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雨の日だった。夕暮れ、スタジオの窓を叩く雨音が、いつもより近く感じた。
「今日はこのへんにしとこうか」
タケさんの声が響くと、元貴と滉斗は顔を見合わせて軽くうなずいた。
ギターのコードが未完成のまま空中に浮かんでいる。
「でもさ、“umbrella”、やっぱいいよ。どんどん音が形になっていく感じがする」
滉斗がギターをケースにしまいながら言うと、タケさんが頷いた。
「うん、元貴くんの音は、やっぱり人に寄り添うね」
元貴は少し照れくさそうに視線を落とした。
「……ありがとうございます」
それは、彼が心からの敬意を持って言えるようになった“ありがとう”だった。
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その数週間後。
スタジオに、ひとりの新しい青年がやってきた。
「こんにちは、藤澤です。……えっと、20歳です。よろしくお願いします」
不安そうな表情。けれど、どこか人懐っこい笑顔。
それが、初めて涼ちゃんと出会った時の印象だった。
元貴が紹介する。
「彼、すごく音感が良くて。もともと吹奏楽部でフルートやってたらしいんですけど…いま、鍵盤に挑戦中で」
涼ちゃんは慌てて手を振った。
「ほんとに触ったことなくて、音出すのもドキドキするくらいで」
タケさんは笑った。
「初めての音って、すごく新鮮でいいんだよ。
むしろ、“知ってる音”ばっかりの人より、ずっと面白い音が出せたりするんだから」
その言葉に、涼ちゃんは「えっ…ほんとですか…」と恥ずかしそうに笑った。
⸻
それからの日々、
タケさんは、涼ちゃんのキーボード練習もそっと見守るようになった。
「涼ちゃん、そのフレーズ、間をもう少し空けてみたら?」
「……あ、ああ!確かに、そっちの方が余韻があるかも!」
「でしょ?音楽って、“鳴ってない時間”がすごく大事なんだよ」
いつしか、涼ちゃんにとってもタケさんは、
ただの事務所の人ではなく、“音楽をともに育ててくれる人”になっていた。
⸻
ある日、練習後の帰り道。
また雨が降っていた。
「今日、誰か傘持ってる?」
「うわ、俺忘れた…」
「俺も」
涼ちゃんが申し訳なさそうに傘を持っていないことを告げると、
タケさんがスッと一本、傘を差し出した。
「じゃあ、入って。俺が差すから」
3人が大きめの傘の下に入ると、自然と歩幅が揃った。
「…あれですね、傘の下って、ちょっと音が違って聞こえる気がする」
涼ちゃんがぼそっと呟いた。
「わかる。なんか、外とは違う世界がここにあるみたいな」
滉斗が返す。
タケさんは、そんな2人のやりとりを聞きながら、
ふと、ぽつりと言った。
「音楽も、傘だよ。
外の世界に濡れないように、誰かを守るためにある。
君たちの音は、そういう傘になれると思ってる」
その言葉が、心にすっと差し込んだ。
音楽って、そういうものなんだ――
ただ目立つためのものじゃなくて、誰かのために、そっと差し出す傘。
元貴も、滉斗も、涼ちゃんも、
その傘の下で、何も言わずに歩きながら、それぞれの胸に言葉を刻んでいた。
⸻
数日後。
タケさんが、元貴にUSBを渡してくれた。
「ここにさ、“umbrella”の全バージョン、俺が持ってるやつまとめといた。
なんかあったとき、君が忘れちゃっても大丈夫なようにね」
「そんな……忘れるわけないですよ」
「そうだね。でもさ、“音”ってね、残るから。
人はいつかいなくなっても、音は残る。
そういうものであってほしいなって、俺は思ってる」
その言葉を、冗談のように笑いながらタケさんは言ったけど、
元貴は一瞬、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。
「……じゃあ、忘れないように、もっと良くします。“umbrella”。
ちゃんと、あなたが自慢できる曲にします」
タケさんは、いつものように穏やかにうなずいた。
「楽しみにしてるよ」
その笑顔が、
あと何度見られるのかなんて――
その時の元貴には、知る由もなかった。
そして――数ヶ月後。
また、雨が降る。