庭に夜叉が現れた。
刀を持って。
やられる……っ!
と何故か全員が身構えてしまったが、その夜叉は不思議そうに、
「社長は……?」
と呟いていた。
「ま、まだです」
と夏菜が言うと、すごい気迫で来たわりにはその夜叉、指月は困ったような顔をする。
「本当に俺が社長に勝ってしまっていいのだろうか」
ど、どうでしょうね……と思ったとき、
「若が来ましたよっ」
と黒木の声がした。
振り返ると、飛ぶように速い有生が山を駆け下りてくるのが見えた。
その手にも得物がある。
この戦い。
よく死者が出なかったな……と思ったとき、苦悩しかけていた指月が敵の存在に反応して、戦闘モードに入った。
有生が来る前にと夏菜の腕を捉えようとする。
だが、夏菜は思わず、その手を手刀で止めていた。
「地獄の花嫁が参戦したぞっ」
何故、私まで地獄……っ、と思いながらも、夏菜は身構える。
「……さすがだな、藤原。
その強さ、俺の花嫁にふさわしい」
強さを見込まれたんだったんですか、私……と思ったとき、
「逃げろっ、夏菜っ」
と指月の後ろから声がした。
有生だ。
「指月はまだお前を捕らえてはいないっ。
ゴールはお前だっ」
そ、そうかっ、と夏菜は再び繰り出された指月の手を腕で防ぐ。
「強い。
強いな。
隙がない……。
面白いじゃないか、藤原……」
ひいっ、夜叉が笑っている。
怖いが、なんか楽しそうだ。
次々繰り出される技を夏菜はすんでのところで、すべて交わしていた。
中継を見ていたとき、雪丸が酒を注ぎつづけていたせいで、かなり呑んでしまっていたので足許がフラつくが。
逆にそのせいで、指月の意表を突く動きになってるらしく。
手からスポンと抜けていくうなぎのように、上手い具合に、夏菜は指月の手から逃れていた。
「酔拳かっ」
と耕史郎が笑い、有生が後ろから呆れたように、
「……やっぱり、お前が一番強いじゃないか」
と言ってきた。
頼久が笑って言ってくる。
「よしっ。
夏菜を倒したものが、夏菜の夫だ!」
なんか趣旨が変わってますけど、おじい様っ!
夏菜の祖父の指令により、地獄の魔王、有生もこの戦いに参戦した。
二人がかりではすぐにやられるっ。
夏菜は猛ダッシュで庭から逃亡しようとした。
「おっ、地獄の花嫁が逃げたぞっ」
「待てっ、賞品っ」
と有生が叫ぶ。
ん? よく考えたら社長からは逃げなくていいのでは?
と思ったのだが、二人同時にやってくるので逃げざるを得ない。
一歩リードしかけた有生の足許に指月が鞘に入れた刀を投げるのが見えた。
有生が気づき、すんでのところで飛び上がり、避ける。
「行かせませんよ、社長っ」
「……どんな秘書だ」
と近くで苦笑いしながら、フェンシングが言っていた。
だが、それを聞いた指月が、
「好きな女性を前に、社長も秘書もありませんっ」
と叫ぶ。
おおーっとみんながどよめいたが。
いや……、指月さん、この戦いの雰囲気に呑まれてるだけだと思うんですよね、と夏菜は思っていた。
「夏菜さん」
といつの間にか真横にいた黒木が言ってきた。
わあ、びっくりした、と夏菜は振り向く。
「女冥利に尽きますね。
あんないい男二人があなたのために戦うとか」
「いやー、どうなんでしょう。
すでに私のことは眼中にないような……」
いつの間にか夏菜の存在は忘れられ、男二人の戦いが始まり、格闘好きのお弟子さんたちもみな、そちらに集中している。
男たちの熱気の伝わる庭の隅で黒木が訊いてくる。
「かなり白熱してますが。
夏菜さんはどっちに勝って欲しいですか?」
いや、それは……と夏菜は赤くなった。
戦う有生を見ながら、思い出していた。
最初にフローズンなボトルをつかんで突っ込んでいったときのこと。
社長と二人で本を読み耽った夜のこと。
一緒にスーパーに行ったこと。
100均グッスで料理したこと。
ふたりでバルコニーから夜景を眺めたときのこと。
「……なんででしょう。
走馬灯のように社長との思い出が蘇るんですが。
私、死ぬんでしょうか」
いや、違うでしょう、と黒木が苦笑いして言う。
単に結婚という言葉に、有生との生活を思い起こしてしまっただけなのだろう。
結婚とかまだよくわからないけど。
この先ずっと一緒に誰かと暮らしていくのなら、あの人がいいな、とやっぱり思ってしまう。
夏菜は戦っている有生を見た。
私に限らず、誰だって、初めて結婚するときは、なんにもわからないまま。
不安しかないけど、でも。
ただその人と永遠に一緒にいたいと思って、結婚するんだろうな。
そう思ったとき、有生がふいに構えを解くのが見えた。
「……なんの真似ですか」
と指月が警戒したまま訊いている。
「いや、そろそろこの勝負を決するときだと思ってな。
体力を消耗しすぎたら、いきなり後ろから地獄のうさぎが殴りかかってくるかもしれんし」
ははは、と酒瓶を手にした雪丸が笑っていた。
……やりそうだな、と思ったとき、有生が仕切り直すように叫んだ。
「さあ、来いっ!」
と柔道の構えをとる。
二人視線を合わせたあとで、指月が有生に向かっていった。
有生が指月の腕をつかんで向きを変える。
次の瞬間、勢いよく指月はふっ飛んでいた。
地面に叩きつけられる。
「一本!」
と黒木が声を上げた。
「華麗な一本背負いだっ」
とみながどよめく。
「さすがは若っ!」
と銀次が感激したように叫び、手を叩きはじめた。
なんとなくみんなも拍手をする。
有生が指月に手を差し伸べ、指月がその手をつかんだ。
「……やはり社長には敵いませんね」
と指月が憑き物が落ちたような顔で言い、珍しくちょっと笑った。
夏菜もみんなと一緒に手を叩いていたが、内心、
いや、ちょっと待て、と思っていた。
この勝負、さっきまで、最後まで立っていられた人間の勝ち、みたいな感じだったと思うんだが。
確かに、社長がそろそろ決着をつけたいみたいなことは言ってたけど。
いつから、一本とった奴の勝ちになったんだ?
実際、あの程度なら今までにも何度も指月は投げられているし。
すぐに飛び起きて、有生に向かっていっていた。
だが、みんな有生の口車にのせられ、もう勝負はついた感、満載だし。
指月も助け起こされ、感動的な握手をして、もうやり遂げた感でいっぱいのようだった。
ま、まあ、いいか、と思ったとき、いつの間にか側に来ていた頼久が言った。
「やはりあの男で間違いなかったな。
あの周りを巻き込み、上手く流れにのせる口車。
人心を惹きつけるなにかを持っておる」
これ、如何に人を煙に巻いて、人心を惑わすかっていう戦いだったんですかね……と思ったとき、有生がこちらにやってきた。
「そうそう。
勝負はお前を負かした奴の勝ちだったな」
夏菜、と呼びかけた有生が、少し笑い、額をこつん、と小突いてきた。
た、倒れるべきかな、此処で。
きゅうって。
いや、どうやって、と赤くなりながらも小突かれた額に手をやり、後ろを振り返る。
地べただ。
せっかく加藤さんが用意してくれたドレスが汚れるっ。
っていうか、もうすでに倒れるには遅すぎるっ。
社長っ、すみませんっと思ったとき、有生が一歩前に進み出た。
夏菜の両腕をつかみ、みんなの前で口づけてくる。
歓声が上がり、離された夏菜は力が抜けたように座り込んだ。
銀次がちょっとだけ寂しそうに笑い、
「若の勝ちですね」
と言うのが聞こえてきた。
「勝者、御坂有生《みさか ゆうせい》!」
という頼久に声に、わっ、とみんなが声を上げる。
「まあ、今日はマンションの方に帰ってふたりでゆっくりしなさい。
あちらの方が職場にも近いだろうし」
と頼久に言われ、有生と二人、マンションに戻っていた。
「あー、なんかどっと疲れましたねー」
と言いながら、有生が鍵を開けてくれた玄関に入った瞬間、夏菜は、
「ただいまー」
と無意識のうちに言っていた。
それを聞いた有生が振り返り、笑う。
「……もう俺たちの家だな」
「えっ?」
「このまま此処に住もうか」
「そ」
そうですね。
それでもいいですけど。
社長は別に家をお持ちなのでは……
なのでは……
なのでは……?
思考が途中で止まって同じところを繰り返してしまったのは、その先を考える前に、有生に顎をつかまれ、キスされていたからだ。
そのまま壁に押しつけられる。
「……わかったんだ」
と囁いてくる有生に、
え? ……は?
と動転した夏菜は、ちっともロマンティックでない間抜けな声を上げてしまう。
「お前を襲うときは素早く。
敵と認識される前に」
な、なに言ってんですか、と赤くなる夏菜に有生は訊いてきた。
「もういいよな?」
な、なにがですかっ?
「広田も、黒木も元田も水原も、柴田も指月も、加藤さんもお前の爺さんも、謎のフェンシングの人も駅伝の人も忍者の人も認めてくれたから、もういいよな?」
ど、何処まで訊いてきてるんですかっ。
ていうか、まず私に今、訊いてくださいよ。
いや、いいですとは言わないですけどね、ええ。
……恥ずかしいので、と照れながら思っていたのだが、有生は、
「お、そうか。
お前には訊かなくていいんだったな」
と言いながら、夏菜を抱き上げた。
「だって、お前、自分で言ったじゃないか。
正気になったら襲ってくださいって」
いや、あれはですね~と赤くなる夏菜に有生は言う。
「俺は今日は呑んでない。
正気だ。
雪丸が刺客のように酒瓶を手に呑ませようとしてきたか、呑んでない」
奥に向かって歩いていた有生はソファのところで足を止めたが、チラと開け放たれたままの窓を見、言ってくる。
「もう待てないから此処でいいかと思ったが、やめておくか」
「え?
なんでですか?」
と反射で訊いてしまっていた。
ああいやっ。
今すぐ此処で襲ってくださいとか、そういう意味ではないですっ、と慌てふためく夏菜をおかしそうに眺めたあとで、有生はまた歩き出しながら言ってきた。
「いやいや。
UFOに邪魔されたらいけないからと思ったんだが、お前がいいならいいか」
いやいや、と夏菜は手を振る。
広い家の中、少し歩いて有生は訊いてきた。
「もう此処でいいか」
いやいや。
「寝室ならいいか」
いやいや。
「ベッドの上ならいいか」
いやいやと手を振りながら、夏菜はベッドに放られていた。
このベッド、社長の匂いがするな、と思う。
この匂いを吸い込んだだけで、心の奥深くまで捕まってしまって逃げられない気が……と思ったとき、有生は夏菜の上に乗ってきたが。
突然、
「いや、駄目だ」
と言い、身を起こした。
え? 何故ですか?
とまた言ってしまいそうになる。
起き上がった有生はベッドサイドにあったペットボトルを遠くに押しやると、
「よしっ」
と言う。
「これで万全。
もう俺を祟り殺せないぞ」
「いや、祟ってるの、貴方の方ですってばっ」
と赤くなって言う夏菜を有生はベッドに押しつけ、そっと口づけてくる。
その口づけを受けながら、夏菜は思っていた。
いや、やっぱりこれ、祟りですよ……と。
貴方が笑いかけてくるだけで、
その手で触れてくるだけで、
キスしてくるだけで、
死にそうに心臓が締め付けられる。
「祟りですよ」
夏菜は大真面目に有生に言った。
「貴方に心臓、殺されそうです」
なにがおかしいのか、その顔を見た有生が笑い出す。
「そうだな」
と囁いたあと、有生は夏菜に口づけながら言ってきた。
「そうだな。
俺も今、死にそうだ……」
夏菜は技を繰り出すことなく――
ちょっと笑って目を閉じた。
完
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