いたたた……大丈夫よ。尻もちついただけ」
朝倉くんがすぐに手を差し出す。
私も反対側から腕を支え、後藤さんを起こした。
「女性を倒しておいて、謝りもしないなんて……」
朝倉くんの表情が険しくなる。
「本当にひどい人だ。雨森さんは」
その声に、龍彦が足を止めた。
「おい、朝倉!」
振り返った龍彦が、口の端を歪める。
「俺が人事に異動になったら、お前は島流しにしてやる」
私は思わず眉を寄せた。
こんな状況でも、まだ自分の立場を振りかざす。
「結構ですよ」
朝倉くんは、余裕のある笑みを浮かべた。
「でも、その前にご自身の言動で足元をすくわれないよう、気をつけてください」
龍彦は返す言葉を失い、鼻息を荒くして去っていった。
(やっぱり……)
朝倉くんは、強がっているわけではない。
何かを知っている。
そして、まだ私の知らないカードを持っている。
そんな気がした。
「雨森って、あの2課の?」
お尻をさすりながら、後藤さんが尋ねる。
「そうです。第2営業部の雨森龍彦さんです」
朝倉くんがフルネームで答えた。
「人を突き飛ばしておいて謝りもしないなんて、許せないわ!」
後藤さんはしばらく怒っていたけれど、朝倉くんは嫌な顔ひとつせず、彼女の話を聞いていた。
やがて後藤さんが落ち着いたのを確認すると、私たちはその場を離れた。
私は無意識に、龍彦に掴まれた腕を摩る。
そこにはまだ、指の跡が残っていた。
(朝倉くんは……私を守ってくれる人)
胸の奥が、じんと熱くなる。
今まで私は、誰かを支える側だと思っていた。
龍彦の仕事を支え、弟の夢を支え、周りの人間を支える。
けれど。
私が苦しいときに、迷わず手を差し伸べてくれる人がいる。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
私は唇をきゅっと結んだ。
もう、認めるしかない。
正直に、認めないとならない。
私は──朝倉くんが好きだ。