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篠崎が先行してマンションの部屋に入る。
自動で照明がついて、長靴を脱ぐ。
それをクロークの下のシューズスペースに置き、コートをかけると、篠崎は框に上がった。
その動作と後ろ姿を見るのはひどく久しぶりな気がして、由樹は喉の奥が痛くなった。
「結構温かいな。このマンションの断熱性能も大したもんだ」
リビングに入ると、一瞬上着も脱ぎかけるが、篠崎は数秒静止した後、それをきちんと着直した。
「篠崎さん。俺……」
由樹はコートも脱がずに篠崎を見つめると、腰を90度に折り曲げた。
「すみませんでした!篠崎さんを裏切るような真似をして……!!」
頭を下げたまま叫ぶように言う。
「気にしていないふりをしていたんですけど、やっぱり鈴原さんのこと、気になってしまって。てっきり鈴原さんは篠崎さんのことが好きだと思っていて、近づいてほしくないなって思っていたところに、その、街中を3人で仲良く歩いていたって牧村さんに聞いて……」
そこで慌てて顔を上げる。
「いや、牧村さんにも悪気があったわけじゃなくて、本当に病院から出てきたのとか知らないまま、ただ3人を目撃しただけなんですけど」
篠崎は黙ったままこちらを見下ろしていた。
相当量を飲んでいたが彼の目にも酔いは感じられない。
「牧村さんが悪いんじゃないんです。俺が話を聞いて、勝手に。その、篠崎さんが鈴原さんに『結婚したい』って言ってたってエピソードも地味にずっと気になっていて、いや、地味にじゃなく、本当に気になっていて、それが本心なのかな、とか、そういうこと思ったりして」
「…………」
「俺、いまだに篠崎さんが俺を選んでくれたこと、付き合ってくれたこと、一緒に住んでいてくれること、信じられないっていうか、夢みたいで、いつか醒めるんじゃないかって思ったら、ずっと怖くて、不安で―――。
それに、あの、誕生日祝ってくれるって言われてすごく嬉しくて、期待して、楽しみにして、絶対熱下げてやるって、それはもう楽しみに……」
そこまで言ったら涙が出てきてしまった。
泣きたくないのに。
泣ける立場でもないのに。
泣き落とせる相手でもないのに。
ただ言葉が詰まるだけで役に立たない涙を堪えながら、由樹は声を絞り出した。
「だから、篠崎さんが来なくて、連絡もなくて、不安に押しつぶされたところで、牧村さんに電話貰って、一番一緒にいてほしくない相手だったから、それで」
「もういいよ」
篠崎が由樹を見下ろした。
「もう、いい」
「よくないです!」
由樹は篠崎を見上げた。
「いくら言い訳をしたって許されることじゃない!最低なことをしました!本当にごめんさい!」
「いいって」
篠崎が吐息交じりの声を出す。
「許してもらえないかもしれないけど、でもずっと、これからずっと、反省しながら生きていくんで、ずっと謝り続けるんで、どうか、見捨てないでください!」
「新谷……」
「ごめんなさい!篠崎さん!許してください!これからも俺と一緒にいてください。二度と、裏切ったりなんか、しませんから!」
由樹は声の限り叫んだ。
篠崎は、涙を振り切るほど必死で叫ぶ由樹を見下ろした。
その目が細くなる。
「もう、過ぎてしまったことだ」
「でも信じてください。俺、牧村さんのことは何とも―――」
「別に疑ってるわけじゃない。あいつのことも、どうでもいいんだ初めから。だからもう名前を出すな。これ以上、謝るな」
「でも、俺には謝ることしかできないから……」
「新谷。俺は怒ってねぇんだよ」
「……え?」
篠崎は大きく息を吐くと、数歩由樹に近づいた。
「数年前の俺なら、本当に考えられないよ。男と別れ話をしてるなんてな」
言いながら自嘲的に笑った。
その“別れ話”という単語が由樹の心を突き刺す。
「お前や紫雨や、あとは牧村も、か。お前らにはわからないかもしれないけど、ノーマルの男が男に惚れるって、それはそれはすごいことなんだよ。ものすごくハードルが高いことなんだ。
ゲイなのに千晶ちゃんを好きになったお前ならわかるだろ?」
言いながら篠崎は由樹の頬を手で包んだ。
「新谷じゃなかったら、絶対にあり得なかった。他の誰でもないお前だったから、俺は男であるお前を好きになったんだ」
堪えようと思っても涙があふれてくる。
零れだしたそれを篠崎が優しく親指で拭う。
「その気持ちを自分で認めたら、驚くほど迷いはなかった。お前と過ごす時間は楽しくて大切で、こうしてずっと生きていくんだと思っていた」
「…………」
篠崎の静かな言葉の発し方に、何も反論できない。何も言い返せない。
「俺はたとえ結婚しなくても、子供が出来なくても、2人の間に愛情と信頼さえあれば、構わないと思っていた」
篠崎のもう一つの手も、新谷の頬を包む。
「でも、今は、そのどちらも、お前に感じない」
「……………」
その言葉の重みに、由樹は身体を震わせた。
「俺はもう二度と、お前を信じることができない」
「……ごめんなさい……。篠崎さん……!」
身体だけではなく声も震える。
篠崎がまた笑う。
「情けねぇよな。33にもなって、こんなつまらないことでお前への愛がなくなってしまった。あんだけ強引に八尾首にお前を連れてきたのに。そんな自分にも失望してるんだ」
―――篠崎は悪くない。
何一つ、悪くない。
「……新谷のことは変わらず可愛いよ。一人の人間として、男として、尊敬もしている。
でもそれは、部下としてだ。
ここでお前が可哀そうだからと同情して一緒にいたんじゃ、お前のためにならない」
「いやだ……」
由樹は篠崎の腕を掴んだ。
「篠崎さんに、好きな人が出来るまででもいいですから、俺のこと本当に嫌いになったら突き放してもいいですから、それまでの間だけでも一緒に――」
「んなことできるか馬鹿。俺をどんだけ下衆野郎に貶める気だ、お前は」
篠崎は声を出して笑った。
―――笑っている。
微笑んだ優しい顔から、
笑ったその唇から、
とうとうその言葉が発せられた。
「別れよう。新谷」
由樹は膝から崩れ落ちた。
カーペットに両手をつき、握りしめる。
「……わかり……ました……」
涙がポタポタと、カーペットにいくつものシミを作る。
―――終わってしまった。
怒ってないなら謝れない。
疑ってないなら釈明できない。
冷めたと言われたら縋れない。
自分のこの恋は、
奇跡のようだったこの恋は、
自分が粉々に、壊してしまった。
篠崎が由樹の前にしゃがむ。
「そんなこの世の終わりみたいな反応するなよ。胸が痛むだろ」
また笑いながら頭を撫でられる。
「心配すんな。俺はお前の隣の席にいる。お前の話、これからもいつでも何でも聞いてやる」
余計に涙があふれる。
大きな手が力強く、由樹の小さな頭を撫で続ける。
「……辛いよな。お前とは多分種類が違うけど、俺も辛いよ」
グイと顔を掴まれ、上げられる。
「でも、その感情は今がピークだ」
由樹は潤んだ目で篠崎の左右の目を交互に見つめた。
「明日にはちょっとはマシになってる。明後日にはもっと楽になってる」
「……………」
「そう考えれば」
篠崎は由樹を優しく抱きしめた。
「眠れるだろ?」
「…………」
「俺もそう考えて、今夜はちゃんと眠るよ」
「…………」
篠崎は由樹を離し、立ち上がった。
「簡単に荷物をまとめて、明日の朝に出て行け。鍵は会社で他の奴らに気づかれないように俺に渡せ。残りの荷物は、お前が住むところを見つけたらそこに送るから。俺が出てってもいいけど、その方がいいだろ?」
「…………」
由樹は黙って頷いた。
「じゃあな新谷。また明日、会社で」
「…………」
篠崎は鍵を手にし、リビングを出た。
迷いない足取りで廊下を歩くと、照明が自動でついた。
クロークからコートをとる。
長靴を履き、鍵を開錠すると、ドアを開けて、出て行った。
「………ッ!!」
由樹はカーペットに突っ伏した。
時間が経ち、照明が消える。
行ってしまった。
行ってしまった……!
「篠崎さん………!」
涙が溢れてくる。
「……浮気したら殺すって、言ってたじゃないか」
拳を握る。
「いっそ、殺してくれればよかったのに……」
由樹は泣き崩れた。
つい数日前までここに確かにあった篠崎の愛を、幸せな日常を、失ってしまった空虚な部屋の真ん中で、由樹はいつまでも泣き続けた。
篠崎は目を開けた。
「……爆睡、だったな…」
ふっと笑う。
昨日も一昨日もほとんど眠れなかったためとはいえ、シチュエーション的には一番眠れない夜を過ごすはずだった昨夜にこんなに眠れたのは、我ながらおかしかった。
あいつは眠れただろうか。
昨夜、あんなに泣き崩れたあいつは―――。
チェックアウトを済ませてホテルを出る。
飲み屋の近くにあったコインパーキングまでは歩いていくことにした。
このシティホテルからだと10分と掛からず着くはずだ。
空気が澄みわたっていて、吐く息が白い。
それでも雪を降らすほどではない。
八尾首市の気候は、やっと例年通りの12月初旬の気圧配置と気温に戻りつつあった。
11月にしては異例だった降雪が無ければ、自分たちはどうなっていただろうか。
鈴原夏希の家の床暖房のヒューズは飛ばなかったかもしれない。
ホテルに泊まらせるほどでもなかったかもしれない。
牧村は雪下ろしで屋根に上らなかったかもしれないし、新谷も地盤調査の前日に雪かきになんて行かなかったかもしれない。
もし雪さえ降らなければ―――。
今も自分の隣にはあいつが笑っていたのだろうか。
「…………」
コインパーキングに着いた。
同じ場所に停めたはずの金子、細越、そして新谷の車はもうなかった。
小さく息をつきながら料金を払ってロックを外すと、アウディに乗り込みエンジンを掛けた。
昨日、この助手席で緊張して座っていた新谷を思い出す。
もし自分が別れ話を切り出さなければ、彼はどうするつもりだったのだろう。
これからも篠崎と付き合いたいと言ったのだろうか。
昨日の泣き顔を思い出すと胸が痛んだ。
しかし―――。
続けられない。
続けていけるわけがない。
今は辛くても、必ずいつかこの選択をあいつ自身が“よかった”と思える日が来る。
その日が来るまで、どんなに辛くても、どんなに手を差し伸べそうになっても、ただ隣で見守ることしかしない。
篠崎は決意を新たに、第一ボタンを留めて、ネクタイを締め直した。
展示場に到着すると、新谷のコンパクトカーはもうすでに停まっていた。
「あいつ……また徹夜したんじゃねぇだろうな」
少しばかり心配しながらその車の脇を通り、事務所に向かって歩く。
「あ、おはようございます」
出社した金子が並ぶ。
「おお」
言うと、金子はキョロキョロと周りを見回した。
「あれ、新谷さんと別々に来たんですか?」
「ああ、まあな」
そうだった。
遠慮なく堂々としていた自分たちが悪いのだが、別れた今、社員たちにも説明をしなければいけなかった。
一定期間はきっと気まずい思いをさせてしまうだろうが、傷心中の新谷には慰めてくれる彼らがいた方がいいかもしれない。
八尾首展示場のメンツだけじゃなくて、紫雨と林にも言わなくてはいけないだろうか。いや、きっとそっちは新谷が適当なタイミングで適当に伝えるだろう。
「ん?なんかいい匂いしませんか?」
斜め前を歩いていた金子が鼻をぴくぴくと動かす。
本当だ。何やら甘い匂いがする。
金子が事務所のドアを開ける。と、甘い匂いが一気に濃くなった。
「おはようほらいまふ」
お椀に口をつけた渡辺が振り返る。
「なんだ、それ」
篠崎が言うと、
「おしるこです」
と渡辺が白い餅をビヨンと伸ばしていった。
「お汁粉?」
眉間に皺を寄せると、
「篠崎さん!金子君!」
簡易キッチンの前に立っていた新谷が振り返った。
「お餅、何個食べれます?」
「…………」
篠崎はその顔を見て、動けなくなった。
泣きはらした目で、影を背負って出社してくるだろうと思っていた新谷は、眩しいほどの笑顔で篠崎を見上げた。
「昨日キッチン整理してたら、お餅が出てきて。賞味期限ぎりぎりだったので。残飯処理に協力してください」
こんな笑顔、3年前に初めて展示場に来たときも、密かに篠崎を想っていた時庭時代も、こそこそ付き合っていた天賀谷時代も、八尾首市に来て同棲を始めてからだって、一度も見たことがない。
憑き物が落ちたような、さっぱりした笑顔。
「……………」
答えられない篠崎に代わって、金子が手を上げる。
「俺、3個!3個食べたいっす!」
「了解!」
新谷は笑って、視線を篠崎に向けた。
「篠崎さんは?食べませんか?」
「あ、ああ。今は腹減ってねぇから」
「そうですか。鍋に残しておくんで、食べたいとき温めて食べてくださいね」
言いながら金子の分を準備している。
割りばしとウェットおしぼりまで準備すると、新谷はそれを金子に渡した。
「すげえ。新谷さん、嫁に来てください!」
昨日までだったら突っ込んでいた渡辺が、餅を伸ばしながら黙る。
新谷は笑いながら布巾で軽くコンロの周りを拭くと、自分の席についた。
「…………」
隣の自席に座りながら、昨日泣き崩れた男を眺めた。
頭を軽く左右にふり、前髪を整えている。瞳がキラキラと光っている。
篠崎は想像していた姿と全く違う元恋人を、狐につままれたような心境で見つめた。
パソコンを開き、システムを起動させた新谷がこちらを振り返る。
「見てください、篠崎さん!」
パソコンを篠崎の方に向ける。
「ペナルティまでのカウントダウンが解除されました」
そして今度は自分の椅子を篠崎に向ける。
「本当に、ありがとうございました!」
今まで、ここまでまっすぐに自分のことを見上げたことがあっただろうか。
真正面から臆することなく見据えたことはあっただろうか。
「あ、ああ」
やっとのことで答えると、新谷は姿勢を伸ばし、軽く袖を上げ、パソコンのキーを叩き出した。
篠崎も慌てて自分のパソコンを開く。
と―――。
「…………」
そこにはソフトケースに入れられたマンションのカードキーが挟まれていた。