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ユカリはすぐに白昼夢から目覚めたが、言おうとした言葉は喉につかえて出て来なかった。グリュエーの過去の記憶といい、どうして妙な瞬間に現れるのだとユカリは内心憤る。
問いかけようとした言葉を思い返す。ただ単に、ハーミュラーを知ろうとしたのだ。
ハーミュラーの姿は明らかに蜘蛛のそれであり、その姿に関連するものは一つしか考えられない。ベルニージュが問いを引き継ぐ。
「シシュミス神の子、シシュミス神とソヴォラさんの娘、半神なんだね?」
半神、神と人を両親に持つ子。神話にも多く登場し、神に比肩する力を持つ英雄もいる。
半神という発想はユカリにはなかった。きっとシシュミス神に関係しているのだろうとは思ったが、ハーミュラーもまた克服者になったのだろう、と考えていた。
が、ハーミュラーはベルニージュの言葉を肯定するように頷く。
「ええ、どうやらそのようです。私もまたつい先日知ったばかりですが」
ハーミュラーの声色には自嘲が混じっている。
「どうやって知らずにいたのですか?」とレモニカが珍しく好奇心のようなものを露わにして問いかける。「人間の姿に変身していたのはご自身のご意思ではないのですか?」
「そうですね。そもそも変身ですらありません」ハーミュラーの八つの瞳が全てレモニカに向けられる。「体の、人間らしくない残りの部分は深奥に隠されていたのですよ。我が父、シシュミスの思し召しでしょう。人としてこの地を救済するならば人間の姿の方が都合が良いですからね」
「それじゃあ何故正体を現すことにしたの?」とベルニージュは問いかける。「深奥を行き来できるなら、これまで通り体の一部を隠すのもわけないでしょ?」
「何故? 何を不思議に思うことがあるのです?」ハーミュラーは口元にのみ微笑みを浮かべ、小首を捻る。そして高らかに歌うように魂を曝け出すように答える。「これが私です。この身は我が誇りです。神に連なり、クヴラフワを救う我が使命の顕れなのですから」
亡国クヴラフワの中心地、二大国の衝突を経てなおビアーミナ市の枢要だったモルド城の消え失せた広場で人々の突き刺すような悲鳴、耐えかねる叫び声、理屈のない怒鳴り声、あてどない困惑の声が入り乱れ、ユカリの耳に蓋をする。
シシュミス教団の神殿たる城が消え、心配して集まった人々が、この呪われた地の精神的支柱である巫女ハーミュラーの変わり果てた姿に混乱しているのだ。全く別物の姿であればそれが巫女であることに気づかず、恐怖の他に湧き立つ感情はなかったろうが、それがハーミュラーであることが明らかなばかりに、怒りや悲しみ、悔しさや絶望といった感情が入り混じっていた。集まってくる人々と逃げてゆく人々がぶつかり合い、混ざり合い、恐慌が高まっていく。
救済機構の僧兵たちや大王国の戦士たちも集まりつつある。異形となった巫女ハーミュラーを前に誰もが剣を抜き放つが、問答無用で飛び掛かる者はいない。ハーミュラーの出方を窺っている。
衆人環視の中、ハーミュラーが呪われた緑の空を見上げる。魔法少女と巫女の他には不可視の父たる蜘蛛を仰ぎ、両腕を掲げ、歌をうたい始めた。この街で何度も何度も聞いた、どこからともなく聞こえてきた朝を報せる歌、『黎明告げる祈り』だ。蜘蛛の如き姿からは想像もできない、霧深い山奥に人知れず湧く清水の如き清澄な響きが呪われたクヴラフワを祝福するように響き渡る。
このような状況でなければ聞き惚れていただろうが、黙って聞いている訳にはいかない。グリュエーはどこにやったのか、問いたださなくてはならない。城ごと消えたらしい厩舎に預けていたユビスも取り戻さなくてはならない。
とにもかくにもユカリたちはハーミュラーを取り押さえようと踏み出したその時、ハーミュラーの歌が、声量が何倍にも増幅する。教団の信徒たちが、ハーミュラーと共に合唱し始めたのだ。何十人、何百人もの声が、まるで一つの喉から溢れ出しているかのようにぴたりと重なり合い、共鳴し、ビアーミナ市の空に鳴り渡る。ユカリが振り返ると、信徒の誰もが大きな口を開いて歌っていた。その歌の響きも詞も、失われた平和を希う歌だ。しかし彼らの顔に浮かぶ表情は変わらず険しく歪み、蜘蛛の如き巫女を恐れていた。
次の瞬間、ハーミュラーが眩い光を放つ。知っている光だ。ユカリもベルニージュもレモニカもソラマリアもグリュエーも経験した、魔導書による変身だ。
ハーミュラーの人間の部分の左足に水晶を誂えた輪が飾られている。その足輪が眩い光を放ち、涼やかな巫女服がはためいたのち霧散した。細い糸状の光が放射して広がり、蕾のようにハーミュラーの異形を包み込む。紡ぎ織られた白銀の薄絹に縞瑪瑙の如き艶めく黒い刺繍が蜘蛛の巣状の模様を為す。袖が花開くように広がり、手首で窄まる。二本の足を覆う、流れるような裾はふわりと漂う幽霊のように揺らめく。魔導書の用意した、瑞々しい果実のように赤い靴が足元を彩る。一方で蜘蛛の体の方は合掌茸に覆われているだけだ。
最後に足輪が一際輝き、その輝きはハーミュラーの眼前に集中し、凝縮し、光の内から一挺の竪琴が姿を現す。螺旋の彫刻が施された優美な支柱、優雅な曲線を描く頸棒から響板へと白銀に輝く弦が張り詰めている。触れない内から震えているように思わせる繊細さだ。
異形ながら神々しいその姿に皆が呆けてしまう。
「さあ、救済の時です!」ハーミュラーの混じり気のない声が鐘の音のように響き渡る。
ハーミュラーはまるで一人だけ救われたかのように恍惚とした表情で、竪琴を爪弾き、ゆらゆらと身を揺らしながらうたう。そしてその蜘蛛の腹の先から白い光が溢れ出す。糸だ。
素早く反応したのはベルニージュとジニだった。二人の灯した白熱の業火が、猛禽の如き火焔がハーミュラーに躍りかかるが、溢れる糸は蛇のようにのたくって赤く輝く熱を弾く。
さらに紡ぎ出される蜘蛛の糸は空へと駆け上がり、シシュミス神の姿を覆い隠すほどの渦を巻く。そして幾つもの束に別れ、その束がさらに別れて地上へと降り注ぐ。
ユカリたち、救済機構、大王国の面々を除く、クヴラフワに生きる者たちの頭上に糸が降り、彼らの姿を包み込んだ。雄叫びが、数えきれない獣の如き唸り声が束ねられ、ビアーミナ市に轟き渡る。一瞬の後にはハーミュラーの糸に覆われた者たちが糸を破って現れ、緑に光る眼を持つ蜘蛛の姿となって現れる。今度こそ克服者だ。ハーミュラーとは違って、人間と蜘蛛を混ぜた醜い怪物と成り果てている。まるでクオルの生み出した魔物のようだ。
「これの何が救済だって言うんですか!?」ユカリは燃え滾る怒りを込めてハーミュラーを問い質す。「クヴラフワを呪いで満たしで、皆を怪物に変えて、これで誰が救われるって……」
ユカリの沈黙と同時に、皆がハーミュラーの意図するところに気づいた。
「呪いを解くのではなく、適応することにしたんだ」とベルニージュが指摘する。「それが克服の祝福。呪いに適応して、呪い無しでは生きられなくなる。だから解呪の邪魔をするんだよ。克服者にとって呪いは空気のようなものになる」
ハーミュラーは冷ややかな笑みを返す。
「当たらずとも遠からずと言ったところでしょうか」とハーミュラーは答える。「何にせよ苦しみに喘ぎ続けるよりもずっとましです」
「馬鹿な」とソラマリアが吐き捨てる。「そんなものが救いだと? それは屈従だ」
ハーミュラーはなお空を仰ぎながら冷たく返す。
「シグニカとライゼンの放った呪いはこの地に根付く魔導書の支えによって、決して解くことは出来ません。それは魔導書を持つ貴方たちでさえ不可能だったことで証明されたではありませんか。そうそう。あなたたちは呪いの復活を我々が行っていると疑っていたのでしたね」
「クヴラフワから出て行けばいいじゃない」とエイカが指摘する。「今まで封鎖されていたのは呪いが溢れ出ることを忌避してのことでしょ? こうして出入りできるようになったんだし」
ハーミュラーはくすくすと声を漏らす。
「随分愚かな方がいらっしゃるのですね。あなた、ユカリさんの母君でしたか。人口が大幅に減ったとはいえ、クヴラフワの民衆を難民として受け入れられる土地があるとは思えませんが、それ以前の問題があるのですよ」それ以前の問題が何なのかはその場にいる誰も分からなかった。「クヴラフワにおけるもっとも強力な呪いは、クヴラフワで生まれた者をこの土地に縛り付ける呪いなのですから。ああ、もちろんグリュエーという唯一の例外を除いてですが」
「おかしいね」とジニが否み、エイカを手振りで示す。「この子はクヴラフワで生まれたんだよ。他にも数百人の孤児を衝突の直後にあたしは外へ脱出させた」
変身してから初めてハーミュラーの表情に綻びが生まれる。疑念と困惑がありありと表れている。
「そんなはずは、ありません。私がこれまでどれだけ試行錯誤してきたことか。封呪の長城も反転した断崖もハイヴァ封鎖海峡も亀裂蓋も! 攻略して、それでも誰一人脱出など敵わなかった! 適当なことを言わないでください!」
「言わないよ」とジニは冷静に答える。「だとすればあたしが子供たちを脱出させてから、あんたが民の脱出を試みるまでの間に誰かが呪いを足したってことになるね。心当たりはあるかい?」
暫しの沈黙。しかし心当たりがあるのかどうか、ハーミュラーの表情からは窺い知れなかった。
「それが誰であれ、いずれにせよ、もはや脱出できない呪いもクヴラフワに根付いてしまったのです」ハーミュラーは淡々と答える。「私のやるべきことは何も変わりません」
ハーミュラーは蜘蛛の腹を持ち上げ、糸を放つ。それは洪水のように押し寄せ、切り裂かれず、焼き切られず、誰の抵抗も空しく皆が絡め取られてしまった。
全てが糸に覆い隠される直前、ユカリは上空にモルド城が現れるのを見た。まるで空に架けられた蜘蛛の巣にかかって藻掻き苦しむ憐れな毛虫のような有様だった。