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春が来ていた。
スタジオの窓から差し込む光が少しずつ暖かさを増し、草木の匂いが風に混じっていた。
その朝も、元貴は自室のパソコンの前に座って、未完成の“umbrella”のデモをいじっていた。
曲は少しずつ形を変えて、でもやはり、どこかまだ「完成」を拒んでいるような空気があった。
そんな時だった。
スマートフォンの画面が震えた。
通知には、見慣れた名前――タケさんの同僚だったスタッフからだった。
「……? なんだろ」
メッセージには、こう綴られていた。
“急な連絡でごめん。
タケさんが、昨夜急に倒れて……今朝、ご家族から連絡があって……。
詳しいことは、後ほど伝えるけど――”
文字が途中で揺れて、視界が歪んだ。
「……うそ、でしょ」
読み進める前に、指が止まった。
心が追いつかなかった。
何を、どうすればいいのか。
理解しようとする前に、心が拒否していた。
膝が崩れ、床に手をついた。
まだ音の余韻が残るスピーカーの音が、遠くに消えていった。
⸻
同じ頃、スタジオにいた涼架のもとにも、その報せが届いていた。
彼は、ふだんどおりキーボードのスケール練習をしていたはずだった。
けれど、連絡を受け取ったその瞬間、椅子に腰掛けたまま、動けなくなった。
「……え……?」
声にならない声が漏れる。
信じられなかった。
タケさんは、昨日まで普通に元気で――
自分の演奏にも「よくなってきたよ」って言ってくれたのに。
ぽたり、と鍵盤に落ちる涙。
音が出た。
「……あ」
その瞬間、堰を切ったように、涼架は両手で顔を覆った。
呼吸ができなかった。
何度も嗚咽を飲み込みながら、言葉にならない声を震わせ続けた。
⸻
滉斗は、自宅のギター練習中だった。
LINEで連絡を受け取って、最初は内容の意味がわからなかった。
「タケさん…が?」
思わず声に出してしまった。
嘘であってほしい。
でも、文字はそこにあって、スマホをいくら見返しても現実は変わらなかった。
「……なんで……なんで急に……!」
ギターを握っていた手が震え、力が抜けて楽器が床に倒れた。
その音にも気づかず、滉斗はうずくまったまま、顔を両手で覆った。
「……うそだろ……っ」
しばらく、何も考えられなかった。
頭の中には、タケさんの笑顔しか浮かばなかった。
「“君たちの音楽は、きっと傘になる”って……言ったじゃんかよ…!」
声にならない叫びを、胸の奥で何度も繰り返していた。
⸻
数時間後、3人はスタジオのロビーに自然と集まっていた。
言葉なんて、いらなかった。
元貴は、うつむいたまま座っていた。
涼架は、涙の跡を隠すこともせず、目を真っ赤にしていた。
滉斗は、壁にもたれながら、ただ俯いて拳を握っていた。
しばらく、誰も話さなかった。
ただ、静かに。
それぞれが、それぞれの心の中で――
タケさんという傘を失った現実と、向き合っていた。
⸻
数日後。
3人は、スーツに身を包んで、タケさんの葬儀に向かった。
式場は、白い花に囲まれて、静かな空気が流れていた。
参列者の中にまぎれながら、元貴はスタッフに小さく頭を下げる。
「……あの、今日、“ある曲”を流したいとご家族から…」
スタッフが頷く。
「“umbrella”ですよね。ご家族が、“彼がいちばん好きだった曲だから”って。…音源、いただいてます」
元貴は、何も言えずに、ただ深く頭を下げた。
⸻
やがて、場内に静かに音が流れ始めた。
『不幸の雨が降り続き
傘も無い僕は 佇む毎日』
最初の一節が流れた瞬間。
元貴は息を飲んだ。
こんなにも――
「傘になれた」と思えたのは、初めてだった。
遺影の下、棺のそばで静かに響く自作の音楽。
それはまるで、彼の手をそっと握っているような優しい温度を持っていた。
そのすぐ隣で、涼架が顔を覆って泣いていた。
肩が震え、嗚咽が漏れた。
滉斗も、拳を握りしめながら、必死に堪えようとしていたけれど、
ついに声を殺して涙を流し始めた。
元貴は、何度も唇を噛んだ。
涙が止まらなかった。
『僕が傘になる 音になって 会いに行くから』
その言葉は、もう届かない人に向けて紡いだつもりだった。
でも今、確かにタケさんの“そば”で鳴っている。
――音が、想いを超えた瞬間だった。
タケさんの家族も、目を真っ赤にしながら何度も頷いていた。
「この曲があって、彼は幸せでした」と、あとでそっと伝えられた。
元貴はそっと目を閉じた。
(ありがとう。俺が初めて“音楽で誰かと繋がれた”のは、あなたのおかげです)
⸻
空は、まだ曇っていた。
でも、彼らの心のなかにだけは、音が確かに残っていた。
「傘」はもういないけれど、その傘の“ぬくもり”だけは、ずっと残っていた。