「一つ、聞いてもいいですか?」
図書室を出てすぐに、俺はマリアンヌに尋ねた。扉は分厚いし、中にいるあいつは、しばらくショックで動けるとは思えなかったからだ。けれど、誰かに見られると困るから、敬語で話しかける。
最初の頃、マリアンヌは俺が敬語で話すのを嫌がった。どうやら、カルヴェ伯爵家に雇われる前に、俺が“お嬢様”呼びをしたのが、良くなかったらしい。
それ以来、マリアンヌの部屋でのみ、普通の口調に戻していた。ニナさんも、マリアンヌが言ったのか、咎めることはしなかった。
「あいつを従者にするつもりだったんですか?」
「ううん。……リュカにするつもりだったら、まず先に、お父様にお願いしていたはずよ。私の判断で決められることじゃないから」
確かに。俺が任命された時、マリアンヌに了解を取らなかった。元々、護衛になることが前提だったから、確認する必要がなかったのかもしれない。
「もしかして、リュカが従者になる訓練や勉強をしていたのを見たとか?」
「いいえ、見ていません。……じゃ、あいつが勝手に勘違いした、ということですか?」
「多分ね。そうなるものだと、リュカが思い込んでいたのかも。幼なじみだから」
図書室内で、マリアンヌが困った表情をしていたのは、そういう意味だったのか。
「まさか他にも、リュカが迷惑をかけているの?」
「どうしてお嬢様が、あいつを気にかける言い方をするんですか?」
マリアンヌの口から、あいつの名前が出る度に、イライラして、思わず質問を質問で返してしまった。
けれど、マリアンヌは気にしている様子はない。むしろ、俺の質問に真摯に向き合っているように見えた。
「だって、日常的に言われているんじゃないかって……ごめんなさい。私が連れてきたばっかりに、エリアスに嫌な思いをさせて」
「っ!」
確かにあいつは、そう言い触らしているけど、俺は相手にしなかった。明らかに、マリアンヌのことで、俺に嫉妬しているのが分かっていたから。
それに、今の俺は、あいつと何も変わらない。マリアンヌのたった一言で、すぐに嫉妬したり、喜んだりしているんだから。
「でしたら、あいつのことなんか、気にしないでくださいよ。それだけで、俺はいいので」
「分かったわ。でも、酷くなる前に言ってね。私がリュカに言うから」
そう言って、マリアンヌが俺の手を握った。どうやら、意味が通じていないようだった。だから、距離を詰めて、耳元に囁いた。
「マリアンヌが俺のことを考えてくれるだけで、いいんだけど」
すると、マリアンヌが顔を真っ赤にして、離れようとした。が、俺は逆に、掴まれた手を握り返して、さらに引き寄せる。
案の定、マリアンヌの体がバランスを崩して、俺の方に倒れ込む。それを受け止める振りをして、抱き締めた。あくまで周りには、アクシデントに見えるようにしながら。
けれど、俺は久しぶりの抱擁に、思わず腕に力が入る。
「っ!」
すると、マリアンヌの体がビクッと反応したため、すぐに引き離した。
そんな可愛い反応をしないでくれ。
本当に、嫉妬って怖いな。伯爵邸ではしないって律していたのに、いとも簡単に破ってしまうんだから。
もしリュカのことだけだったら、俺はここまでしなかったと思う。さっき旦那様と、あんな会話をしたから焦ったんだ。きっと。
***
旦那様、ロラン・カルヴェ伯爵様の執務室に入るのは、いつも緊張する。呼びに来たニナさんが一緒でも、それは同じだった。
「旦那様、エリアスを連れてきました」
「入れ」
「失礼します」
窓際に立ちながら、書類を見ている旦那様の姿に、俺は場違いな所に来たような感覚を味わった。
マリアンヌは幼いからなのか、あまり貴族令嬢らしく見えないが、旦那様は違う。俺たち平民が感じる、貴族然とする空気を纏っていた。
椅子に座る、たったそれだけの仕草でさえ、洗練された立ち振る舞いを見せる、貴族の男。端正な顔立ちに、黒髪と紫色の瞳が合わさって、さらに落ち着いた雰囲気に拍車をかけていた。
黙って立っていると、冷たい印象を抱くが、そうじゃないことを知っている分、まだマシだった。
「なかなか、時間が取れなくて悪かったね。それじゃ、報告を聞こうか」
声だけじゃなく表情まで緩めて、こちらの緊張を解そうとする気遣い。入ったばかりの俺に対して、破格の待遇だと思う。一カ月でマリアンヌの従者にさせてもらったことも、含めて。
しかし、それは下心があるからだと、俺は理解していた。
「はい。まずは、お嬢様を誘拐した男たちについて報告します。二人とも、冒険者ギルドに所属していたので、すぐに身元が分かりました」
上着の内ポケットから紙を取り出し、執務机の上に置く。旦那様は、それを一瞥しただけで、すぐに視線を俺に戻した。
顔は相変わらず穏やかだったが、ピリピリした空気が肌を刺す。俺も、旦那様を見習って、平静を装いながら、用意していた言葉を口にした。
「冒険者ギルドに所属しているといっても、真面目に依頼を受けているわけではなく、今回のような裏の仕事を主にやっているようです」
「つまり、隠れ蓑に使っているという訳か」
「はい。ですが、ギルドの依頼を受けていないのに、羽振りが良かったせいで、逆に目立っていたそうです」
なぜ、マリアンヌの傍にずっといた俺が、このような情報を持っているのかというと、孤児院の仲間に、協力を仰いでいたからだ。
始めは小遣いを稼ぐ程度の、簡単なものだった。伯爵邸の周りに不審な人物がいないか、ただ見回る程度の頼み事。
だから依頼料も、俺の給料の中から出していた。孤児院や教会の運営が苦しいことは知っていたから、少しでも足しにしてくれればと思ったのだ。
すると、それに気づいた旦那様が、情報料と称して、別にくれるようになった。
おそらく、旦那様が俺を雇った理由が、これだったのだろう。
個人的に裏の組織を作れば、アドリアン様を刺激させる。その飛び火は、一番弱い存在に向かうから。そう、マリアンヌに。それだけは、俺も避けたかった。
さらに、旦那様からお墨付きをもらったことで、司祭様からの信用も得られた。最近は窓口になってくれて、助かっている。
「分かった。この件は冒険者ギルドに捜査の依頼を出そう。向こうも、膿を取り除けるだろうからね」
旦那様は、二人の絵姿が描かれた紙を手に取って、不敵に笑った。
「次に、二人に依頼した人物なんですが、目撃情報は集まったものの、特定には至りませんでした」
「その目撃情報は?」
「こちらです」
手を差し出されたため、今度は机ではなく、旦那様に直接手渡した。
「その情報を元に、探している最中です」
「いや、それは中止させてくれ。危険だ」
「しかし」
孤児院の仲間も、きっと言うはずだ。最後までやりたい、と。けれど、旦那様は首を横に振る。
「私は君を、裏の組織のトップに置くつもりはないんだ。君たちに望んでいるのは、大人の手の届かないところをカバーしてほしい。ただ、それだけなんだよ。司祭様にも、そう伝えている。孤児院を裏の組織にしないでくれ、ともね」
「……孤児院が狙われるからですか?」
「それもあるけど。相手が子供だからと、利用する連中が現れるからだよ。君はあの子たちを将来、暗殺ギルドに所属させたいのかい?」
「いいえ」
力強く答えたが、内心は自分の浅はかさに落ち込んでいた。そこまで考えが及ばなかったことと、一歩間違えれば、旦那様の言う通り、大変なことになっていたからだ。
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