テラーノベル
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翌朝、ハルは空を見た。
昨日までと同じ空だった。
青く、雲が流れ、鳥が飛んでいる。
境界を越えたからといって、空の色が変わるわけではない。
それが妙におかしかった。
「何笑ってるの?」
ナナが聞く。
「別に」
「外、楽しかった?」
「楽しくはない」
「怖かった?」
「怖かった」
「でもまた行く?」
ハルは答えなかった。
昨夜の大人たちの話し合いは結論が出なかった。
シンは当面、子供だけで外へ出ることを禁じた。
当然だとハルも思う。
だが、足跡については大人たちも無視できなかった。
トウマを含む数人が、今日確認へ行く。
ハルとミオは学校へ行くよう言われた。
「ずるい」
ハルが言うと、父は「当たり前だ」と返した。
昼休み。
ミオは窓から北を見ていた。
「何か見つけるかな」
「足跡?」
「それも」
「人だったら?」
「分からない」
「最近そればっかり」
「便利な言葉だから」
放課後、トウマたちが戻った。
足跡は確認できた。
ただし、人が最近通った証拠とは断定できない。
「雨のあとについたようには見えた」
父が言う。
「じゃあ最近じゃん」
「最近が何日前か分からない」
さらに、大人たちは道を二時間ほど進んだ。
倒木。
崩れた舗装。
古い建物。
危険な動物の痕跡は少ない。
空気にも目立った異常はない。
「外、安全だった?」
ナナが聞く。
トウマは首を振った。
「一回歩いただけじゃ分からない」
ハルはその答えが少し嬉しかった。
安全とも危険とも決めつけなかったからだ。
三日後。
大人たちの監視付きという条件で、ハルとミオは再び外へ出ることを許された。
同行はトウマ。
目的は旧道沿いの確認。
「勝手に走るな」
「分かってる」
「拾ったものを口に入れるな」
「入れない」
「建物に勝手に入るな」
「分かってるって」
「お前の分かったは信用できん」
ミオが笑った。
三人は門を越えた。
今日は晴れている。
ハルは初めて、外の空をゆっくり見た。
境界の中でも空は見える。
なのに違って感じる。
壁が視界の端にない。
どこまで歩いても空が続いている。
「広い」
思わず声が出た。
トウマも空を見る。
「そうだな」
道を進む。
昨日見た金属の機械。
父が説明した。
「車、というものらしい」
「知ってるの?」
「記録で見た」
「動く?」
「これは無理だろ」
ハルは錆びた車を回り込む。
その先には、さらに二台。
草木に飲み込まれている。
「昔、こんなのがいっぱい走ってた?」
「らしい」
「どこへ?」
「町と町の間」
「町?」
新しい言葉。
トウマは少し考える。
「村よりずっと人が多く住んでいた場所だ」
「何人?」
「何千、何万」
ハルは笑った。
「嘘」
「俺も実感はない」
二百五十八人でも、村の全員を一度に見ることはない。
何万人。
想像できない。
道はやがて広くなった。
白い線が薄く残っている。
左右に建物の残骸。
窓は割れ、屋根が落ちている。
ミオが小声で言う。
「ここが町?」
「たぶんな」
トウマの声も自然と小さくなる。
人がいない。
でも、人がいた痕跡だらけだ。
看板。
椅子。
錆びた自転車。
割れた器。
ハルは不思議な寂しさを感じた。
「外って、何もないんじゃなくて」
「何?」
「なくなったものがいっぱいある」
ミオは答えなかった。
一軒の建物の前で止まる。
入口は開いている。
トウマが先に中を確認する。
床は一部崩れている。
「ここまで」
壁に色あせた絵。
知らない食べ物。
知らない服。
知らない場所。
ハルにはほとんど意味が分からない。
それでも、昔ここに自分たちとは違う暮らしがあったことだけは分かる。
外へ出れば自由。
そんな簡単な場所でもない。
かつての世界が壊れた跡だ。
昼、三人は建物の影で持ってきた食料を食べた。
「水、思ったより減る」
ハルが水筒を振る。
「だから言っただろ」
「外って水道ないんだな」
「少なくともここにはな」
「村すごい」
「今さら気づいたか」
ハルは笑った。
村では蛇口をひねれば水が出る。
畑もある。
屋根もある。
夜に眠る場所もある。
外へ出て初めて、境界の内側にあるものが見えた。
午後、旧道をさらに進む。
ミオが地面を指した。
「これ」
小さな黒い跡。
灰。
焚き火の跡のように見える。
トウマがしゃがむ。
指では触らず、枝で崩す。
「古い?」
「分からん」
「自然に燃えた?」
「それもある」
近くに細い木の枝がまとめて置かれている。
自然にこうなるだろうか。
三人の空気が変わった。
「今日は戻る」
トウマが言う。
ハルも反対しなかった。
帰り道。
空が少し赤くなり始める。
境界が遠くに見えた時、ハルはほっとした。
「外の方がいいと思ってた?」
父が聞いた。
「分からない」
「そうか」
「父さんは?」
「俺もだ」
ハルは笑った。
外は広い。
知らないものがある。
道がある。
でも、水も食べ物も家も、自分で確保しなければならない。
そして、人がいるかもしれない。
それが味方かどうかも分からない。
門を越える直前、ハルはもう一度振り返った。
壁のない空。
きれいだった。
でも、きれいだから安全とは限らない。
危険かもしれないから、閉じたままでいいとも限らない。
「ミオ」
「何?」
「俺、外が見たかったんじゃないかも」
「じゃあ何?」
「外を見た自分が、どう思うのか知りたかった」
ミオは少し笑った。
「で?」
ハルは境界の内側を見る。
村には煙が上がっている。
夕食の時間。
ナナが待っている。
「村、嫌いじゃない」
「知ってる」
「外も嫌いじゃない」
「まだ三日しか見てない」
「だから、もっと見る」
トウマが後ろから言った。
「勝手に決めるな」
三人は笑った。
その時、遠くの廃墟の窓で何かが光った。
一瞬だけ。
ハルは振り返る。
「今、何か」
「どうした?」
「光った」
トウマも見る。
何もない。
夕日が割れたガラスに反射しただけかもしれない。
ハルはそう思おうとした。
だが。
廃墟の奥。
誰もいないはずの場所から、細い煙が一本、空へ上がっていた。
外へ出る許可が出るまでの三日間、村では意見が割れた。
「子供を二度と近づけるな」という人もいた。
「大人が定期的に調べるべきだ」という人もいた。
「足跡が人なら、先にこちらを見つけられる方が危ない」という声まで出た。
ハルは共同広場の端でそれを聞いていた。
外を見ていない人ほど怖がっている、と決めつけそうになってやめた。
自分だって、一度歩いただけで安全だとは言えない。
セイジが隣へ来た。
「どうした」
「みんな、同じもの知らないのに答えが違う」
「普通だ」
「普通なの?」
「知らない時、人は知っていることから考える。畑の人は作物を心配する。医療の人は病気を心配する。設備の人は部品を見る」
「俺は?」
「外を見たい」
「それだけ?」
セイジは少し考えた。
「最近は、戻ってきて話したい、も入ってるんじゃないか」
ハルは否定しなかった。
三日後、外の町で昼食を取った時、その言葉を思い出した。
村へ持ち帰りたいものが増えていた。
物ではない。
錆びた車があること。
何万人も住んだ町があったこと。
蛇口の水が当たり前ではないこと。
外の空が、境界の内側と同じ色だったこと。
そして、壊れた町を見ても「外は失敗した場所だ」とだけは思えなかったこと。
建物の壁には、子供が描いたらしい薄い絵が残っていた。
丸い顔が三つ。
大きな太陽。
青い線。
「昔の子もこんなの描いたんだ」
ハルが言う。
ミオは絵の前でしばらく黙っていた。
「その子も、ここが普通だったんだろうね」
「俺たちの村みたいに?」
「たぶん」
町は滅びた世界の証拠であると同時に、誰かが普通に暮らしていた証拠でもあった。
だから、細い煙を見た瞬間の衝撃は大きかった。
廃墟の向こうで上がる煙。
もし自然の火ではないなら。
昔ではなく、今ここに誰かがいる。
ハルは反射的に一歩戻ろうとした。
トウマが腕を出して止める。
「走るな。位置だけ覚えろ」
「見に行かない?」
「今日は行かない」
「でも」
「戻る約束だ」
今度は父がミオと同じことを言った。
ハルは煙の位置を目に焼きつけ、背を向けた。
知りたいものを残して帰る。
それも、外を調べるために必要な力なのだと少しずつ分かり始めていた。
門へ向かう途中、トウマが一度だけ振り返った。
「煙のことは、見た通りに話せ」
「人がいるって?」
「それは見てない」
ハルは口を閉じた。
煙を見た。それだけだ。
誰が焚いたのかは分からない。
外へ出てから何度も覚えた区別だった。
見たことと、考えたこと。
その二つを混ぜないことが、村へ戻って話す自分たちの責任なのだと思った。
コメント
1件
読了しました。外へ出て初めて「境界の中には当たり前の暮らしがあった」と気づく逆説がとても印象的でした。錆びた車や廃墟の町、何よりも壁に残された子供の絵が、滅びた世界の向こうにかつての普通の暮らしを透かして見せてくれたようで。最後の煙——「見たことと、考えたこと」を混ぜないというハルたちの決意が、この世界の重みを物語っていて良いですね。安全と危険の間で揺れている距離感が、心地よい緊張を保っていました。