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夏目莉央
1,537
131
くま🐻☁️
12
※
「一菱証券。僕も聞いたことがある」
帰宅してまず、瞳子さんの会社について調べた。
一菱証券。
たしか、この家にも出入りしている証券マンがいたはずだ。
「こんにちは。仕事終わりに失礼します」
リビングで母の声が消えたことを確認してから、僕は客人へ挨拶をして入った。
「今、金融について勉強をしていて、少しだけお話を伺ってもよろしいでしょうか。後藤さん」
一菱証券 東京本社 第二営業本部 課長。
それが後藤さんの肩書きだった。
神経質そうに髪を七三分けにし、スーツには常に皺ひとつない。
僕は母の商談が終わり、母が席を外した隙を狙って、後藤さんに声をかけた。
「金融の勉強を始めるのかい?」
「はい。でも、何から学んでいけばいいのかわからなくて。毎日、経済ニュースを見て数字を追っていますが、どんな視点で学んでいけばいいのでしょうか?」
後藤さんの表情が、優しく崩れた。
「勤勉ですな。感心します」
そして、しっかりと僕に向き直る。
「まずは、さまざまな媒体からマーケット情報を集めるのが基本です。それに慣れたら、政治や経済についても学びなさい。世界の動きは、すべて金融の数字につながっています。そして、実際に国外へ足を運び、世の中の流れを読み取る目を養うことです」
「……それが、グローバルな視点というものですか?」
「君はまだ若い。世界で見聞したことは、必ず君の成長につながるはずだよ」
「後藤さん、ありがとうございます!」
後藤さんが、じっと僕を見つめる。
「君は母親に似て、聡明だね」
そう褒められたけれど、そこだけは頷くことができなかった。
それからの僕は、毎日、新聞やニュース、ビジネス書を読み漁り、知識を取り込んでいった。
「株価が下落している! なんで?」
学校から帰ると株価をチェックし、すぐにマーケットの情報を確認する。
「……え? アメリカの長期金利の利下げ決定。それだけで日本のマーケットまで影響を受けるの?」
世界はつながって動いている。
家に閉じこもっていた僕にとって、世界は大きく、毎日が発見の連続だった。
そして、自分で貯めた資金を個人運用することも始めた。
「坊っちゃまは、毎日を忙しくお過ごしで。いい表情をなさっています」
生き生きと毎日を過ごす僕を見て、黒川は喜んでくれた。
「……」
母はコーヒーを一口飲み終えると、カップを戻した。
しかし、無言だった。
興味がないんだ。
だって、僕はただのスペアだからね。
でも、僕は目標を見つけた。
母が望む未来を叶えるつもりなどない。
僕の未来は、自分の手で切り開く!
兄と朝食を食べているときだった。
「祐二は学年トップを死守しているんだって。すごいな」
「はい。社会に出るにも勉学は必要だと思っています。だから頑張っています」
「祐二は優秀だよ。夢があるのかい?」
「はい。一菱証券に勤めたいです。そのための努力なら、なんでもやるつもりです」
「応援するよ」
「黒川も感無量でございます」
黒川が上機嫌になって、突然、写真を棚に飾り始めた。
僕はその写真を見て、ぎょっとしてしまう。
だって、あの富士登山の泣きべそ写真だったから!
「これは、祐二坊ちゃんが生きる気力を取り戻された記念すべき瞬間でございます」
黒川には可愛い坊ちゃんかもしれない。
でも、僕にとっては鼻垂れ小僧の黒歴史!!
「「「この写真は見せてはダメっ」」」
僕は素早く写真立てを奪い取った。
そして、自宅の倉庫の奥へ、誰にも見つからないように隠した。
「祐二があんな表情をするのは珍しいね」
兄が引いている。
高校生になった僕は、相変わらず小食のもやしっ子だった。
それが、あの泣きべそだもんな。
瞳子さんは七つも年上なんだぞ。
こんなもやし体型では、彼女に男として見てもらえない!
外見も、もっと男性らしく生まれ変わらないといけない。
次に僕が取り組む課題は、身体改造だった。
長方形の大人数掛けのダイニングテーブルで、兄と二人きりの夕食。
僕の皿には、ボリュームのあるチキンが山盛りになっていた。
僕はよく噛みながら、それを次々と口へ運んでいく。
「坊ちゃま……今日はずいぶんとよく召し上がりますね」
黒川が僕の食べっぷりを見て、舌を巻いた。
僕は意気揚々と答えた。
「体を大きくしたいんだよ! 筋トレをしても、食べていないと筋肉もつかないそうだよ」
「なんと! 逞しく変身なさろうとしているのですね! それならば黒川も応援しますよ!」
黒川も大いに喜んでくれた。
「ありがとう! たくさん食べるのも大変なんだね。二田さんに聞いたら、これでも一般成人の分量なんだって! 僕は本当に小食だったんだね」
鈴川さんに代わって朝倉家の家政婦となったのが、二田さんという女性だ。
彼女に肉体改造の相談をして、食事のメニューを決めてもらっていた。
二田さんは無口で、テキパキと仕事をこなす、ザ・仕事人という人だった。
頼りにはなるけれど、鈴川さんのような温かさは感じない。
ロボットのように動くから、母はお気に入りらしい。
でも僕は、二田さんの食事と黒川の応援を力に、確実に体重を増やしていった。
瞳子さんだって、ヒョロヒョロより逞しい男性のほうが嬉しいに決まっている。
彼女を守るには、筋肉の鎧だって必要だ!
こうして僕は、高校三年間、学業と金融の勉強を続けながら、肉体改造にも取り組んだ。
高校を卒業する頃には、大学の学費と一人暮らしができるだけの資金も準備できていた。
もやしっ子だった僕の成長期は高校生だったようで、身長もだいぶ伸びていた。
変わる肉体、増える知識。
鏡の前に立つと、自分がどこか誇らしく感じて、胸がいっぱいになる。
同時に、昔、手放しかけた自尊心も取り戻していった。
だから、母の胸に突き刺さったあの言葉も、もう抜け落ちたと思っていた。
僕は前に進まなければならない。
希望を見つけたのだから。
僕の目標は、ただ一つ。
サイドデスクの引き出しを開ける。
桐の箱を取り出し、両手で愛おしく宝物を手に取った。
瞳子さんからもらった名刺。
つい頬が緩くなる。
これに触れるたび、あのときの女神のような瞳子さんを思い出して、胸が熱くなる。
僕は、必ず瞳子さんに会いに行く。
そして、彼女を幸せにしてみせるんだ。
僕は、この思いだけを支えに、人生の暗闇から見事に抜け出すことができていた。
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