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「三好、それで樋口慎之介はどうなったのだ」
呉服橋御門内に有る北町奉行所は、今月が非番で門を閉ざしてはいるが、各番所内は公事吟味書や詮議書などの書類仕事に追われている。
それでも、お奉行である曲淵景漸が使用する用部屋は静寂に包まれていた。
私は、どう言ったものかと言葉を選びながら、事の顛末を素直に説明する。
「はあ、まあ良くなったというか別人になったというか…
ただ、上役として言えることは以前のように投げ槍な態度ではなく、お役目に対しても真摯に向き合っているということです」
曲淵景漸は何度も頷きながら、「それは、白川流霊枢治療によって、樋口の患っておった気鬱の病が治ったということか?」と聞いてきたので、私も「はっ」と頷くしかない。
釈然としないのは、目の前で起こったあの霊的な現象が、果たして医療行為と呼べるのかという事と、あれは、夢だったのかと疑っているからだ。
お奉行は、先程から右手に持った扇子を正座の膝に乗せてパチリ、パチリと閉じたり開いたりを繰り返していた。
これは、お奉行が熟考する時の癖だ。
「ところで三好は、目の前で門外不出の秘伝、雨祓いを見てどう感じたのだ」
「私が見たのは、雨祓いの邪法だそうですが…」と前置きしてから、「どう、と言われましても、信じられぬというのが素直な感想です」と迷いながらも正直に答える。
「信じられぬというても、白川涼雨が雨(う)とかいう鍼を使って、雨(あめ)と呼ばれる邪気を抜き出し、それを口から吸い込んだというのは事実なのであろう?
しかも、白川涼雨は樋口しか知らぬ事柄をスラスラと喋り始めた挙げ句、吸い込んだ雨(あめ)の中に長居広慎の霊魂が混じっておったと言うて、息子である樋口と言葉を交わさせたそうではないか」
私は、その意見に急いで首を振った。
「いえ、長居様は既にこの世の人ではなく、言葉を交わすことなど出来ませぬ。
言葉を交わしたのではなく、白川殿が一方的に長居様の思いを伝えただけです」
お奉行は「なるほどのう」と頷きながらも、「それから、どうなったのだ」と話の先を促してくる。
「それから樋口が、まるで童(わらべ)のように声を上げて泣き始めると、人相の悪かった樋口の顔が、みるみる仏のように優しくなりました。
そして白川殿が、今、樋口さんの魂魄の痼りが消え去り、私の中の雨も綺麗に浄化されました。と告げて治療が終了したのです」
すると、扇子で膝を打ったお奉行が「見事な仕儀ではないか!」と驚きの声を上げる。
「しかし、それで全てが終わったわけではありませんでした。
白川殿は、樋口の枕元に置かれた差料を持ち上げながら、この刀にも雨祓いを施さねばなりません。と言い出したのです」
「何と、刀に雨祓いとは一体どういうことだ」
「はっ」と頭を下げてから話を続ける。
「白川殿の話によると、魂魄を持たぬ道具にも雨が宿るそうです。
特に、念を持って打たれた刀は、木像や石像などと同様に、雨が宿りやすいのだと申しておられました。
それが、仏像のように人から陽の気を受けている分には問題ないのですが、陰の気を受け続けていると、稀に、雨が宿ってしまうそうです。
そして、雨を宿した者が雨を宿した呪物を持つと、互いが共鳴し合って陰の効果が更に大きくなるのだと、申しておられました。
今回は、長居様の強い陰の気を受けた差料が呪物と化し、樋口に悪い影響を与えていたのです」
お奉行は、感心したように何度も頷いている。
「ところで昨年、腑分けを許してやった三人の蘭方医も、白川涼雨の好意で立ち会いを許されたそうではないか、その者達はどう申しておるのだ」
「私と同様に、信じられぬというのが正直な思いでしょうが、蘭方医の一人、小浜藩酒井様御家中で藩医を務める杉田玄白殿は白川流霊枢治療に甚く感動されたご様子で、今も、白川殿と親交を深めているようです」
「なるほどのう、本物の医師も認めておるのか…」と呟いたお奉行は、「では、白川流霊枢治療は本物だと考えて良いのだな」と念を押してきたので、私はその問い掛けを無視して、逆に己れの疑問をぶつけてみる。
「お奉行は大阪西町奉行をお務めの折に、白川王家の当主である白川霖雨様とお知り合いになられたとか…
それなのに何故、それほどまで詳しくお聞きになりたいのでしょう。
むしろ、我らよりもお奉行の方が白川流霊枢治療についてはお詳しいのでは?」
私の疑問に対して、少し不快な表情を浮かべたお奉行は、「知り合いなどと呼べるほど、気安い相手ではないわ」と愚痴をこぼしてから詳しい事情を説明してくれる。
「白川王家は、公家の中でも半家と呼ばれる家柄で、家格は決して高くはない。
家禄も二百石程度で、神祇領を合わせても三百石足らずしかないのだ。
しかし、大昔に唐最古の医学書、失われた黄帝内経を弘法大師様から受け継ぎ、そこに記されていた秘伝から、白川流霊枢治療を生み出したことで、朝廷で最も重要な役職といわれる神祇伯に任じられておる。
それに伴い、非皇族でありながら王号の世襲を許されたことで、絶大な権力を誇っていたのだ。
しかも、白川流霊枢治療の薬礼や礼金を合わせれば、家禄は一万石の大名をも優に凌ぐといわれておる。
更に、朝廷から与えられた官位は従二位・権大納言というから驚くではないか。
武家で同等の官位の者を探すとすれば、御三家や御三卿くらいしか見当たらぬ。
徳川様の御世になり、諸社禰宜神主法度が発布されたことで、名ばかりの名家に成り下がったと噂されておるが、神社の支配権などたかが知れておるわ。
それよりも、嫁いだ公家の奥方から武家の名家に波及した白川流霊枢治療の影響力は衰えるどころか、以前にも増して大きくなっておるのだ。
制約や決まり事の多い武家社会では、心を病む者も多いからのう。
これで町奉行ごときが、おいそれと会える相手ではないということが分かったであろう」
私は、この言葉に矛盾を感じて、再度、素朴な疑問を投げ掛けてみた。
「では、小石川養生所に白川殿を推挙されたのはどなたなのです?」
この問い掛けに一瞬、逡巡する様子を見せたお奉行だったが、諦めたようにその名前を口にしたのだ。
「今年、老中に就任されたばかりの田沼様だ」
私は、あまりの驚きに「ほう」と言ったまま二の句が継げないでいる。
話が、危険な方向に向かっていることに気付いた私は、話を元に戻そうと話題を変えた。
「それで、お奉行が白川流霊枢治療の真贋を見極めんとするのは何の為でしょう?」
私の質問に対してお奉行は、それがさも当たり前だという風にこう言った。
「決まっておろう。
今回の大火で、就任早々に拝領屋敷を焼かれた田沼様は大層お怒りなのだ。
そこで、火付盗賊改方頭の長谷川宣雄に、早々に原因を究明せよと、強い圧力を掛けておる。
私としては、ここで困っている長谷川宣雄に恩を売っておきたいのだ」
通常、配下でもない武士の諱(いみな)を口にすることは、たとえ本人の前でなくても憚られるのに、お奉行がこうして長谷川様の諱を連呼するのは、相手に異常なほどの敵愾心を抱いているからだろう。
しかし、この流れで私が話の展開を見失ってしまい、理解に苦しむ表情を浮かべていると、焦れたお奉行が、人目を憚るように小声でこう囁いたのだ。
「鈍いのう。雨祓いの邪法を操る白川涼雨は、人の秘密を簡単に暴けるのだ。
大火事の原因究明には、もってこいの人物だとは思わぬか」
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