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「ベルが無事で良かったよ。とにかく今は体を休めよう」
春の日和のようなユカリの温かで優しい声に、むしろベルニージュは焦慮と罪悪感で圧し潰されそうになる。
「そんな訳にはいかないよ」声を張って反論しようとしたが、ビアーミナ市まで急いで戻って来たベルニージュの声は弱々しかった。「グリュエーを助けに行かないと。すぐにでもモルド城に乗り込まないと」
居間に集まっている面々はベルニージュとユカリの他にレモニカ、ソラマリア、ユカリの義母ジニ、ユカリの実母エイカ、透明蛇のカーサだ。不滅公ラーガの騎士ヘルヌスはいない。
「もちろん。出来るだけ早く助けに行かないとね」とユカリはベルニージュを安心させるように飾り気のない微笑みを浮かべて請け合う。「でもベルニージュだって一人で神殿に乗り込もうとはしなかったんでしょ? 助けるなら沢山の仲間で綿密な計画を考えてからってことだよね」
その通りだ。ベルニージュ自身も初めはそのように考えて行動していたはずだが、皆に事の次第を話すと焦りが加速してしまった。ベルニージュはユカリの言葉を呑み込むように頷く。
「それにしてもハーミュラーってのは深奥への移動を事もなげにやれるの?」とエイカが尋ねる。「義母さんでもすっごい時間がかかるのにね」
「そうですね。簡単にやってのけているように見えました」ベルニージュは己の失態を思い浮かべながら答えた。
ユカリは眉をひそめてジニとエイカに目を遣り、皆に説明する。「アギムユドル市で遭遇した克服者たちは深奥を自由に行き来してた。それ自体は呪災と克服の祝福による偶然の結果なんだろうけど、きっとそれをきっかけに深奥の研究も始めていたんだと思う」
「でもそれならハーミュラーもアギムユドルまでひとっ飛びしていたはずじゃない?」とベルニージュは疑問を提示する。
ジニが説明を試みる。「あるいはあたしたちが深奥を行き来していたところを観察して、きっかけをつかんで完成したのかもしれないね。あたしたちが巨人の遺跡から手がかりをつかんだようにさ」
「いつできるようになったかなどどうでもいいだろう」とソラマリアが断じる。「現に今使えるんだ。それも自由自在に、制限なく、と考えた方が良いだろうな。次の瞬間にはここに現れるかもしれない。それを踏まえて作戦を練らねばならない」
「自由自在ではありませんよね?」とレモニカが確認する。「長距離を移動するのであれば縁の深い人物がいないといけないのではなくって?」
「そう。深奥においては縁が深い人物間の距離は短い」とベルニージュが答える。「今回の場合で言えばソヴォラさんかグリュエーのもとに、いや、あるいは呪いによって生み出された村の人たちに移動できたのかもしれない。呪いとの縁っていうのも奇妙な話だけど。それと正直な話、深奥に潜られたら防ぐ手立てはない。ユカリ以外は」
「え!? 私には防ぐ手立てがあるの!? なんで?」
「だって深奥の存在が見えるでしょ?」とベルニージュは少し不安になりつつ尋ねる。「カーサのこともシシュミス神のことも見えるようになったし」
「でもゼレタさん、アギムユドル市の人々とかエイカのことは深奥に潜るまで見えなかったけど」
「それは深奥とは関係なく孤立の呪いだかの結果だと思う。ユカリは深い方向にも目が良い。それが魔法少女の能力の一つなのか、ユカリ自身の資質なのかは分からないけど。深い方向って言葉、覚えてる?」
「……うん」とユカリは自信なさげに呟く。
ベルニージュの目にも、お手上げだという表情の者がユカリ以外にも何人か見て取れた。ジニ以外だ。
「縁の方向は何て言いかえるの?」話を逸らすようにユカリが疑問を浮かべる。
「縁は人間関係の数だけ存在するんだから言い換える必要ないよ。あえて言い換えるならユカリ方向、レモニカ方向だね。ワタシにとってのユカリ方向とレモニカにとってのユカリ方向は別物だけど」
「私から見て右、みたいなことか」とユカリは呟く。
「本当にこれはグリュエーを助けるのに必要な話なのか?」とソラマリアが問う。
場合によっては作戦を練るのに必要かもしれないが、まだ必要になってない段階で語るべきではなかったかもしれない。
「ユカリしか対抗策がないのならユカリが目を見張るしかないね」と言ってジニは孫娘かつ娘のユカリに期待の眼差しを向ける。
「じゃあ後は殴り込むだけ?」とエイカは妙に自信ありげに尋ねる。
ほぼ全員が不安そうに頷いた。
「何か聞こえないか?」そう言ってソラマリアが立ち上がり、窓へ向かう。「悲鳴のようだ」
ユカリも別の窓へと走る。確かに聞こえる。甲高い声や野太い声が徐々にはっきりとしてくる。窓枠がかたかたと鳴っていた。庭の痩せた木の葉擦れまで聞こえる。
「それに揺れてるよ」ユカリが不安そうに窓を開いて覗き込む。「でもここからは何も見えない。教団の、モルド城の方じゃない?」
ベルニージュは先立って玄関へと向かう。異常事態をすぐに把握する。まさに乗り込もうと計画していたモルド城が消え失せていた。
全員で城へと走る。グリュエーを助けに向かう前にハーミュラーが動き出してしまった。モルド城の厩舎に預けているユビスも心配だ。やはり悠長に作戦会議などしている場合ではなかったのだ。ベルニージュの後悔が積み重なる。
シシュミス教団も救済機構もライゼン大王国も混乱に見舞われていた。慌てふためく人々を尻目に大通りを走り抜け、いくつかの橋を渡る。
街はどこも恐慌状態だ。城のあった場所へ近づくほど混乱が激しい。逃げる者もいれば、城へと駆けつける者もいる。ベルニージュたちは群衆を掻き分け、何とかはぐれることなく、城のあった場所へとやって来る。
城はただ消えただけではない。まるで初めから何もなかったかのような更地が広がっていた。積み重ねてきた歴史も、街を一つにまとめる厳かさも、まるごと虚空へと葬り去られたかのようだ。このような現象を説明できる事象をベルニージュたちは一つしか知らない。城が深奥に飲み込まれたのだ。
更地の真ん中でハーミュラーが待ち受けていた。一目でハーミュラーと分かった。艶めく白銀の髪、深みのある翡翠の瞳。しかしその姿は大きく変化していた。
まるで人間と巨大な蜘蛛が一つの頭を共有しているような格好だ。首の下からは人間の体が、後頭部からは馬や牛よりも巨大な蜘蛛の体が生えている。蜘蛛の体毛はハーミュラーの銀髪に似て絹のように滑らかに垂れ下がり、緑の陽光の下に輝きを放っている。人間の体の方は相変わらず背筋が伸び、傾きも粗密もない慎ましやかな佇まいで、翠緑の瞳は八つに増えているが口元には人間の微笑みを浮かべている。前面は人々に安堵を約束する巫女の姿だが、後ろに控える蜘蛛の体躯を支える大木の如き八本の脚は苛立たしげに地面を踏み鳴らして地面を抉り、威嚇するように銀の体毛を揺らしている。巫女の姿でもたらされる安心感を、自らの蜘蛛の姿で掻き消している。まるで火矢の飛び交う戦場の花を眺めているような不安を掻き立てさせられた。
「ハーミュラーさん。あなたは、一体……」ユカリの問いかけもまた宙に消える。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
火傷の痕を何となく摩る。それがみどりの不安な気持ちを抑え込むおまじないだった。
もう存在しない痛みと、朧げな誇らしさに慰められる。
「どうかした?」と見知らぬ誰かが覗き込む。
その声の可憐な響きに、見目麗しさに、みどりは恥じ入り、手の甲を隠す。
「なんでもないよ」が緑には精一杯だった。