テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#ysdjnt
ちゃき
1,713
二月十四日の朝。
舜太は、自分の部屋ではない天井を見て目を覚ました。
柔太朗の寝室だった。カーテンの隙間から細い光が、シーツの上に落ちていた。
昨夜のことが、ゆっくり戻ってきた。
アトリエで、全部話したこと。柔太朗の手のひらの熱。三つの条件。
いちばん高い店で、本当に奢ったこと。財布の中身が、軽くなったこと。
それから、帰り道に二人で、少し黙って歩いたこと。
舜太は、そっと、右手を持ち上げた。
人差し指に、細い銀の輪があった。
開いた輪。両端の間に小さな隙間。
そこから、朝の光が細い糸のように、通り抜けていた。
夢ではなかった。
隣を見る。
柔太朗が寝ていた。
こちらに背を向けて、少し丸まって。
黒い髪が、枕の上に乱れている。首筋の白い肌が、朝の光の中で透けるように見えた。
規則正しい、静かな寝息。
舜太は、その寝顔をずっと見ていた。
睫毛が長い。眉の形が綺麗だ。頬に、シーツの跡が、うっすらとついている。
誰にも、見せていない顔だ。壇上でも、撮影でも、取引先の前でも、見せない顔。
自分だけが、知っている。
その思いが、胸の奥で、じわりと広がった。あまりに温かくて、少し、危うかった。
誰にも、見せたない。
その言葉が、頭に浮かんだ。昨夜、全部、認めたはずのあの欲望。
消えてはいなかった。ただ、形を変えようとしていた。
右手の、人差し指を見た。
隙間。
指を曲げてみる。輪が指の上で、少し動いた。隙間から、光が揺れた。
思い出せと、柔太朗は言った。
深く息を吸った。それから、右手を、ゆっくりシーツの上に置いた。
手のひらを、上にして。握らずに。ただ、柔太朗の背中の隣に。
見ているだけで、いい。
そう、自分に言い聞かせた。まだ、慣れなかった。けれど、悪くないと思った。
「……舜」
寝ぼけた声がした。
「おはよ」
「……おはよう」
柔太朗は、ゆっくりこちらを向いた。目が、半分閉じていた。髪が、寝癖で、片側に跳ねている。
「見てた?」
「見とった」
「いつから」
「……さっきから」
嘘だった。三十分は見ていた。
柔太朗は、少し笑った。それから、舜太の胸に、額を押し付けてきた。
「……あったかい」
「まだ、寝ててええよ」
舜太は、柔太朗の寝癖の跳ねた髪を、指で撫でた。柔らかかった。
撫でるたびに、柔太朗の口から、小さな満足そうな息が漏れた。
こんな朝があるのか、と思った。
三年近く、一緒に仕事をしてきて。何度も、二人で夜を過ごして。
それでも、こんな柔らかい朝は初めてだった。
隠すものが、何もない朝。
柔太朗は、台所に立っていた。
シャツの袖を、肘までまくって。卵を割っている。手つきが丁寧だった。デザイナーの器用な指。
舜太は、ダイニングの椅子に座って、その背中を眺めていた。
「手伝おか」
「いい。座ってて」
「暇や」
「じゃあ、コーヒー淹れて」
舜太は、立ち上がった。
コーヒーメーカーの前に立つ。豆を計って、水を入れる。スイッチを押す。
「熱いの? ぬるいの?」
舜太は、聞いた。
「熱いの。僕は、猫舌じゃないから」
「仁ちゃんは、ぬるめやったな」
「うん。あの人はそう」
柔太朗が、卵を焼きながら、小さく笑った。
「そういえば、昨日、仁ちゃん、店で、何回も、スマホ見てたね」
「見とった」
舜太も、笑った。
「めっちゃ、そわそわしとったな」
「うん。耳が赤かった」
「バレバレやで、あれ」
二人で、顔を見合わせて笑った。
いい朝だった。
コーヒーの香りと、卵の焼ける匂い。窓から差し込む光。柔太朗の後ろ姿。
舜太は、自分の中の何かが、少しずつ緩んでいくのを、感じていた。
「舜」
「ん」
「今日、何時に、出るの」
「九時半。ヴェルディエで、契約の最終確認」
「そう」
皿を二つ、テーブルに並べた。
「僕は、アトリエ。十時から」
「そっか」
向かい合って、座った。
箸を取る。卵焼きを一口。出汁の味が優しかった。
「……うまい」
「よかった」
柔太朗は、少し得意そうに笑った。
こんなに、幸せで、ええんやろか。
舜太は、もう一口、卵焼きを食べた。
八時四十分。
舜太は、玄関の鏡の前に立った。
昨日の、スーツの上着を着る。シャツは、柔太朗が貸してくれた白いもの。サイズが、少し小さかった。
問題は、ネクタイだった。
昨夜、椅子の背に放り投げた、ネクタイ。あちこち、皺が寄っている。
「うわ、皺、ひどいな」
「貸して」
舜太の手から、ネクタイを取る。
「向いて」
「ん」
舜太は、柔太朗の方を向いた。
指が、襟の下にネクタイを通した。首の後ろに、手が回る。近かった。息が頬にかかる。
真剣な顔で、結び目を作っていた。眉が、少し寄っている。長い睫毛が、伏せられている。
「……近いな」
「動かないで」
「動いてへん」
「喉が、動いてる」
舜太は、慌てて、唾を飲み込んだ。それが、また喉を動かした。
柔太朗が、小さく笑った。
「舜、緊張してるの」
「してない」
「そう?」
「……ちょっとだけ、する」
正直に言った。柔太朗の指が、喉元を掠めた。
結び目ができた。
柔太朗は、それをそっと持ち上げて、襟の下に収めた。形は整っていた。
けれど、舜太は気づいた。
いつもより、緩い。
「柔、これ、ちょっと、緩ない?」
「うん。わざと」
柔太朗は、結び目のすぐ下に、指を差し入れた。指一本分の、隙間があった。
「きつく結ばない。少しだけ、隙間を残す」
柔太朗は、囁いた。
「苦しくないように。……閉じてなくても、結べるから」
舜太は、喉の奥が詰まるのを、感じた。
ネクタイの、話だ。
「……柔」
「うん」
「ありがとう」
「どういたしまして」
柔太朗は、襟を整えて、それから、指先で舜太の頬に触れた。
顔が近づいた。
短い、キス。
離れて、柔太朗は少し笑った。
「行ってらっしゃい」
自分が、言うはずの言葉だった。あの夜、柔太朗は、僕が行くとき、行ってらっしゃいって言って、と。
今、それを言われたのは、自分だった。
「……ずるいわ、ほんと」
「何が」
「先に、言われた」
舜太は、笑った。少し、声が揺れた。
「行ってきます」
「うん」
「……行きたない」
思わず、口から出た。
柔太朗は、少し目を見開いた。それから、静かに微笑んだ。
責めなかった。柔らかい声だった。
「行かせへん、じゃなくて。行きたない、か」
「……」
「いいんじゃない」
柔太朗は、舜太の胸を軽く押した。
「帰ってきたら、おかえりって言うから、ちゃんと行って」
舜太は、深く息を吐いた。
「……分かった」
玄関の扉を開けた。
二月の朝の冷たい空気が、頬を撫でた。
「舜」
背中に、声がかかった。
振り返ると、柔太朗が、玄関に立っていた。小さく手を上げている。
「ポケット」
「え」
舜太は、上着のポケットに手を入れた。
指先に、何かが触れた。小さな四角い包み。
取り出す。銀色の小さなチョコレート。
「……あかん」
小さく呟いた。
今日がバレンタインだということを、完全に忘れていた。
「柔!」
「なに」
「今夜、何か返すから」
「うん。期待してる」
柔太朗は笑って、手を振った。
舜太は、扉を閉めた。
エレベーターの中で、舜太は、右手を持ち上げた。
人差し指の、開いた輪。エレベーターの照明の下で、細い銀の輪が、小さく光っていた。
隙間から、光が通る。
その光を、じっと見ていた。
閉じ込めない。握りしめない。ただ、隣にいる。そのための、隙間。
ポケットの中の、チョコレートを指で確かめた。
マンションの外に出た。朝の光が、眩しかった。
行ってらっしゃい、と言われた。行ってきます、と言えた。
帰る場所が、ある。
それだけで、世界は少しだけ軽かった。
爽やかでもなく甘くでもなく、柔らかい朝が書きたかったって話。
結局、お互いの感情や独占欲の発露の仕方が違うだけだったって感じ。
だいぶ、甘やかされてる&囲われてるけど、気づいてる?
コメント
1件
読了したよ〜〜〜!!😭💕✨ 朝の空気、柔らかすぎてやばかった。特に、ネクタイの隙間、指輪の隙間、全部が「閉じ込めない」って意思になってて、胸に来すぎた…。舜太が三十分も寝顔見てるシーンとか、「行きたない」ってぽろっと出ちゃうとことか、もう愛おしさが爆発しそうだった。柔太朗の「閉じてなくても結べるから」って台詞、刺さりすぎてコメントせずにはいられない…!! バレンタイン忘れてる舜太も可愛くて、全部が優しい朝だった。続きも絶対読む!!🙏🌸