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「好きだった、だけどいなかった」
彼女と僕は、いつも同じカフェで待ち合わせをしていた。静かな裏通りにある小さなカフェ。いつも座るのは、窓際の席。外の景色が見渡せる特等席だった。彼女は、目が笑っているときでも、どこか儚げだった。
「今日は寒いね」と彼女が言った。薄いコートを着ている彼女の肩が少し震えているように見えた。
「コーヒー、温かいのにしようか?」
彼女は静かにうなずいた。「うん、ありがとう。」
僕たちは言葉を交わすことなく、しばらくカップを手に取り、口に運ぶ。いつもなら、彼女がいろんな話題を持ち出して、僕たちは笑い合っていた。けれど、今日の彼女は違っていた。
「どうした?」僕は、彼女の目を見つめながら尋ねた。けれど、彼女は僕の視線を避けるように、カップの中をじっと見つめていた。
「ねえ、」彼女がぽつりと呟いた。「私たち、これでいいのかな?」
心臓が一瞬止まったような気がした。言いたいことは分かっていた。最近、僕たちの関係は何かが変わり始めていた。最初の頃のような情熱は薄れ、ただの習慣のようになっていた。だけど、それを認めるのが怖かった。
「それって…どういう意味?」僕は勇気を振り絞って聞き返した。
彼女はしばらく黙っていた。カップをそっとテーブルに置き、深く息をついた。
「私、ね…もうすぐ遠くに引っ越すの。」
その言葉を聞いた瞬間、世界が一瞬で崩れたように感じた。「どうして?そんなこと、一言も言ってなかったじゃないか。」
「言えなかったの。あなたを傷つけたくなくて。でも、もうどうしようもないの。仕事の都合で、どうしても行かなきゃいけないの。」
言い訳のように聞こえる言葉たち。でも彼女の表情は、真剣だった。僕は何も言えなかった。何を言えばいいのか、わからなかった。
「私たち、これで終わりにしよう。」彼女の声が、静かに響いた。
「終わり…って、もう会えないってこと?」
彼女はゆっくりとうなずいた。涙が彼女の頬を伝うのを見て、僕は胸が締め付けられるような思いだった。
「まだ…好きだよ、僕は。」それでも、彼女の手を取ることはできなかった。
「私も、好きだよ。でも、もう私たちは一緒にいるべきじゃないの。」
言葉がなくなり、僕たちはただ、静かなカフェの中で座っていた。
彼女が去った後、カフェに残された僕はしばらく動けなかった。彼女の最後の言葉が頭の中を何度も繰り返され、心に重くのしかかっていた。気づけば、カフェの外はすっかり暗くなり、窓の外の街灯がぼんやりと輝いている。
「これで終わりなのか…」自分に問いかけても、答えは返ってこない。彼女は本当に行ってしまうのだろうか?突然の別れに納得できないまま、僕はカフェを後にした。
数日後、彼女が本当に引っ越したのかどうか確認しようと、僕は彼女のアパートへ向かった。しかし、そこにあったのは予想もしない光景だった。彼女の部屋は空っぽで、まるで最初から誰も住んでいなかったかのように整然としていた。玄関のドアには不動産屋の「賃貸募集中」の貼り紙が無造作に貼られていた。
「どういうことだ…?」僕は混乱していた。ついこの間まで、確かに彼女はここに住んでいた。急に引っ越すとは聞いていたが、こんなに痕跡もなく消えるものだろうか。
疑問が頭を占め、次に僕は彼女の職場を訪ねた。しかし、職場の受付で彼女の名前を出すと、驚くべきことに「そんな社員は最初から存在しない」と言われた。理解不能な状況に立たされた僕は、言葉を失った。彼女は一体どこへ行ったのか、いや、そもそも彼女は実在していたのか?
さらに調べるうちに、彼女と繋がっていたはずのSNSアカウントや連絡先もすべて消えていた。何もかもが、まるで幻のように消え去ってしまった。まさか、自分が見ていたものはすべて幻覚だったのか?いや、そんなはずはない。彼女と過ごした時間は確かにあった。
不安に駆られた僕は、彼女がよく通っていたカフェの店員に話を聞くことにした。彼女との思い出の場所なら、何か手がかりがあるはずだ。
カフェに入ると、いつもの店員が僕を迎えてくれた。「こんにちは。最近はお一人なんですね」と彼が何気なく言ったその一言が、僕をさらに混乱させた。
「え?彼女と来たこと、覚えてますよね?彼女、いつも僕と一緒にここにいたじゃないですか。」
店員は少し困った顔をして、首をかしげた。「すみません、お客様。お一人でいらしてたことしか覚えてないですね。ずっとそうだったと思いますが…」
僕はその場で凍りついた。店員の言葉は、僕の現実を根底から覆すものだった。彼女がいなかったということなのか?自分が今まで信じていたものは何だったのか。すべてが揺らいでいく感覚の中で、僕は答えのない迷路に迷い込んでいった。
彼女は一体誰だったのか?本当に存在していたのか、それとも…
混乱したままカフェを後にした僕は、現実と夢の境界が曖昧になり始めていることに気づいた。彼女が消えたという事実だけでなく、僕自身の記憶すらも疑わしく感じるようになっていた。まるで、彼女の存在が自分の中からゆっくりと引き剥がされていくかのように。
帰り道、どうしても心が落ち着かず、僕は彼女と初めて出会った公園に足を向けた。夜の公園は不気味で、街灯の薄明かりがまばらに地面を照らしているだけだった。彼女との思い出をたどるかのように、僕はベンチに腰を下ろした。
すると、不意に冷たい風が吹き抜け、誰かに見られているような感覚が襲ってきた。辺りを見回しても、誰もいない。それでも、背後に確実に何かの存在を感じた。振り返ると、暗闇の中にぼんやりとした人影が立っているのが見えた。心臓が跳ね上がり、思わず息を呑んだ。
「誰だ?」震える声で問いかけたが、返事はない。影はじっと動かず、ただこちらを見つめているだけだった。僕は恐怖を感じながらも、その場から動けずにいた。しかし、次の瞬間、その影がゆっくりと近づいてきた。
「私は…まだここにいるよ」
低く、耳元で囁くような声が響いた。驚いて振り返ると、影は消えていた。何かの見間違いだろうか?それとも、僕の心が作り出した幻覚だったのか?理解しようと必死に考えたが、答えは見つからない。ただ、奇妙なことに、その言葉が妙に現実味を帯びて感じられた。
彼女は「まだここにいる」とはどういうことだろう?まさか、彼女は死んでいるのか?そんなことを考えながら、僕は夜の公園を後にした。
その夜、家に戻っても眠れなかった。頭の中で彼女の姿がぐるぐると回り続け、全身に不安が広がっていく。時計を見ると、もう深夜を回っていた。ベッドに横たわりながら、僕は彼女のことを考え続けた。彼女が突然消えた理由、その謎めいた言葉、そして公園での影…。
突然、携帯電話が震えた。こんな時間に誰だ?不思議に思いながら画面を見ると、知らない番号からのメッセージが届いていた。
「助けて」
その一言だけが表示されていた。心臓が一気に高鳴り、冷たい汗が額ににじんだ。誰がこんな冗談を?それとも…彼女なのか?
再びメッセージが届く。
「ここにいる」
ぞっとするような寒気が背中を駆け抜けた。まるで、彼女が僕をどこかに誘い出そうとしているかのようだった。恐怖に押しつぶされそうになりながらも、好奇心と不安が交錯し、僕は返信を打ち込んだ。
「どこにいるんだ?」
するとすぐに返事が来た。
「私たちの場所で待ってる」
それを読んだ瞬間、全身が硬直した。彼女との「場所」…それは、あのカフェの窓際の席に違いなかった。夜中にそんな場所へ行くべきではないと分かっていながら、足は勝手に動き出していた。まるで何かに操られるように、僕は再びそのカフェへ向かうことにした。
カフェに着いた時、辺りはすっかり静まり返っていた。シャッターは下りており、店は明らかに閉まっていた。だが、不思議なことに、窓際の席に微かな光が灯っているのが見えた。恐る恐る近づいて覗き込むと、そこには彼女が座っていた。
「嘘だ…」僕は思わず呟いた。彼女は確かに目の前にいる。しかし、その姿はどこか異様だった。まるで、そこにいるはずのない者が座っているかのように不自然に見えた。目が合った瞬間、彼女は微笑んだ。しかし、その笑みには生気が感じられなかった。
「来てくれて、ありがとう。」彼女が静かに口を開いた。
「どうしてここにいるんだ?お前は、消えたはずじゃ…」僕は震えながら問いかけたが、彼女は答えず、ただ手を差し出してきた。
「一緒に行こう。ずっと一緒だよ。」
その言葉に、背筋が凍りついた。逃げなければならないという本能が叫んでいたが、体が動かない。目の前の彼女が、彼女であることを信じたい気持ちと、何か恐ろしいものに引きずり込まれそうな恐怖が交錯していた。
彼女の手が僕の肩に触れた瞬間、頭の中で何かが弾けたように過去の記憶が鮮明に蘇った。彼女と過ごした日々、それがすべて何か別のものに塗り替えられていくように歪んでいく。
そして、ふと理解した。彼女は最初からこの世の者ではなかったのだと。彼女の存在自体が、僕の記憶の中で作り上げられた幻だったのだ。彼女と出会った場所、公園、カフェ…すべては僕の幻想の産物だった。そして、彼女は今、僕をその幻想の中に引きずり込もうとしている。
「ダメだ…行けない…」僕は必死に拒絶しようとしたが、彼女の手は強く僕を引き寄せた。視界がぼやけ、まるで夢の中に落ちていくような感覚が広がっていく。
「もう戻れないよ、私たちは。」
その囁きが最後に聞こえた瞬間、僕は意識を失った。
目を覚ました時、僕はカフェの前の路上に倒れていた。辺りは明るく、朝の通勤ラッシュが始まっていた。周りの人々が何事もなかったかのように通り過ぎていく中で、僕は一人、何が現実で何が夢だったのか分からないまま、震えながらその場に座り込んでいた。
そして、ふと携帯を取り出すと、メッセージがまた一つ届いていた。
「また会えるよ、きっと。」