テラーノベル
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中華人民共和国、北京。
紫禁城の西に位置する中南海。
その地下深くに穿たれた国家安全部(MSS)の極秘指令室『深淵の間』は、かつてないほどの重苦しい沈黙と、それを上回るほどの熱に浮かされていた。
換気システムがフル稼働しているにも関わらず、最高級の龍井茶(ロンジンチャ)の香りと、極度の緊張が強いる脂汗の臭い、そして絶え間なく燻らされる紫煙が混じり合い、呼吸することさえ困難なほどの淀んだ空気を醸成している。
円卓を囲むのは、14億の民を統べる巨龍の頭脳たちだ。
国務院総理の李(リー)。
中央軍事委員会副主席の劉(リュウ)将軍。
国家安全部長の張(チャン)。
そして党の長老会から派遣された数名の重鎮たち。
彼らの視線は、壁一面を覆う巨大スクリーンに釘付けになっていた。
そこに映し出されているのは、中東の荒野で繰り広げられた地獄絵図――アメリカ軍特殊部隊と、中国が支援した武装勢力との戦闘記録映像である。
だがそれは、彼らが予想していた「米軍の苦戦」でもなければ、「物量による圧殺」でもなかった。
映し出されていたのは、物理法則と生物学的常識を蹂躙する、悪夢のような一方的な虐殺劇だった。
映像の中で、一人のアメリカ兵が撃たれる。
大口径の銃弾が防弾プレートを貫通し、腹部を食い破る瞬間がスローモーションで再生される。
鮮血が舞い、兵士が崩れ落ちる。
誰の目にも致命傷だ。助かるはずがない。
しかし次の瞬間、倒れた兵士が懐から灰色のインジェクターを取り出し、自らの傷口に突き立てる。
そこから先は、魔法としか表現しようのない光景だった。
傷口から灰色の泡が溢れ、肉が盛り上がり、瞬く間に塞がっていく。
兵士は苦痛に歪んでいた表情を一変させ、獣のような咆哮を上げて立ち上がり、再び銃を構えて突撃を開始する。
「……こ、これは……」
劉将軍が掠れた声で呻いた。
彼の手にある茶碗は、無意識のうちに加えられた握力によってヒビが入っている。
「ゾンビだ。
いや、ゾンビよりも質が悪い。
知能を持ち、武装し、連携し、そして死なない兵士たちだ……」
スクリーンでは、同じような光景が繰り返されていた。
腕を吹き飛ばされかけた兵士が、その場で接合して復帰する。
全身をハチの巣にされた兵士が、何事もなかったかのように起き上がる。
圧倒的な火力と物量で包囲していたはずの傭兵部隊が、恐怖に顔を引きつらせ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑っている。
それは戦闘ではなかった。
不死者による狩りだった。
「報告によれば、この部隊は40分間の激戦の末、敵勢力150名を壊滅させ、味方の死者はゼロ。
……繰り返します。死者はゼロです」
張部長が震える手で報告書を読み上げる。
その額には大粒の汗が滲んでいた。
「使用されたのは、日本から供与された『バンドエイドMK3』。
我々が『劣化版』『量産型』と侮っていた、あの灰色の薬です」
ダンッ!!
李総理がテーブルを拳で叩きつけた。
重厚な音が響き渡り、周囲の参謀たちがびくりと肩を震わせる。
「見くびっていた……!
我々は致命的なまでに、見くびっていたのだ!
あれが劣化版だと?
冗談ではない!
あれは『戦術核』に匹敵する戦略兵器ではないか!」
総理は立ち上がり、スクリーンを指差して叫んだ。
「見ろ! あの兵士たちの目を!
痛みを感じていない! 恐怖を感じていない!
ただ任務を遂行するためだけの殺戮機械と化している!
こんな軍隊と、どうやって戦えと言うのだ!
人民解放軍の兵士が100人かかっても、死なない1人の米兵に勝てる保証がないぞ!」
会議室は凍りついたような静寂と、沸騰するような焦燥感に支配された。
中国が誇る人海戦術。
数の暴力。
それが「不死」という絶対的な質の暴力の前では無力化されるという現実。
国防の根幹が揺らぐ音が、彼らの耳にはハッキリと聞こえていた。
「……懸賞金は」
党の長老の一人が、しわがれた声で口を開いた。
車椅子に深く沈み込んだその体は、老いと病魔に蝕まれているが、眼光だけは異様なほど鋭く光っている。
「MK3に懸けた100万ドルの賞金……。
あれは直ちに取り下げよ」
「長老……?」
「分からんのか!
これ以上、アメリカを刺激するなと言っているのだ!」
長老は激しく咳き込みながら、杖で床を突いた。
「あの映像を見れば分かるだろう。
アメリカ軍は今、無敵の万能感に酔いしれている。
同時に、この力を守るためなら手段を選ばない狂気も帯びている。
ウォーレン大統領が『全面戦争も辞さない』と言ったのは、ブラフではないかもしれん。
……不死身の軍隊を手に入れた国が、何を恐れる?
核の報復さえ恐れずに、北京に強行突入してくる可能性すらあるのだぞ!」
その指摘に、劉将軍も青ざめた顔で頷いた。
「長老の仰る通りです。
今の米軍と正面から事構えれば、我が軍の損害は計り知れない。
まずは事態の沈静化を図るべきです。
MSSの工作員を一時撤収させ、賞金も『架空の組織の暴走』として処理し、取り消しましょう。
……今は頭を下げる時です」
屈辱的な撤退。
だが、生存のためには必要な判断だった。
龍は一時的に爪を隠し、嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
しかし会議室の空気は、敗北感だけで塗りつぶされていたわけではなかった。
恐怖の裏側で、どす黒く、そして強烈な「希望」の炎が燃え上がっていたからだ。
「……だが、諸君」
張部長がスクリーンを見つめながら呟いた。
その声には、恐怖を超えた恍惚が混じっていた。
「逆説的に考えてみようではありませんか。
あの『MK3』は、日本側が『量産型』『簡易版』と呼んでいたものです。
外傷治療に特化し、機能を制限した廉価版だと」
張は以前、日本から入手した(拾わされた)MK1の残骸が入ったケースを、愛おしげに撫でた。
「あの『劣化版』ですら、戦場でこれほどの奇跡を起こすのです。
死にかけた兵士を蘇らせ、五体満足で戦線復帰させるほどの力を発揮する。
……ならば」
張は言葉を区切り、全員の顔を見回した。
「『オリジナル(本物)』は、一体どれほどの力を持っているというのですか?」
ゴクリ。
誰かが生唾を飲み込む音が、静寂に響いた。
劣化版でさえ、死人を蘇らせるに近い効果がある。
ならば、日本政府が厳重に隠蔽し、世界のVIPにのみ限定的に使用している『医療用キット(オリジナル)』は?
あるいは、そのさらに上位に位置するかもしれない技術は?
「……不老不死」
李総理が、夢遊病者のように呟いた。
「いや、それ以上だ。
神の如き全能。
永遠の若さ。
あらゆる病魔からの解放。
……それは伝説や神話の中の話ではなかったのだ」
総理の脳裏に、日本から届いた海道サクラの治療映像が蘇る。
先天性の心疾患が消え、少女が走り回る姿。
あれはMK3など比較にならない「完全なる再生」だった。
「感動的だ……。
震えが止まらんよ」
長老が涙ぐみながら、天井を仰いだ。
「我々は人類史の転換点に立っているのだ。
日本という小さな島国が、いつの間にかオリンポスの山頂に到達していたのだ。
彼らはすでに神々の酒(ネクタル)を醸造している!」
興奮が伝播する。
先程までの敗北感は消え失せ、代わりに強烈な欲望と野心が鎌首をもたげた。
「欲しい……!」
「なんとしてでも手に入れねばならん!」
「中華民族こそが、その力を継承するにふさわしい!」
口々に叫ぶ幹部たち。
だが、その方法は以前のような「強奪」や「恫喝」ではなかった。
アメリカ軍の変貌を目の当たりにした彼らは、力ずくで奪うことの不可能性と、リスクの高さを骨の髄まで理解したからだ。
「……方針を転換する」
李総理がギラギラとした目で宣言した。
「日本に対する敵対的行動は、全て停止せよ。
スパイ活動も破壊工作もだ。
これからは『求愛』の時間だ」
「求愛ですか?」
「そうだ。
日本を脅すのではない。
日本を取り込むのだ。
アメリカ以上の『好条件』を提示し、彼らを我々の陣営に引き入れる」
総理は立ち上がり、世界地図の前に歩み寄った。
彼の手が、日本列島と中国大陸を繋ぐように動く。
「日本には技術がある。
だが、資源がない。国土がない。市場が小さい。
アメリカの属国として生きるには、彼らの持っている技術は大きすぎる。
いずれアメリカに潰されるか、吸い尽くされる運命だ」
「そこで、我々の出番というわけですね」
外交担当の王が、総理の意図を察して笑みを浮かべた。
「中国には広大な国土がある。
14億の巨大市場がある。
そして何より、党による強力な指導体制がある。
日本の技術と中国の国力が融合すれば……」
「……世界覇権だ」
劉将軍が呻くように言った。
「アメリカなど敵ではない。
『日中同盟』……いや、『東アジア共栄圏』の再来か。
不死身の軍隊と、無尽蔵の生産力。
この二つが揃えば、地球上に我々を止められる勢力は存在しない!」
夢物語ではない。
日本の『医療用ナノマシン』と『監視システム』。
それらが中国の手に渡り、正式な技術供与が行われれば、それは現実となる。
アメリカが独占しようとしている未来を、横から掠め取るのだ。
「日下部参事官の提案した『保護区』……。
あれは屈辱的な条件だと思っていたが、今思えば日本からのSOSだったのかもしれん」
張部長が独りごちた。
「彼らもアメリカの圧力に苦しんでいる。
だからこそ、中国というカウンターバランスを求めた。
……ならば、それに応えてやろうではないか」
李総理は頷き、指示を飛ばした。
「直ちに日本政府とのホットラインを開け。
態度は極めて友好的に。
『アメリカ軍によるMK3の乱用を憂慮する』というポーズを取りつつ、
『中国は日本の平和利用の精神を尊重し、全面的に協力する用意がある』と伝えろ」
「レアメタルについては?」
「妥協せよ。
関税を撤廃し、日本の深海採掘を黙認する。
いや、むしろ協力姿勢を見せろ。
海道重工との提携も進めるのだ。
金に糸目はつけるな。
日本の歓心を買うためなら、国家予算の半分を使っても惜しくはない!」
狂気じみた決断。
だが、その対価として得られる「不老不死」と「世界覇権」を考えれば、あまりにも安い投資だった。
長老が震える手で茶を啜り、恍惚とした表情で呟いた。
「……日本よ。
早く来い。
我々の懐へ飛び込んでこい。
アメリカという野蛮な鷲よりも、同じアジアの龍の方が居心地が良いはずだ……」
地下指令室の空気は、熱狂的な片思いと、底知れぬ下心が入り混じった、ドロドロとしたものに変質していた。
彼らはまだ知らない。
自分たちが求愛している相手――工藤創一という男が、そんな地政学的な野望など歯牙にもかけず、ただ「工場のラインをどう組むか」だけを考えているという事実を。
そして、その工場が吐き出す煙が、やがて龍をも窒息させるほどの猛毒――放射能という名の次のステップ——を含み始めていることを。
北京の夜明け。
紫禁城の屋根に朝日が差し込む頃、中国政府は歴史的な方針転換を決定した。
「反日」から「親日(併呑)」へ。
その歪んだ愛は、日本という国をより深く、より逃れられない泥沼へと引きずり込もうとしていた。
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