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第9章 同じものを選んだ夜
あの朝の言葉が、頭から離れなかった。
何日経っても、
仕事中でも、
ふとした瞬間に蘇る。
〝アイツも……同じところにあった〟
右上唇に触れられた感触と一緒に、
胸の奥に残った違和感が、じわじわと広がっていく。
あの人は、俺を見ていなかった。
――少なくとも、あの瞬間だけは。
それでも。
あの夜の温もりまで、嘘だったとは思えなくて、
俺はどうすればいいのか分からなくなっていた。
……こんな風に、
誰かに振り回されるのは、久しぶりだった。
――思い出したくもない、
それより前のことだ。
自分はもう誰かを好きになったり、しないのだろうと思っていた。誰彼求められるだけの、愛のないやり取りにうんざりしていた俺は、常連だった渉に恋をした。
優しかったし、何より誠実だった。
彼が俺を束縛するようになるまではね……
職業柄かよく客との距離が近いだの、色目使っているだの言われ、結局は別れたが、未だに店を訪れて来ては無理やり関係を持とうと、嫌な思いをする日々が続いていた。
強く拒めない俺にも、問題がある事は分かっている。
きっと、俺も、一人になる事が怖いんだ。
照は違うと思っていた。
雨の日に訪れる彼は、魅力的で、ミステリアスで、一瞬で惹かれた。
整った顔立ちに、手入れされた肌に、何より謙虚な態度と誠実さに……時間はかからなかった。
〝好き〟
言えない言葉の重みを、初めて知った。
ただの客と店主。
あの日言わなくて良かったと。
誰かを思う照の眼差しを見てそう思った――
そう思った筈なのに、何食わぬ顔をして現れた照に、張り裂けそうなほどに、バクバクと音を立て胸を叩いた恋心に、必死で蓋をしようと、彼に冷たく接することを決めた。
それでも、彼が扉を開ける音だけは、
どうしても嫌いになれなかった。
「いらっしゃいませ……」
雨の日に、いつものようにカラコロと音を立てて、床に染み込む雨水を申し訳なさそうに見た、笑顔で佇む彼は〝また振られちゃった〟と言って目尻に皺を寄せた。
「お掛けになってお待ち下さい」
素っ気なくそう言った俺に、少し眉根を寄せた照は、ソファに座りタオルで髪の毛を吹き上げると、下を俯いたまま動かなかった。
客が帰り、照と二人きりの空間に、息が詰まる思いだった。
「えっと……どうぞ?今日は……ご用件は?」
「ご用件……帰った方がいいかな?ただの雨宿りじゃぁ迷惑みたいだ」
照 side
俺たちの関係には名前など付いていない。
唇を交わし、一晩一緒に居ただけの、それだけの関係だ。
それでも、〝特別〟を互いに感じていた筈だった。
雨に降られて、軽やかなドアベルが鳴る彼の店に、足が向くのは必然だった。
名前のないこの関係に、確かな何かを見出したかったのかも知れない。もっと側に、もっと彼を知りたくて、この言いようのない違和感、俺を拒絶するような彼の態度の理由を知りたい気持ちを、逸る気持ちを押し殺して口から出た冷たい俺の言葉に、彼は酷く傷付いた顔した。
「ごめん……そんなつもりじゃあ……シャンプーしようか?濡れてたら気持ち悪いだろう」
立ち込めたシャンプーの匂い。
〝雨の日は匂いが残るから〟そう言った彼の言葉が頭をよぎった。あの時俺がいい匂いと言った翔太から薫った香水の匂いが今は感じられない。
顔に当てがわれた布を剥ぎ、シャンプーする翔太を下から覗き込むと、照れたように恥ずかしそうに〝見るなよ〟と言った彼が可愛くて、思わずシャツに腕が伸びると、体ごと引き寄せキスを交わした。
「会いたかった」
真っ直ぐな俺の言葉に、青黒い瞳が揺れる。
不安。恐怖。迷い。彼の感情は俺には測れない。
ただ彼はふふっと苦笑いすると、顔に再び布を被せて
「揶揄うなよ」
そう言ってはぐらかした。
ドライヤーの乾いた音。
鏡越しに見つめる俺の視線を逸らす翔太。
いつの間に止んだ雨が、俺の滞在の意味をなくす。
〝雨が降らなくても……また〟彼がそう言った日が遠い昔の事のように、俺の心の中でどんどんと薄れていく感覚があった。
いつもより冷たく感じたドアノブが重く、いつもは軽快に音を立てていたドアベルが静かに鳴った。
「――――ひとりしないで」
必死で出したであろう彼の声が、シトシトと再び降り出した雨にかき消されそうになって、慌てて抱き竦めると
「もう一度言って」
と言った俺の声に、今度ははっきりと
「行かないで」
と言った彼の声は震えていた。
その一言で、足元の何かが音を立てて崩れた。
俺は何も考えられなくなって、ただ腕に力を込めた。
逃げ場を残すつもりだった。
抱き竦めるだけだった。優しく。
でも、背中に回された翔太の指先が、縋るみたいにシャツを掴んだ瞬間、もう離せなくなった。
「……濡れるだろ」
そう言いながら、俺はドアから彼を遠ざけた。
閉めた扉の向こうで、雨音が確かに強くなる。
「今日だけでいい」
小さく、翔太が言う。
「ひとりに、しないで」
それは頼みというより、告白に近かった。
未来の話じゃない。
約束でも、言葉の整理でもない。
ただ、今ここに居てほしいという、弱さそのもの。
俺は一度だけ深く息を吸って、彼の額に額を預けた。
「……分かってる?」
「分かってる」
何が、とは聞かなかった。
それで十分だった。
2階の彼の家。
暖炉がパチパチを音を立て、冷えた体を温める。
ソファに腰を下ろすと、翔太は少しだけ距離を空けて座った。
触れないまま、触れているみたいな距離。
その曖昧さが、ひどく俺たちらしかった。
やがて、彼がぽつりと呟く。
「雨の日じゃなくても……来る?」
「行くよ」
即答だった。
「理由がなくても」
翔太は驚いたように瞬きをして、それから、困ったみたいに笑った。
その笑顔を見て、胸の奥がじんわりと熱くなる。
名前は、まだない。
関係も、きっと曖昧なままだ。
それでもこの夜、
俺たちは、同じものを選んだ気がした。
ひとりにならないことを。
……それだけで、よかった。
雨音に包まれながら、翔太は俺の肩にそっと額を預けた。
その重さが、答えだった。
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えー!!!じわじわとすんごくいい感じに恋が育ってる…… 素晴らしい恋愛小説🥹🥹🥹