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第六話 感じない痛み
午前の授業が終わった教室は、午後の光が静かに満ちはじめていた。
生徒たちの声や笑い声は確かに聞こえるのに、どこか遠く、薄い膜の向こう側で響いているようだった。
晴明は、机の引き出しを閉めようとして手を滑らせた。
思った以上の勢いで身体が前へとあおられ、机の角に――
ガンッ
鈍い音が響いた。
強烈な衝撃。
頭が切れてもおかしくないほどの打ちつけ方だった。
……なのに。
痛みが、ない、?
晴明は一瞬、息を飲んだ。
目の奥に火花が散るような衝撃が走ったはずなのに、ほんの少しのしびれすらない。
ただ、何か柔らかいものが触れたような、ぼんやりとした感触が残っただけだった。
「……え?」
指先でこめかみを触る。
血が出ていないか確かめるために。
そのはずなのに、触った瞬間――
“自分の皮膚ではないものに触れた感覚”が走った。
冷たくて、薄くて、どこか透けている。
まるで自身の体が「映像の一部」になったかのようだった。
「晴明くん」
静かな声が教室に流れ込む。
振り返ると、学園長がいつの間にか扉の前に立っていた。
表情はいつもの穏やかさを保ったまま、しかし眼だけがわずかに光のない深さを湛えていた。
「机に……ぶつけたのですか?」
「はい……ですが、その……痛みが、まったく……」
「そうですか。それは何よりです」
晴明は胸の奥がざわついた。
“痛くないこと”が、こんなにも不吉に感じることがあるとは思わなかった。
学園長はゆっくりと歩み寄る。
一歩近づくごとに、教室の光が少しずつ弱まる。
「痛みは、夢が覚めてしまう原因になりますからね。
貴方には……現実の痛みなど、必要ありません」
「……夢?」
「ええ。たとえ頭を打とうと、どれほど大きな衝撃があろうと――
この場所では、それらはすべて“影”に過ぎません」
学園長は晴明の頬へ指を伸ばす。
触れる寸前、晴明は反射的に身を引いた。
その動作を見て、学園長の微笑はふっと薄くなる。
「逃げるほど、痛みは戻ってきてしまいますよ?」
喉の奥がひりつき、晴明は言葉を失った。
逃げようとするほど、世界が歪んでいく。
逃げたくないと言い聞かせるほど、身体が他人のもののように感じ始める。
(……僕は、どうなっている)
晴明は机の角をもう一度指で触れた。
現実ならば硬く冷たく感じるはずだ。
だが、そこに触れた指先は――まるで水面に触れるように、輪郭を沈めた。
「……嘘、でしょ?……」
「嘘ではありませんよ、晴明くん」
学園長の声は返事ではなく、まるで晴明の思考に直接答えたようだった。
「この教室も、机も、痛みすらも……もう“本物”ではないのです。
貴方が傷つかないように、世界のほうが形を変えているだけですから」
晴明は震える手で後ずさった。
しかし退いた先もまた、水のように揺らぎ、床板の模様が一瞬だけ波立つ。
「や、やめてください……」
「何を、です?」
「僕の……感覚を、勝手に……!」
「勝手に?」
学園長はゆっくりと首を傾けた。
その影が床に落ちると、床の模様が少し滲む。
「晴明くんが望んでいるから、ですよ。
“痛くない世界”を。
“苦しくない場所”を。
そして――何より」
指先が晴明の胸の前で止まる。
「私以外の存在が、消えていく世界を」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が強く跳ねた。
その音だけが妙に鮮明で、逆にそれ以外の音がすべて遠のいた。
晴明は息を呑み、後ずさろうとした。
しかし足がうまく動かず、空間につかまれているような感覚が足首にまとわりつく。
「逃げてもいいですよ。
でも――逃げれば逃げるほど、“痛みのない夢”は深くなります」
学園長の声は穏やかで、優しくて、どうしようもなく逃げ場を奪う。
「晴明くん、貴方は今、“夢の中”にいます。
そしてこの夢は、わたしが醒めさせるまで、終わりません」
その瞬間、
机の角が――音もなく、形を失った。
まるで世界が「痛みを消すために角をなくした」ように。
晴明は息を止めたまま、目を見開く。
逃げ場が、またひとつ消えた。
コメント
2件
晴明君は"夢の中"に居るってことか…学園長が目覚めないと晴明君はでられない…こんな最高なストーリーを観れて幸せだ🍀( ´∀`) 逃げれば逃げるほど夢の中に沈む…続きが気になる! 楽しみにしてます!