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瀬名が出張に出てから三日目。
仕事を定時で切り上げた理人は、珍しく真っすぐ帰宅せず、とある病院へと足を運んでいた。
病室の扉をノックすると、中から「どうぞ」と落ち着いた声が返ってくる。
本を閉じた片桐課長が、驚いたように目を見開いた。
「なんだ、わざわざ来なくても良かったのに」
強面の理人とは対照的に、片桐はいつも穏やかで柔らかい空気を纏っている。年齢は五十代。出世欲とは無縁で、部長職を打診されても断り続けた“縁の下の力持ち”だ。
かつて自分が昇進したときも、嫉妬一つせず「おめでとう!」と心から喜んでくれた数少ない人間――。
事故にあって怪我をしたと聞いた時、何故係長ではなく、課長なんだ!?と、そう思ったことは記憶に新しい。
「そう言えば、ひき逃げ犯は捕まったんですか?」
「いや……。それが、まだ……」
「……」
理人の問いに、片桐は困ったように笑って視線を逸らす。
「一応、目撃者が居たみたいでね。捜査自体は順調に進んでいるらしいんだが……」
「まさか、まだ見付かっていないなんて」
「まぁ、大丈夫だろう。その件に関しては警察に全て一任しているから。それより、みんなは元気にしているかい?」
「そう、ですね。最近はすっかり浮足立ってますが、特に大きな問題もなくやっています」
理人は苦笑を浮かべながら答えると、部屋を見渡した。4人部屋で簡易式のカーテンで仕切られただけの簡素な造り。しかし、清潔に保たれていて入院患者が過ごすには十分な設備が整っている。
ここ数カ月で片桐は少し痩せたようだ。だが、全体的には元気そうで安心した。
それから談話室に移動して、萩原が結婚したことや、瀬名という即戦力のメンバーが加わったことなどを掻い摘んで話した。流石に不謹慎かと思ったので岩隈の件は伏せたが、萩原の結婚の話題は意外にも興味津々といった様子で聞いていた。
その後、理人は会社であった事や、仕事の進捗状況などを報告し、最後に一言、「何かあったらいつでも連絡してください」とだけ言って立ち上がった。
本当はもう少し話がしたいところだったが、あまり長居しても他の入院患者たちの迷惑になってしまう。
「部長はしばらく見ないうちに丸くなったみたいだね。体型的な意味では無くて……うまく言えないが変な力が抜けていると言うか……」
「そう、でしょうか?」
「ああ。良い表情をしているよ。何かあったのかな?」
「……いえ、何もありませんが……」
ふいに瀬名の顔が脳裏に浮かび、頬が熱を帯びる。なんでこんな時に……っ。自分の脳みそはどんだけポンコツなんだ、と理人は慌てて咳払いをした。
「おや、その反応……やっぱり何かあるんじゃないのかい? 私の勘は結構当たるんだ。宝くじが当たらないのが不思議なくらいさ」
「本当に、何でもないですからっ」
「ふぅん? まぁいいや。あぁ、そうだ――鬼塚君、朝倉には気を付けておいた方がいい」
「……は?」
一瞬で空気が引き締まる。片桐はそれ以上語らず、いつもの穏やかな笑みのままウインクだけを寄越した。
朝倉に気を付けろ? 一体、どういう意味だろうか……?
もしかしたら、課長のひき逃げ事件と何か関係が――?
エントランスへ向かうエレベーターの中、理人は眉を寄せながら首を捻った。
普段、確信の持てないことはあまり口に出さない課長がその名を出してきた。という事は、これは少し、調べた方がいいかもしれない。
理人は、スマホを取り出すとある人物に電話をかけようとしてディスプレイを開いた。
するとメッセージが1件届いていた。瀬名からだ。
【出張が少し延びました。おそらく、25日には帰れると思います】
瀬名からのメッセージに思わず眉をひそめた。
後5日もすれば瀬名に会える。そう思うだけで心が躍る。 だが、逆に言えば後5日もある。
それだけの時間、ずっとこの気持ちを抑えながら耐えられるのだろうか。
「――はぁ、あと5日……か……」
思わず洩れた深い溜息に苦笑しつつ、自分が何のためにスマホを取り出したのか思い出して、理人はある人物へと電話を掛けた。
「えー、今、社内で様々なうわさが飛び交っており、知っている者も多いとは思うが、営業部の山田と受付の中嶋の処分が決定した。詳しい内容は掲示しておくので、各自確認しておくように」
朝礼で理人がそう告げると、社内は一気にざわついた。
いち早く情報を掴んで言いふらす営業開発部のスピーカーこと三枝は、なぜか自分の手柄のように鼻を高くしているし、普段は大人しい社員たちも興味津々といった様子で掲示したばかりの処分通知に群がっている。
唯一、朝倉だけが黙々と自席に座り、仕事に取り掛かっていた。
いつもなら最後まで興味津々といった体で聞き耳を立てているくせに、今日はやけに静かだ。
『朝倉君には気を付けるんだよ』
昨日、片桐課長に言われた言葉がふいに頭をよぎり、理人は思わず彼を凝視した。
普段から存在感が薄く、仕事もできない男。たまにやる気を出してくれるのは悪いことじゃないが……一体、何を気を付けろというのだろうか。確かに最近よく目が合う気もするが。
まあ、うだつの上がらない空気のような男に何かできる度胸があるとも思えない。片桐の勘違いだろう。
理人は深く考えるのを放棄し、自分のデスクへ戻って仕事に取り掛かった。
「いやぁ、今回もお手柄だったねぇ鬼塚君。出張費の水増しに不倫騒動、暴いてくれて助かったよ。調べたら、数年前から水増し請求を繰り返していたようだね。これでまた会社の膿がひとつ潰せたよ」
その日も理人は社内調査報告書を携えて、岩隈の元を訪れていた。
岩隈はよほどご満悦なのか、資料を受け取ると満足げに目を細めている。
――その笑顔を見て、理人は喉の奥がざらつくような違和感を覚えた。
岩隈はよく言う。『不正は会社の膿だ』と。
だが――あの夜、ホテル前で抱き合っていた若い女の姿を自分は見ている。
娘ほどの年齢にしか見えなかった。しかも財布を握らせていたのは岩隈の方だ。
……確か、あれは朝倉の自慢の一人娘だったはず。
「……」
理人は眉をひそめたが、何も言わなかった。
自分には関係ないことだ。
ただ、この男の言葉と行動の矛盾が、少しずつ積もり重なっていくのを止められなかった。
多くの社員を抱えるACにとって、不正受給や横領、汚職疑惑は死活問題だ。だからこそ早期に内部の人間の不正を摘発できる手段を確立する必要があった。
多少強引な手法であろうと構わない――それが岩隈のスタンス。
表立って調査機関を立ち上げればいいものを、何故か岩隈は社長に提言しようとしない。
何か企んでいるのだと思うが、理人はあえて深く考えなかった。
不正を働くやつ、ずる賢いやつは大嫌いだ。
たとえ無償でも、自分が開発した商品でそういう輩を排除できるのなら願ったり叶ったりである。
実戦投入によって表面化するメリット・デメリットも洗い出せるし、改善点もはっきりする。
今、理人の頭の中にあるのはただの構想に過ぎない。
盗聴器の逆探知にとどまらず、敵のインカムやスピーカーそのものを乗っ取り、偽の指令を流し込む装置。
もし完成すれば、会合に集まった連中を意図的に混乱させ、まるで将棋の駒のように思い通りに動かすことすら可能になる――はずだった。
もちろん、そんな代物はまだ机上の空論でしかない。
だが、今の自分には確信めいた感覚があった。
(必ず、形にしてみせる……)
「次も期待しているよ」
岩隈の豪快な笑い声とともに背中を叩かれ、理人は微動だにせず受け止めた。
ただ、視線の奥にわずかな決意の光を宿したまま――小さく舌打ちが洩れた。
そんな中、理人がいつものように自分のデスクで仕事をしていると、朝倉がおずおずと近付いてきた。
何か用があるのならさっさと言えばいいのに、一向に話し出す気配が無い。一体、何だと言うんだろうか? 流石に苛立ちが募り始め、理人は椅子を回転させて朝倉に向き直るとギロリと睨みつけた。
「何か?」
自分のデスクの前で黙ったまま突っ立っている男に苛立ちを感じ尋ねると、朝倉はびくりと肩を震わせて気まずそうな表情で口を開く。
「あの、部長に少しお話があるのですが……」
「ここでは話せない内容なのか?」
「……はい」
「……」
一体コイツは何の話があると言うのだろうか? 不審に思いつつ視線を上げると、目が合った瞬間に怯えるような表情を浮かべてサッと目を逸らされた。
……このままでは埒が明かない。理人は小さく息を吐くと、立ち上がった。
「……わかった。……行くぞ」
「えっ、あっ……」
有無を言わさず朝倉の腕を掴むと、そのままエレベーターの方へと向かった。年齢的には自分の方が10以上も年下ではあるが、立場上では自分が上司だ。
時間の無駄だと言わんばかりの態度で、エレベーターに乗り込み、最上階へ向かうボタンを押した。
少しの時間も惜しいほど忙しいのに一体何の用があると言うのだろうか?
エレベーターの中で切り出してくるかと思ったのだが朝倉は無言で俯いたままだった。本当に気の利かない男だと理人は嘆息する。
「あの、部長……何処へ行くんですか?」
「……」
ようやく、口を開いたかと思えばこれだ。理人は答えず、エレベーターのパネルをじっと見つめる。上に向かってゆっくりと動き出したエレベーターは妙に静かで、なんとなく居心地が悪い。
理人は隣に立つ男をチラリと盗み見た。相変わらず何を考えているのか分からない能面のような顔だ。いつもなら目を見て話すのに、今日は何故か気不味そうに俯いている。
屋上に辿り着き重い扉を開くと、空はどんよりと薄暗く、分厚い雲で覆われていた。これから雪でも降るのだろうか?
肌を刺すような空気がピリピリと痛い。理人は辺りを見渡すと誰も居ない事を確認して、振り返った。
途端に朝倉がビクリと身体を強張らせる。
「で、話ってなんだ?」
「……じつは、その……確認してもらいたいものがありまして……」
「私に?」
いまいち要領を得ない話し方に、苛立ちが募る。理人はわざとらしく溜息を吐くと、面倒くさそうに朝倉を見た。
「そんなものはメールで送ってくれればいいだろう?」
「いえ、直接確認していただきたいんです。できれば、部長の目で……」
「はぁ? なんだそれ……」
スッと差し出された朝倉のスマホには薄暗いオフィスの写真が映し出されており、その中心には自分と瀬名が濃厚なキスをしている姿が映っていた
一瞬にして、思考回路が停止する。
それがつい先日撮影されたものであることは瞬時に分かった。偶然撮影されたものなのか、狙って撮ったものなのかは定かでないがこんなものを見せてどうするつもりなんだ?
動揺を隠すように、理人は静かに息を吐くと険しい表情で朝倉の顔を真っ直ぐに見据えた。
「……それで? お前はコレを俺に見せてどうしたいんだ?」
理人の問いに朝倉は押し黙った。まるで理人を恐れているかのように、その視線は僅かに泳いでいる。
そして、絞り出すように言った。
「――僕は、部長が嫌いです……」
「ほぅ? だから?」
だから何だと言うんだろうか。
そんな事わざわざ言われるまでもなく知っている。入社当時から嫌われていることくらい自覚しているし、そもそも初対面の時からあまり好かれていないのはわかっていた。
「だから――……あなたに部長職を退いてもらいたい」
「あ?」
理人は眉間にシワを寄せると、鋭い視線で相手を睨みつけた。
「冗談にしては、笑えねぇな……」
「冗談なんかじゃありませんよ。だいたい、本来なら僕がそこに座るべきなんだ。なのにいきなり後から入社して来た分際であっという間に部長職に上り詰めやがって……」
恨みのこもった声色でそう告げられ、理人は心底くだらないと思った。
部長職に就けたのは、自分のたゆまぬ努力を周囲の人が理解し、評価してくれた結果だと思っている。
実際入社してからこの方、何処の課へ行っても成績は常にトップクラスで、色々な企画や大きなトラブルも自分の力で解決し、乗り越えて来た。任されたプロジェクトが功を奏し、会社に大きな利益をもたらした実績だって持っている。それら全てを上層部が認めてくれて、やっと今の地位に辿り着いたのだ。
それを、勤続年数が多いだけのお飾り係長にとやかく言われる筋合いはない。
「……ハッ、くだらねぇ。アンタ、自分の実力をわかっていないのか?」
「なっ……」
理人が鼻で笑うと、朝倉は怒りに顔を歪ませた。
「俺だって長年この会社に尽くしてきたんだ! 実績も積み上げてきた! それなのに……お前が来てから全部持っていかれた!」
「それは俺の力を上層部が認めたからだ」
「違う! どうせ媚びを売ったんだろ! 上の連中に取り入って、気に入られただけじゃないのか! 大体、いきなり入ってきて短期間で部長だなんておかしい!」
「…………」
まるで汚いものでも見るような蔑む視線を向けて吐き捨てるように言われ、思わず眉間に深い皺が寄った。
なんでコイツにそんな事を言われなくてはいけないのかと怒りが込み上げてくる。
朝倉はどうやら、理人がお偉いさん達と枕して上り詰めたと思い込んでいるようだが全くのお門違いだ。
しかも、こんな写真程度で自分をどうこうできると思っている事自体が笑えて来る。
今まで自分が必死に努力して得た地位まで馬鹿にされたようで、腸が煮えくり返りそうになるのを必死に堪え、吐き捨てるように呟いた。
「……ほんっと、小せぇ男だな」
「な……っ!?」
「ふざけるな! 俺が一度でもてめぇに迷惑掛けたことがあったか? 別にてめぇになんて思われようが関係ねぇが努力を全否定されんのは気に入らねぇな。それに、この俺がたかがキス写で怯むとでも思ったのか? 折角牽制ネタ仕入れてくれたみたいだけど、残念だったな。俺はその位じゃ動じねぇんだよ」
それはハッタリだ。自分の隠していた性癖を公のもとに晒されるなんて考えただけでもゾッとする。だが、明らかな格下相手に自分の弱みを見せるわけにはいかない。
理人は精一杯の虚勢を張って朝倉を嘲笑った。そして同時に、いいアイディアが浮かびほくそ笑む。
「まぁ丁度いいや、俺もアンタの秘密知ってる。……岩隈がパパ活してる相手――……アンタの一人娘だろ」
「――……っ!」
胸倉を掴んで耳元で囁いてやると理人の言葉に朝倉の顔がみるみるうちに青ざめていく。
「な、んでそれを……」
今にも泣き出しそうな朝倉の顔に嗜虐心が疼き、理人はクスリと意地の悪い笑みを浮かべた。
理人は一歩近づくと朝倉の胸倉を掴み引き寄せる。そして、耳元に唇を寄せて低く囁いた。
「なぁ、取引しようじゃねぇか……。今すぐそこにあるデータ全て消せ。一つでも残してたり、それが流出するようなことがあれば……わかるよな?」
脅しを込めてそう言うと、朝倉は目を白黒させて怯えた表情を浮かべる。
どうやら、自分が脅される可能性など微塵も考えていなかったらしい。自分の娘が援助交際しているなんてバレてしまえば立場が悪くなるだろうし、その相手が渦中の専務であるなら尚更だ。
「し、証拠は……ッ」
「あ?」
「専務の相手が……ウチの娘だって証拠があるのか?」
「……あるぜ? 残念な事にな」
意味ありげに笑みを浮かべ、どうするんだと朝倉に迫る。全く怯まないどころか、鋭い眼光で見下ろしてくる理人に朝倉はゴクリと喉を鳴らした。
「……わ、わかった。データは全て消す。だから――……娘の事は誰にも言わないでくれ……っ」
「じゃぁ今すぐそのスマホを俺に寄越せ」
「――ッ」
「出来ねぇんだったら、交渉は不成立だ」
「く……ッ」
朝倉は悔しそうに歯噛みすると、理人に向けて震える手でスマホを差し出した。
にやりと笑いながらスマホを受け取ると、屋上からそれを思いっきりぶん投げてやった。
スマホが放物線を描いて落ちていく。
呆然と立ち尽くす朝倉を横目に、理人は口角を上げて告げた。
「悪いな、手が滑った。――けど安心しろ。弁償くらいはしてやるよ。お前のその安っぽいプライドごと、な」
朝倉は膝をつき、唇を噛みしめた。
その瞳に浮かぶのは怯えと、煮えたぎるような憎悪。
(……絶対に許さない。今に見てろ……)
背中に突き刺さる呪詛のような視線を感じながらも、理人はあえて気付かぬふりで屋上を後にした。
理人がデスクに戻るなり、萩原が書類の束を持って駆け寄って来るのがわかった。
「部長、探しましたよ! すみません、これを大至急確認していただきたいのですが……」
「……あぁ」
受け取った資料に目を通しながら、チラリと萩原を盗み見た。この男も、瀬名との秘密を知ったら軽蔑の眼差しを向けて来るのだろうか?
性の多様化が少しずつ広まってきているとはいえ、朝倉のような反応をする者はまだまだ沢山いる。
いずれこうなることくらい予想は出来ていた。だから、会社や自分の仕事に関わりそうな奴と関係を持つのはずっと避けていたのに……。
理人は無意識のうちに拳を握り締めていた。掌に爪が深く食い込み血が滲んでいる。
「部長?」
「――このグラフでは、何を一番伝えたいのかわからないな。 もう一度コンセプトを読み込んで考え直してこい。新婚旅行明けで頭が回ってないんじゃないのか?」
「ッ、……わかりました」
「あと、この企画書のこの部分だが……」
理人は気を取り直すように萩原にアドバイスを送りつつ、パソコンを開いた。
朝倉があのデータを何処かにバックアップを取っていて、ばら撒く可能性は0ではないが、不必要に怯える必要は無いだろう。
まぁ、朝倉の娘が岩隈の相手だと言う証拠なんて持ってはいないけれど小心者のアイツが溺愛する娘の事を暴露されるとわかっていて、リスキーな事をするとは思えない。
理人は椅子に深く座りなおすと、溜まっている仕事を片付け始めた。
だが、朝倉に吐き捨てるように言われた言葉だけがずっと心に棘のように突き刺さり、理人の気分をいつまでも落ち込ませていた。
『気色悪ぃ』
朝倉の言葉が頭の中から離れず、何となく一人になりたくなくて、理人は仕事終わりのその足で気付けばナオミの店にやって来てしまっていた。
カウンター席でモスコミュールをちびちびと飲みながら、チラリと店内の様子を窺う。クリスマス間近という事もあり、平日にしては珍しく客が多く入っている。
やはりと言うべきか、今日はやけにカップルの姿が目に付いた。組み合わせも様々で、この店では性別関係なく恋人として受け入れられている事がわかり、
荒んでいた心が少しだけ癒される気がした。
思った以上に朝倉の言葉が堪えていたようだ。
わかっていた事だが、面と言われるとやはりキツイ。
今までの自分の存在そのものを全否定されたような気がして、酷く惨めな気持ちにさせられた。
「――はぁ……」
もう何度目か分からない溜息を吐き、バーカウンターに突っ伏すると髪を掻き上げながら、グラスに残っていた酒を全て飲み干した。
「あら、今日はまた一段と凹んでるわねぇ……。まだ、瀬名君と拗らせてるの?」
目の前にウィスキーの入ったグラスがことりと差し出され、それをチビチビと飲みながら重い息を吐きだす。
「……別に、そんなんじゃねぇよ」
「じゃぁなぁに? なんでそんな暗い顔してるのよ」
「……」
理人は答えずに、グラスの中の氷をカランと鳴らす。そして徐にポケットから煙草を取り出すと口に咥え火を付けようとした。
「あら? 理人ってば銘柄替えたの? 随分とヘビーなの吸い始めたのね」
「……あ、あぁ」
しまった。いま咥えたのは瀬名の愛用している銘柄だ。理人は慌ててそれを箱に戻すと誤魔化すように新しいタバコを取り出した。
すると、それを見ていたナオミが何かを察したのか頬杖をついてニヤリと口角を上げる。
「なんだかんだ言って、ラブラブみたいで羨ましいわ~」
「は? 何意味わかんねぇ事言ってやがる! 俺は別に……」
「でもさっきの、瀬名君が良く吸ってるヤツでしょ? なぁんで、理人が持ってるのよ」
「そ、それは……っ」
動揺しすぎて上手く言葉を紡げない。ナオミは相変わらずニマニマとした笑みを浮かべてこちらを見ている。
「……たまたまだ。アイツが家に忘れてったから……それで、返すつもりで……」
「ふぅん? 理人の家に行くような間柄なのね?」
何を言っても墓穴を掘ってしまう。これ以上言い訳を重ねれば重ねるほど、ナオミを面白がらせるだけだ。
「面倒くさいからワンナイトしかしない! って豪語してたのにねぇ~」
「チッ……五月蠅い!」
「おー怖い怖い」
ぎろりと睨み付けると、ナオミはからかいすぎたかとばかりにペロリと舌を出し、簡単なスナックの盛り合わせを理人の前に置いて、そそくさと他の客の方へと行ってしまった。
全く、こうなら部屋で一人で飲んでいた方がまだよかったかもしれない。
ふぅと息を吐いて、椅子に凭れながらウィスキーに口を付けていると、視界の端に見覚えのある男が入ってきた。
いかにもチャラそうな風貌のその男はキョロキョロと店内を見回していたが、理人を見つけると真っ直ぐこちらに向かって歩いてくる。
「あ、いたいた……。遅くなってすみません。ちょっと例のモノを探すのに手間取ってしまって」
「気にするな……適当に飲んでいただけだから」
「ハハッ、もしかして結構飲んじゃってたりします?」
苦笑しながら、理人の隣に腰掛けたのは東雲だった。 彼は手に持っていた紙袋をテーブルに置くと、理人に中を見せるようにそれを開く。
「はい、頼まれてた物」
「あぁ、助かる」
理人は中身を覗き込むと、そこには写真が数枚入っていた。その中の一枚を手に取り、眺める。 以前、岩隈と朝倉がホテルに入っていくのを目撃した際に、東雲と遭遇したことがあったのを思い出し、もしかしたら写真の一枚でも持っていないだろうかと祈るような気持で今日のうちに連絡を入れていたのだ。
「よく撮れてるでしょ?」
「……問題ない。やっぱ食えねぇ男だなお前。……だが、お陰で助かった」
「いえいぇ。なんだかスキャンダルの匂いがプンプンしてたんでつい、撮っちゃいました。……それにしても、こんなの一体どうするつもりなんです? 鬼塚さんに社内不正の証拠集めを依頼してるのって、確かこの人ですよね? あ、もしかして、謀反でも起こすつもりですか?」
「ちょっと、色々あって……。まぁ保険みたいなもんだ」
「保険……ですか?」
理人は曖昧に微笑むだけで、詳しいことは話さなかった。
東雲は釈然としない表情をしていたが、それ以上は追及してくることは無く、ビールを注文すると一気飲みするように喉に流した。
「あぁ、そうそう……もう一つの件ですが……もう少し待っててくださいね。もしかしたら、ヤバいのが絡んでるかもしれないんで」
「ヤバイもの?」
理人は眉根を寄せた。すると、東雲はあたりをきょろきょろと見回して、内緒話でもするように声を潜めた。
「まぁ、俗にいうソッチ系の人と関りがあるかもしれないって事です」
「――な……っ」
東雲の言葉に思わず絶句する。課長の一言がどうにも引っかかって、事故の件を調べて貰っていたのだが、まさかそこに反社が関わっているとは想像もしていなかった。 という事はやはり、課長はただのひき逃げではなく、誰かに狙われていた可能性が出て来る……。
課長は、朝倉に気を付けろと言っていた。 と、言うことはまさか……?
「あー、鬼塚さん。まだ、可能性があるってだけの話で、そうと決まったわけじゃないですから、ね?」
黙り込んでしまった理人を気遣うように、すかさず東雲がフォローを入れる。
確かにそうだ。可能性があると言うだけで別にそうだと決まったわけじゃない。
「でも、もし本当に危ない橋を渡らなきゃいけないんだったら――」
東雲はビールのジョッキを軽く回しながら、言葉を探すように小首を傾げる。
「こっちも、それなりに計画立てておかないとですね」
理人はグラスの縁に残った氷を弄びながら、短く返した。
「あぁ」
「そう言えばさぁ」東雲が急に身を乗り出してきて、声を潜める。
「ずっと前に言ってた“アレ”、どうなりました? 近場の電波をジャックして、相手のインカムに偽物の指示を流し込むってヤツ」
その言葉に、理人はぴくりと眉を動かした。
「あれは……まだ俺の頭の中だ。形にもしていない」
「へぇ?」東雲は楽しそうに目を細める。
「もったいないなぁ。せっかくのアイディアなんだし、即戦力で使えそうな気がしますけどね」
「……そう簡単に言うな」
理人は吐き捨てるようにウィスキーを口に含んだ。
「失敗すればただの妨害電波で終わる。上手くいく保証なんてどこにもないんだ」
あきらめにも似た理人の言葉を聞いて東雲の唇がにやりと歪む。
「もし成功したら。今後、警察や探偵業からの依頼がわんさか舞い込んできますよ? “どんな現場でも相手を攪乱できる男”って評判になってさ」
冗談めかした口ぶりのくせに、瞳の奥は妙に真剣で、好奇心の光を隠しきれていない。
理人は無言でグラスを揺らし、氷がカランと小さな音を立てるのを聞きながら、その光をじっと睨み返した。
「……はぁ。考えておく」
「ぜひそうしてください。期待してますよ! 鬼塚部長♪」
「うるせぇ」
そう吐き捨てると、理人はグラスを口に運び、残っていたウィスキーを一息で喉に流し込む。
熱が胸の奥に広がるのと同時に、隣から甘ったるい声が落ちてきた。
「……ところで、鬼塚サン」
「なんだ」
「オレ、今回かなりの無茶ぶりに答えてあげたじゃないっすか? 普通の業務も忙しいのに、急ぎの案件だなんて言うから頑張ったんですよ?」
横目でこちらを窺いながら、東雲はビールを口に含み、わざとらしく喉を鳴らした。
「それなりの対価が欲しいなぁって……」
そう言いながら、するりと伸びた指先が理人の太腿を撫でる。
「っ……」
理人の身体がぴくりと震え、思わず息が詰まる。次の瞬間には深く溜息を吐いて、呆れたように東雲の手をぺしりと叩き落とした。
(まったく……こういう所さえなければ、まだいい男なのに)
内心で毒づきながら、理人は空になったグラスを傾け、最後の一滴まで飲み干した。
「ちょっと、酷くない? オレ……鬼塚サンのえっろい腰遣いが忘れられなくて……」
腰をグイッと引き寄せられ、耳元に息を吹きかけるようにして囁かれ、理人は眉間に手を当てて唸った。
「ねぇ、もう一回ヤらせてよ」
「――はぁ……、俺はそういう気分じゃ……」
「あれ? アルコール足りない? 前は自分から跨って来たのに……もっと飲みますか?」
理人のグラスにウィスキーを注ごうとする東雲の手首を掴み、制止させる。そして、呆れたように嘆息した。
「取敢えず、過去の事は忘れろ! 俺はもう、若くないし……こう言うことはしないと決めたんだ」
「……え……っ!?」
その言葉を聞いた瞬間、東雲の目がこれでもかと言わんばかりに見開かれ、信じられないと言った表情で固まった。
「鬼塚サン、なんか変なもんでも食った?」
「食ってねぇ」
「……じ、じゃぁ、病気とか?」
「俺は至って健康体だっ!」
全くもって失礼な奴だ。ムッとした表情で返すと、東雲は信じられないとばかりに首を振った。
「……うっそだぁ。だって初めて会った時、超気持ち良さそうにアンアン喘ぎまくってたじゃん。自分から腰振って誘ってきたくせに」
理人は額を押さえた。……本当にコイツは、デリカシーの欠片もない。
「む、昔の事だろ……」
「昔って、まだ半年も経ってないっしょ?」
「……」
言葉を失って睨み付けたその時、横からひょっこりナオミが顔を出す。
「うふふ……残念だったわね東雲君。理人にはね、今夢中になってる人がいるのよ」
「……おいッ!」
「あら? 事実でしょ?」
「……ッ」
ナオミは理人の反応を見て、満足げに笑んだ。空になったグラスにウィスキーを注ぎ足しながら。
反論しようとしたが、喉が詰まって言葉が出ない。
「へぇ、それは意外。あ、もしかして瀬名って人かな? 鬼塚サンが身辺調査なんて依頼するなんて珍しいと思ってたんすよねぇ」
「な……ってめっ」
「へぇ~、ちゃっかり依頼してたんだ……理人ってば可愛いことするのねぇ」
にやにや笑いのナオミに、酒が入った東雲の軽口。最悪のコンビネーションだった。コイツらにだけは聞かれたくなかったのに。
「まぁいいや。今度、その彼氏さんに会わせてくださいよ。理人さんを独り占めしてる幸運な男を、オレがジャッジしてやるから」
「いやだ」
即答した瞬間、東雲が目を丸くし、次の瞬間吹き出した。
「ぷっ……アハハッ! 何その即答! やべっ、ウケる! あの鬼塚さんが、独占欲丸出しなんて! くっ、ひぃ……!」
「ね、可愛いでしょ~?」とナオミが追い打ちをかける。
「~~ッ、俺は帰るっ!」
居心地の悪さに耐えきれず、理人は立ち上がると会計だけ置いて店を出た。
背後では、東雲の笑い声とナオミの「ガキねぇ~」という呆れ声が響いていた。
今日は色々あり過ぎて、どっと疲れた。
風呂上がり、まだ濡れた髪にタオルを掛けたままベッドに寝転ぶと、理人は深く溜息を吐いた。
うだつの上がらないダメなオヤジだとばかり思っていた朝倉から向けられた憎悪に満ちた目と言葉が、今も頭から離れない。
しかも、ただのひき逃げだと思っていた課長の事故にも、もしかしたら裏があるかもしれないという可能性が出てきた。
課長は朝倉に気を付けろと言っていたが、果たしてこれは偶然なのか……?
朝倉が反社と繋がっている可能性があるとすると、今回の事故も朝倉が起こしたと考えるのが妥当だろう。
しかし、何のために朝倉はそんなことを? 自分が憎まれているのはまだ理解できる。だが、温厚で裏表がなく、誰からも信頼されている課長を憎む理由が見当たらない。
もし仮に恨みがあったとしても……事故に見せかけて殺そうとするようなリスクを冒すだろうか?
理人は、そこまで考えてから頭を横に振った。
まだ、朝倉が事件に関わっていると決まったわけじゃない。今朝の件があったから余計に穿った見方をしてしまっているだけかもしれない。
とにかく、もう少し情報を集めなければ……。
1人でいると、どうしても悪い方へと思考が引っ張られてしまう。
――こんな時、瀬名が側にいてくれたら。
けれど、あんな朝倉の言葉を聞かせたくはない。嫌な思いをするのは自分一人で充分だ。
……それでも、瀬名と離れることなんて考えられなかった。
たった数日話していないだけで、こんなにも心が寂しい。
気がつけばスマートフォンを手にして、電話帳の画面を開いていた。発信ボタンひとつで繋がってしまう距離。
(押すか、押さないか――)
理人が躊躇していると、不意にスマホが震えた。思わず取り落としそうになりながら画面を見ると、そこに浮かんでいたのは
「瀬名」の二文字。
「……っ」
心臓が跳ねる。指が一瞬止まったが、意を決して通話ボタンをタップし、耳に押し当てる。
『あっ、よかった。起きてた。お疲れ様です、理人さん』
夜中だというのに爽やかな声。まさに今、心の奥で求めていた相手の声に、胸が一気に熱を帯びる。だがそれを悟らせまいとわざと不機嫌に返す。
「チッ、何時だと思ってやがる」
『ハハッ、ご機嫌ナナメですか? 寝てたの、起こしちゃいました?』
「別に……そんなんじゃねぇ。で? 何の用だ、こんな時間に」
『うーん……なんとなく、声が聞きたくなっただけです』
「……っ」
どうして、こいつは。こんなことをさらりと言えるのか。
「馬鹿か、お前は……まだ4日しか経ってねぇだろ」
『そうですけど……でも、声だけじゃ物足りなくて。……あ、理人さんの寝室にパソコンありますよね? スカイプしません? やっぱり……顔が見たい』
その一言に、鼓動が急激に早まった。耳まで熱くなるのが自分でもわかる。
「……だめ、ですか?」
子犬のような声色に逆らえる訳なんて無かった。それに、顔が見たいと思うのは理人だって同じだ。そんな事絶対に、口には出さないけれど。
「チッ、ちょっと……待ってろっ」
そう言って理人は部屋の電気をつけると、PCを立ち上げてデスクトップにあるアプリを立ち上げた。そして、瀬名の部屋とカメラを繋ぎ、マイクをオンにする。すると、瀬名の顔が画面に映し出された。
風呂上りなのか、髪が濡れていてそれを掻き上げる姿がエロい。
「うわ……理人さん、エロ……っ」
「あ? 目ぇ腐ってんのか?」
「だって、半裸って……乳首丸見えだし……相変わらずいい腹筋……」
「……っ」
せめてシャツ位着ておけばよかったかと後悔するも時すでに遅し。画面の向こうにいる瀬名の目が胸元に集中しているのがわかって頬が熱くなった。
ワイヤレスのヘッドフォンから興奮した様子の瀬名の息遣いが聞こえて来て、理人もまた落ち着かない気分になる。
「ねぇ、理人さん……勃っちゃった」
「あ?」
唐突に投げかけられた言葉に思わず間抜けな声で返してしまう。だがすぐにそう言うことだと理解して、つい、視線を画面越しの下半身へと向けてしまった。
ズボンを押し上げ苦し気に自己主張しているソレから目が離せない。
「理人さん、ごめっ……理人さんの顔見ながら抜いていい?」
「……きめぇ……っ」
「ですよね。でも……こんなの我慢できない。1分あれば多分抜けると思うから……」
はぁ、と生々しい吐息が耳元に響く。そんな声を聞かされて正常な判断なんて出来るわけがない。
「……勝手にしろ」
理人が渋々といった体で答えると、瀬名は嬉しそうな表情を浮かべて、そのままズボンのジッパーを下げると既に熱く滾った雄を取り出しゆっくりと手を動かし始めた。
「……っ、は……」
理人の目に、眉根を寄せ切なげに顔を歪める瀬名の姿が映る。他人の自慰を見せ付けられると言うシュールな光景の筈なのに、耳元で響く水音や艶っぽい吐息に身体が疼いて仕方ない。
理人は、無意識のうちに股間に手を伸ばしていた。下着の中に手を突っ込み、緩く勃ち上がった自身を扱いてやれば、あっという間に硬度を増していく。
画面の中で瀬名が一際大きな吐息を漏らした。
「理人さん……ねぇ、乳首弄ってみて」
「は? ふ、ふざけるなっ誰が……そんな事っ」
「理人さんだって気持ちよくなりたいでしょう? ほら、指先でクリクリって転がして……強く摘まんで」
「……っ」
瀬名に促されるまま理人は右手を胸に這わせ、言われた通りに爪の先を軽く立てつつ捏ね回した。
痛いぐらいに尖っている乳首を擦ると、じんわりとした痺れが背筋を駆け上がる。
頭の片隅ではそんな事はいけないとわかっていても、一度火のついた欲望はなかなか収まらない。
「ん……ぅ……は……っ」
「あー、やば……理人さんの乳首、美味しそう……舐めたいなぁ」
画面の中と、耳元で囁かれる言葉に理人はふるりと身を震わせた。いつも、こんな風に自分のことを見ていたのだろうか? 瀬名はどんな顔をして自分に触っていたのだろう。想像するだけで腰がずくんと疼いて仕方がない。無意識のうちに腰をくねらせながら気が付けば夢中で自身を扱き、瀬名の言葉をなぞるように自らの乳首を虐めている自分がいた。
先端をぎゅっと押し潰すと、ピリリと電流のようなものが走る。それが堪らなくて何度も繰り返してやると、徐々に快感が増して行く。
「……ふ、んん……っ」
理人は甘い吐息を漏らしながら、もう片方の手でズボンを下ろして膝を立て大きく足を開いた。
瀬名に見せ付けるように性器を晒し、自慰を続ける。先端からは透明な蜜が滴り落ちてベッドシーツを濡らしていた。
「理人さん……凄い格好になってますよ。ほんとエッチだなぁ……自分でそんなにして……お尻の穴まで丸見え」
「うるさ……ぃっ」
「今すぐ、理人さんの中に挿れたいなぁ……ヒクヒクして、物欲しそうに腰揺らして……」
「んっ」
画面越しとはいえ瀬名に見られているという羞恥心すらも興奮材料となって理人を昂ぶらせる。お互いの姿が映し出された状態で、まるでセックスをしているかのような錯覚に陥り、羞恥と快楽で頭がくらくらしてくる。
しかし、いくら触れても決定的な刺激にはならずもどかしい。
――もっと、強い刺激が欲しい……。瀬名の熱く滾ったソレで思いっきり突き上げて欲しい。
そんな淫らなことばかり考えてしまい、どんどんと呼吸が荒くなる。
――駄目だ、もう……我慢出来ない……。
「ねぇ、あるんでしょう? ベッドの下の引き出しの中に。使って見せてください」
理人の思考を読んだかのタイミングで囁かれ、一瞬迷った。通常の思考であればそんなことに従う必要はないと思えたのかもしれないが、今の理人にその選択肢はなかった。
飢えた獣のような目が画面に映る。理人は躊躇いがちにおずおずと引き出しを漁り、中からローションのボトルとアナルバイブを取り出した。
「理人さん、それじゃあ見えないですよ。ちゃんとこっちに向けてください」
「……っ、るせっ……クソッ」
悪態を吐きながらも理人は髪を掻き上げ、バイブにローションを垂らすとよく見えるようにわざとベッドヘッドに凭れ、画面に向かって足をM字に大きく開いた。
画面越しにゴクリと喉が鳴る音が聞こえ、それだけで身体の奥が疼く。
「っ、ふ……ぅ」
理人はそろりと後ろに手を回し、窄まりに指を這わせる。すっかり柔らかくなっているそこには、少し抵抗を感じるもののズブズブと黒光りしたバイブが飲み込まれていく。
「ん……は……ぅ、んんっ」
「あー、やらしいなぁ……美味しそうに食べてる」
「は、ん……んっ……い、言うな馬鹿っ、あ、んん……っ」
根元まで挿入すると、奥をグリグリと刺激するように動かし始める。最初は違和感しかなかったはずなのに、いつの間にか慣れてしまったのか今はもう何とも感じない。むしろ、見られているせいでいつもよりも敏感になっている気がする。自らリモコンのスイッチを入れれば、微弱な振動が内壁を刺激して堪らない。
枕の下からローターを引きずり出して胸の飾りに押し当て、反対の手は自身を握り込んだ。瀬名に触られるような強さで扱きながら夢中でバイブのうねりに合わせて腰をくねらせる。
「ん、あぁ……っあっ、ふ、んん……っ」
「っ、マジ……やばい。理人さんエロすぎ。僕以外の前でそんな姿見せたら許さないからね?」
瀬名の切羽詰まった声にドキリとする。他の誰かの前でこんな姿を晒すなんて有り得ない。
けれど、自分の姿を見て瀬名が興奮していると思うと不思議と気分が高揚していくのがわかった。
「ふ、……んっ……俺が……こんな風に、なるの……お前だけ、だ……っ」
「……理人さん」
「瀬名ぁ、もっと……んっ……もっ……と」
快楽で蕩けた表情を浮かべ生理的に滲んだ涙を浮かべながら、舌足らずな声で誘うように強請ると瀬名は何かに耐えるようにぐっと歯を食い縛った。
――ああ、この顔だ……。
瀬名の色香に溢れた雄の顔を見て、ゾクゾクとした快感を覚える。普段の穏やかな彼とはまったく違う、獲物を狩るような鋭い視線に射抜かれ、どうしようもなくドキドキしてしまう。
「理人さん、イキたいなら自分で言って?……出来るよね」
瀬名の言葉に導かれるようにバイブの振動を強くし、乳首に当てていたローターの強さも上げる。
理性が飛びそうな程の強烈な刺激に、ガクガクと足が震え、身体が弓なりにしなった。
「んっ……ぁあっ、イクッ……イきそ……、瀬名ぁ……いく……ぅ、あっ! 出るっ……!」
「うん、いいよ。イッて……は、ぁ……僕も、出そう……っ」
耳元で甘く囁かれ、ビクンと身体が大きく跳ねる。瞬間、瀬名の熱い視線を感じながら、勢いよく吐き出された白濁が腹の上を汚した
「……はぁ……はぁ……」
達して身体の力が抜け、ベッドの上にくたりと横たわる。熱が過ぎてしまえばバイブの刺激は苦痛でしかなく、慌ててスイッチを切ると中からずるりと引き抜いた。
全身を襲う気怠さに、そのまま理人はベッドに倒れ込む。肩で息をしながら呼吸を整えていると、画面越しに瀬名が顔を覗き込んできた。
「ふふ、いっぱい出しましたね。そんなにそのバイブが良かったんですか? なんだか、妬けちゃうなぁ……」
「……っ」
揶揄するような口調に頬に熱が集まるのがわかる。瀬名の言う通りバイブで後ろだけで絶頂を迎えたのは初めてだった。だが――。
「お前の方がイイにきまってんだろ……馬鹿っ」
ぼそりと呟いた言葉に、画面の向こう側で瀬名が固まったのが分かった。
――しまった。つい本音が出てしまった。そう思った時には既に遅く、瀬名は顔を真っ赤にして口をパクパクさせている。
「えっと……理人さん、それは……つまり」
「……」
理人は耐えきれず、シーツを頭から被ってしまった。
顔を見られるのが恥ずかしくて、情けなくて……どうして自分はこんなにも簡単に振り回されてしまうのか。
「理人さん? 理人さんってば」
画面の向こうから慌てた声が聞こえてくる。
無視したいのに、耳に入ってくる声がやけに愛おしくて、胸の奥を掻き乱してくる。
「……五月蠅いっ! ……っ、早く戻って来い……っ瀬名……」
絞り出すような、蚊の鳴くような声。
自分でも情けないとわかっているのに、言葉は止められなかった。
その瞬間、モニターの中の男がぱっと笑みを弾けさせた。
満ち足りた顔に、今度は理人の方が息を呑む。
「……はい。必ず」
画面の中で告げられたその一言が、シーツの中の胸を熱く染めていった。