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第七話 目覚めへの手がかり
教室の壁がゆっくりと波打っていた。
まるで空気そのものが眠っているように、揺れ、たゆみ、形を変えていく。
晴明は机の角を見つめた。
本来あるはずの尖った部分は数分前に消え、今は丸く、曖昧で、まるで粘土のようだ。
(……これはもう、完全に“夢”だ)
痛みがないこと。
触れたものの輪郭が沈むこと。
音が遠のくのに、自分の鼓動だけが鮮明に響くこと。
どんなに否定しても、現実の手触りではなかった。
「……なら、目を覚まさないと」
晴明はこめかみを押さえて深く息を吸った。
夢なら、覚める方法があるはずだ。
強い刺激、目を閉じる、自分の意識を揺さぶる――。
そう思い、彼は強く頬をつねった。
しかし――
指はすり抜けた。
「……っ……!」
つねるどころか、頬はまるで霧のように形を変え、指が沈むだけで痛みも感触もない。
(ここまで来たら、“夢の中”の自分すら曖昧なのか……?)
背筋を冷たいものが走る。
だが、立ち止まるわけにはいかなかった。
晴明は意識をはっきりさせるように、教室の扉に向かて歩いた。
出口から外に出れば、何かが変わるかもしれない――
そんな微かな希望にすがるように。
だが、扉に手を伸ばした瞬間。
「行くのですか?」
背後から流れ込んだ声は、あまりにも穏やかだった。
振り返ると、学園長が黒板の前に立っていた。
まるで、そこに初めから存在していたかのように自然に。
「どこへ行こうとしているのですか、晴明くん」
晴明は唾を飲み込む。
「……夢から、覚めようとしているだけです」
「目覚める?」
学園長は小さく、優しく微笑んだ。
「どうしてそんなことを?」
「こんな……現実じゃありえないことばかり起きるからです」
「“現実じゃありえない”?」
その言葉を繰り返す学園長の声は、どこか嬉しそうだった。
「では、現実とは何ですか?」
問いに詰まる。
口を開きかけ、閉じる。
答えようとするたび、頭の中の風景がざらつく。
学園長は一歩近づく。
「痛みがある世界が現実ですか?
苦しみがある世界が現実ですか?
それとも――わたしのいない世界が?」
「……そんなつもりでは……」
「では、なぜ“夢”だと決めつけるのです?
貴方が現実だと思っている場所ほど、不確かなものはありませんよ」
言葉が胸の奥深くまで刺さる。
晴明はそれでも、必死に意志を繋ぎとめた。
「……僕は……戻りたいんです。日常へ」
学園長は晴明のその言葉を、静かな目で見つめた。
驚くほど優しい目だった。
だが、その奥で揺れていたのは――底なしの深淵。
「戻りたいなら、戻るといいのです。
夢を破る方法は、たったひとつだけ」
晴明は息を呑む。
「……教えてください」
「ええ」
学園長は晴明の手をそっと取り、指先を導くように胸の中央へ触れさせた。
「“わたしを否定すること”。
それが目覚める唯一の方法です、」
教室が静まり返った。
空気が止まり、天井の蛍光灯の光が固まる。
「さあ、晴明くん。
わたしを消すと思って、しっかりと否定してみなさい、、、ですかあなたにできますかね?」
まるで優しい教師が、問題の答えを待つような口調。
しかし晴明の全身を、凍るような緊張が締めつけた。
(学園長を……否定すれば、覚める?
本当に……?)
晴明は震える唇をゆっくり開き、声を絞り出した。
「……あなたは……」
その瞬間、
学園長の影だけが――床から浮き上がった。
「言ってごらん、晴明くん。
“それ”は本当に夢を破る言葉になるのでしょうか?」
影が揺れ、笑っているように見えた。
晴明は息を呑み、声を失った。
夢から覚めるどころか、
“夢を破った瞬間に何が起こるのか”――
そのほうが、はるかに怖かった。