テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
頭がイカれてる野郎デス
1,625
#ドズル社
二月十二日の夜。
Lueurの会議室で、勇斗は、資料の最後のページを閉じた。
「……以上です」
「想定質問は」
「舜太さんの、現金の水位。柔太朗さんの、共同ラインの自由度。それから」
「私の、買い戻しの名義」
仁人が言った。
「そこは、すでに、通っていますが」
「一応、確認を」
「必要ありません。……あの一行は覚えています」
仁人は、少し視線を逸らした。
明日は、ヴェルディエとの最終合意の後、Lueurの三人に、最終提案を渡す日だった。その、リハーサル。
仁人が、舜太と柔太朗の想定質問を、次々にぶつけてくる。勇斗は、それに一つずつ答える。
いつの間にか、三時間が経っていた。
壁の時計を見る。
零時、十分。
「……あ」
勇斗が、声を漏らした。
仁人も、時計を見た。
「……終電ですか」
「はい。……行きましたね、たぶん」
二人は、顔を見合わせた。
沈黙のあと、仁人が、ふ、と息を漏らした。
「夢中になりすぎました」
「すみません、俺が、質問を増やすから」
「いえ。私も、次々に問い詰めました」
仁人は、資料をまとめて立ち上がった。
「タクシーを呼びましょう」
「はい」
勇斗は、スマートフォンを取り出した。配車アプリを開こうとして、仁人の声に止められた。
「……勇斗さん」
「はい」
「歩きませんか」
勇斗は、指を止めた。
「……歩く」
「はい。……ここから、私の家まで四十分ほどです。あなたの家はその先でしょう」
仁人は、平らな声で言った。けれど、視線は、資料に落ちたままだった。
「歩きたい、気分なんです」
勇斗は、しばらく、仁人の横顔を見ていた。
耳の先が、少し赤かった。
「……いいですね」
勇斗は、スマートフォンをポケットにしまった。
「行きましょう」
二月の、夜の街は静かだった。
ビルの窓の灯りは、ほとんど消えている。街灯の下を、二人で並んで歩いた。息が、白く、上っていく。
「寒いですね」
「ええ」
仁人は、コートの襟を立てた。マフラーを、きつく巻き直す。
「タクシーのほうが、よかったですか」
「……いえ」
仁人は、前を向いたまま言った。
「終電を逃して、歩いて帰る夜は、いつも一人でした」
勇斗は、黙って聞いていた。
「銀行にいた頃は、よく。月末の決算の頃。誰も、いないオフィスを出て、駅に着くと、終電が行ったあとで。仕方なく、歩いて帰りました。夜道は、いつも長かったです」
「……そうでしたか」
「ええ」
仁人は、少し間を置いた。
「今夜は短いといいな、と思っています」
勇斗の胸の奥が、静かに鳴った。
言葉の意味を、噛み締める。この人は、あまり、こういうことを言わない。
言うときは、いつも、少し遠回りに言う。
「……俺は」
勇斗は、言った。
「終電を逃したら、いつもタクシーでした」
「あなたは、そうでしょうね」
「歩きたい、と思ったのは、初めてです」
仁人は、こちらを向いた。
目が合った。
街灯の光が、その目に、静かに映っていた。
「……そうですか」
平らな声。けれど、口の端が、わずかに上がっていた。
コンビニの、明かりが見えた。
夜の住宅街の角にある、小さな店。自動ドアの向こうで、店員があくびをしていた。
「寄りませんか」
勇斗が言った。
「はい」
店に入る。暖かい空気が、頬を包んだ。冷え切っていた耳が、じんじんと痛んだ。
レジの横のホットの什器。缶コーヒーが並んでいる。
勇斗は、ブラックを一本、取った。
仁人も、隣で同じ棚を見つめていた。
「……熱いの、ですか」
「はい」
仁人は、缶を一本、取った。熱い、ホットの缶。
「冷めるまで、待ちます」
真面目な顔で言った。
勇斗は、笑いを堪えた。
「その間、手を温められますし」
「はい。……一石二鳥です」
会計を済ませる。外に出る。
コンビニの前のガードレールに、二人で寄りかかった。
缶を開ける。勇斗は、一口、飲んだ。熱かった。舌が痺れる。この熱さが、夜の寒さの中でありがたかった。
仁人は、缶を両手で包んだまま、飲まずにいた。息を、吹きかけている。湯気は、まだ立ち上っている。
「……冷めませんね」
「二月ですから、すぐですよ」
「そうでしょうか」
仁人は、缶を見つめた。
「手が」
小さく言った。
「冷たくて」
勇斗は、彼の手を見た。
缶を包む、両手。細い指。関節が、寒さで赤くなっている。
缶の熱は、掌には伝わっているけれど、手の甲は冷え切っていた。
「……仁人さん」
「はい」
「ポケット、入れます?」
勇斗は、自分のコートの、右ポケットを示した。
仁人は、瞬きをした。
「……何を、ですか」
「手を」
「……あなたのポケットに、ですか」
「はい。温かいですよ。俺、体温高いので」
仁人は、少し固まった。それから、視線を缶に落とした。
長い沈黙。
勇斗は、答えを待った。急かさなかった。
仁人は、缶を左手に持ち替えた。
右手が空いた。
その手が、ゆっくり、勇斗のコートのポケットに伸びた。
指先が、ポケットの縁に触れた。それから、中に滑り込んだ。
ポケットの中には、勇斗の右手があった。
指が触れた。
冷たかった。氷のように。勇斗は、思わず、その手を握った。
仁人の、息が止まった。
「……冷たいですね」
「……すみません」
「謝らないでください」
勇斗は、その手を包み込んだ。掌で、ゆっくり温める。指の一本一本を、確かめるように。
仁人は、何も言わなかった。ただ、視線を、遠くの街灯に向けていた。
握られた手が、少しずつ、温まっていくのが伝わってきた。
言葉は、なかった。
それでいい、と、勇斗は思った。
二人は、ポケットの中で、手を繋いだまま、歩き出した。
左手に、缶。右手は、互いの手の中。
傍から見れば、コートのポケットに手を入れて歩く、二人の男にしか見えないだろう。
ポケットの中は、違った。
仁人の指が、時々、勇斗の指を、そっと握り返した。確かめるように。勇斗も、握り返した。
歩く。
川沿いの道に出た。街灯が、川面にぼんやり映っている。水の音。遠くを走る、車の音。
「……勇斗さん」
「はい」
「明日は、緊張しますか」
「はい」
勇斗は、正直に答えた。
「この形を、渡す日ですから」
「大丈夫です」
仁人は、静かに言った。
「あなたが、組んだ設計は、誰よりも、私が分かっています。……あれは、守るための形でした」
勇斗は、目を閉じた。それから、手を、少し、強く握った。
「ありがとうございます」
「いえ」
仁人の声が、少し笑っていた。
「先ほどの、お返しです」
「お返し?」
「私の手を、温めてくれた」
勇斗は笑った。
「安すぎませんか」
「安くないです」
仁人は、勇斗の口癖を借りた。
二人は、しばらく笑った。夜の川沿いに、二人分の息が、白く上っていった。
「……缶」
仁人が言った。
「冷めました」
勇斗は、彼の左手の缶を見た。
「飲んで、みますか」
「はい」
仁人は、缶に口をつけた。一口。
「……ちょうど、いいです」
小さな声で、言った。
「よかった」
分かれ道は、大きな交差点だった。
信号が赤だった。人も車もいない。深夜の、静かな交差点。
二人は、横断歩道の手前で、立ち止まった。
「ここまで、ですね」
仁人が、言った。
「私の家は、こちらです。あなたは、まっすぐ」
「はい」
ポケットの中の手は、繋がれたままだった。
離したくなかった。けれど、離さなければならない。
信号が青に、変わった。
「……おやすみなさい」
仁人が言った。
「おやすみなさい。……明日、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
手が、ゆっくり解けていく。
指が、一本、また、一本。
最後の一本が、離れる、その瞬間まで、指先が名残るように、触れていた。
ポケットから、手が出た。
冷たい風が、掌に当たった。さっきまでの温もりが、嘘のように消えた。
仁人はコートの襟を、立て直して歩き出した。
数歩進んで、振り返った。
「勇斗さん」
「はい」
「今夜は」
仁人は、少し言葉を探した。
「短かったです」
勇斗の胸が、熱くなった。
「……はい」
「では」
仁人は、小さく頭を下げて、横断歩道を渡っていった。
勇斗は、信号が赤に変わるまで、その背中を見ていた。
まっすぐな背中。夜の街の中に、小さくなっていく。
ポケットの中に、手を戻した。
温もりは、まだ、少し残っていた。指の形の、跡のように。
言葉にはしなかった。
好きだとも、言わなかった。言わなくても、伝わっていることがあった。その言葉は、もう少しあとでいい。
勇斗は、缶を口に運んだ。
すっかり、冷めていた。
それでも、今夜のコーヒーは、いつもより、ずっとうまかった。
二月の夜中に、三徹の男に対して、一時間弱、一緒に歩いて帰ろうって言えるのはだいぶ姫って話。
三徹も君のためだからね…手くらいつないでも、許されるでしょうよ。
コメント
3件

やっぱり好きですこの二人。 寝起きで読んだら刺激が強くて悶えました(何度目) そろそろバレンタインだね、と思いながら読ませてもらってます…
読み終わりました……すごく、いいエピソードでした。 仁人さんが「今夜は短いといいな」って言うところ、胸にじんときました。いつも一人で歩いてた夜を、勇斗さんと歩くことで変えたいって願いが、あの一言に全部詰まってる気がして。 ポケットの中で手を繋ぐシーンも、握り返す指の温度が一文字一文字から伝わってくるようでした。 「好き」と言わなくても伝わる距離感、るりさんの描く関係性が本当に美しいです。