ウーヴェとオイゲンの間の出来事を当然ながら何も知らないカスパルがいつもの調子でそれぞれにメールを送ったのは、事件から数日後のことだった。
その日は夜明けとともに冬の使者が訪れて重苦しく空を垂れ込めさせていたが、飲み会のメールを受け取ったウーヴェの心も空模様と同じに重苦しく沈み込んでいた。
友人達と顔を合わせる事に抵抗はないが、そこにオイゲンが来れば自分はどんな態度をとるのかが予想出来ず、その不安とやはり感じずにはいられない恐怖心から返事を躊躇っていた時、別のメールが届いた事を知り溜息混じりにカスパルのメールから画面を切り替える。
メールの送り主はリオンで、ついさっきカスパルから長文メールを受け取ったことと、飲み会に誘われたがどうするという内容のメールに対し、今の心境を素直に告白すると軽快な映画音楽が電話の着信を教えてくれる。
「…Ja」
『ハロ、オーヴェ』
「ああ……お前はどうするんだ?」
『ん?ああ、アニキのお誘いか?俺は別に平気だけど、オーヴェが嫌な思いをするのなら行かない』
あくまでもこちらを気遣う言葉に目を伏せて感謝の言葉を告げたウーヴェは、迷っていることを伝えていたが再度悩んでいると告げ、デスクの端に腰を下ろして溜息をつく。
確かにオイゲンと同席することはどうしても恐怖心を感じることであると同時に、友人に対してそんな感情を抱く己に対する嫌悪も感じてどうしたいのかが分からないと呟くと、少し落ち着くまで会わない方が良いんじゃないのかと返され、何となく救われた気持ちになる。
あの日、直接謝罪をしたいことを伝えられていたが、二人きりで顔を合わせると思うだけで気分が悪くなってしまうウーヴェを傍で見守っていたリオンに悩んでいると告げると、謝罪を受け入れるかどうかで悩んでいるのなら時間の掛かることだから慌てなくても良いだろうと返されて軽く息を飲む。
『……今度一緒に会うか?』
沈黙していると何かを察したらしいリオンがそっと問い掛けてくれ、その言葉に対する礼を言って目を伏せ、もう少しだけ考えてから答えを出すと告げると、力強い返事が耳に響く。
『オーヴェがそう言うのなら待ってる。あんまり根を詰めて考え込むなよ?』
「………うん」
『今日はさ、早く帰れそうだけどそっちはどうだ?』
ウーヴェの小さな返事にリオンが安堵の溜息を零したようで、その溜息で話題を切り替えて夜の予定を確かめられるが、当然ながらいつものように自宅で本を読んでいると答えかけた時、不意に言い知れない不安が足下から這い上がってくる。
「……リオン…」
『ん?どうした?』
一人になる恐怖を感じたことなど今まで無かったのに、突如湧き上がってきたそれに声が微かに震え、その震えがどうやら伝わってしまったようで、心配の中にも信頼していることを窺わせる声が夜まで我慢してくれと囁き、仕事が終われば飛んでいくとも答えられて知らず知らずのうちに胸を撫で下ろす。
「……待っている」
『Ja.ボスが残業しろって言ってもすっ飛んで帰るから、待っててくれよな、ハニー』
「……豚の貯金箱を用意して待っていてやる」
『あ、ひでぇ!』
陽気な声に救われた気持ちで目元を和らげるが、その後聞こえてきた言葉に瞼を平らにし、お前には学習能力というものがないのかと呟けば、この事に関しては無いと断言されて額に手を押し当てる。
『オーヴェ─────愛してる』
「………うん」
だから信じて待っていてくれとの言葉をキスと一緒に届けられ、ようやく笑みを浮かべて素直に頷いたウーヴェは、カスパルの誘いは自分は行かないがもし良ければお前だけでも行ってこいと告げて通話を終えると、メールを受け取ったときの沈んでいた気分が浮上していることに気付く。
色々な意味で本当に自分を助けて護ってくれるリオンに改めて感謝と信頼の思いを抱き、小さな声で口に出して携帯をジャケットの胸ポケットに戻すと、気持ちを仕事へと切り替えるのだった。
ウーヴェが飲み会の誘いをどうするかの相談をリオンとしている頃、オイゲンも同じくカスパルから受け取ったメールを前に頭を悩ませていた。
先日の出来事を知らないから仕方がないとはいえ、ウーヴェだけではなくリオンも一緒にいる場所に自分から顔を出す勇気は彼には無かった。
二人が一緒にいるところを見るのが辛いのもあるが、それ以上にやはりウーヴェに対する申し訳なさから顔を見ることが出来ないと気付き、やはり断ろうと決めてカスパルに返事をすると、程なくしてカスパルから電話がかかってくる。
「Ja」
『お前もダメなのか?』
「ああ…都合が…」
『ウーヴェも同じことを言っていたぞ』
自分たちとの飲み会をウーヴェとお前が断るのも珍しいと思って電話を掛けてきたと教えられ、何かあったのかとも問われるものの、まさかウーヴェを襲ったなどとは言えずに言葉に詰まったオイゲンは、カスパルが溜息混じりに今回は流すが次回は必ず飲みに行こうと納得してくれたことに心から感謝すると伝え、人気の少ない廊下の窓から外を見ながらずっと抜けない棘のようになっていることを問い掛ける。
「ウーヴェは…何か言っていなかったか?」
『ん?今回の飲み会についてか?』
「ああ」
『いや、どうしても時間の都合がつかないから無理だって言ってただけだな』
「そうか…」
ウーヴェがオイゲンとの出来事を他の友人に話すとも思えないが、扇動家で騒々しい男だが意外と細かいところまで気が回るカスパルが何かを察したかも知れない不安から問い掛け、何も知らない感じが電話から伝わってきたことに安堵し、本当にすまないともう一度断りを入れて通話を終えると、廊下の先からあまり見たくない顔がやって来る。
「浮かない顔だね、何か気になることでもあるのかね?」
「いえ…ここの所忙しくて疲れているだけです」
やって来たのは己の直属の上司である部長で、いつか妻の不倫現場の写真をひけらかしては暗に自分に従えと言っていた事も思い出すと、このまま一緒にいることで何を言われるか分からないと気付いて一礼し、午後の手術の準備があるので失礼しますと言い残して踵を返すが、その顔の痣はどうしたんだと問われて肩を揺らす。
「ケンカにでも巻き込まれたのかね?」
「……まあ、そういうところです」
「警察へは?」
「警察沙汰にしても受け付けてくれない程些細なケンカなので、通報してません」
まさか己の行動の結果がこの痣だとは言えず、一般的な回答を残して今度こそ歩き出したオイゲンは、必要ならば良い弁護士を紹介すると背中に声を掛けられるが、この病院関係者に借りを作るなど冗談ではないと内心で唾を吐き、未だに連絡を取ることの出来ていない友人に対する罪の意識からつい俯いてしまう。
学生時代を通じて最も信頼している友人を手酷い裏切りで傷付けたが、あの夜の出来事について心から謝罪をし、もしも可能ならば許して貰えればと願って一日に一度携帯に連絡をするものの当然ながら返事はなく、謝る機会すら与えられないほど怒り呆れているかも知れないと想像するとそれ以上踏み込んだことは出来ずにいて、我が身が招いた結果に自嘲しかできないでいた。
それでも己に出来ることは謝ることだとため息と共に呟き、俯いてばかりの顔を振り上げて廊下の先を見つめると、見慣れない派手な化粧と洋服に身を包んだ妻が人を捜しているような素振りでやって来る。
「どうした?」
「ああ、良かった、ここにいたのね」
「?」
妻の声が急に弾んで足取りも軽やかに駆け寄ってきたため、内心で警戒しつつどうしたんだともう一度問い掛けると、今日の午後の手術を病院の経営者である義父と役員が見学をするから頑張ってと告げられて目を瞠る。
「パパも久しぶりにあなたの手術を見たいって言ってたわ」
「……そうか」
義父が己の手術に何を見出そうとしているのかが分からなかったが、今のオイゲンにとってはウーヴェの事だけが気掛かりで、妻が訝るほどの無関心さで頷いてしまう。
「…今日の手術が終わったら夕食を一緒にしましょうって」
「ああ、分かった」
訝りながらの妻の言葉にそれなりに頷き、とにかく手術をいつも通りにするとだけ伝えた彼は、言いたいことを堪えている顔の妻を一瞥することなく歩き出し、先に部長に伝えたように手術の準備をするために自室に戻るのだった。
その日、オイゲンが担当した患者は彼の職歴からすれば、特に難しい症例を持っているわけでも、後遺症の心配が大きいようなこともなく、一体この手術を役員一同で見学する意味が分からないと胸中で冷笑してしまいたくなるほどだった。
役員や経営者である義父の関心が患者にあるのか執刀に関係する職員にあるのかは分からなかったが、ただオイゲンに分かったのは品定めをしている空気が手術室とその部屋を見下ろす小部屋に満ちていることだけだった。
多数の視線の中でいつものように淡々と手術を進めるオイゲンだったが、義父と妻のすぐ後ろに何処かで見かけた青年を見つけ、一体何処で見たのかを思い出そうとするが、さほど悩むことなく出て来た言葉に唇の端を持ち上げる。
その青年は以前部長がオイゲンに見せつけた写真で妻と仲睦まじく腕を組んで笑っていたりショッピングをしていた青年だったのだ。
その青年が妻とその父のすぐ後ろで見学している姿に疑問がわき起こり、冷静さを奪い取ろうとする。
「…ドクター」
今までいつも以上に落ち着いて、時には軽口を叩きながらも手術に意識を集中させていたオイゲンの様子が変わったことを素早く察した看護師がそっと呼びかけ、こちらに集中して下さいと囁いて何とか彼の意識を目の前の患者に向けさせる。
その後、彼自身はぼんやりとしか覚えていないが、見学している役員を驚愕させ落胆させるようなミスなどもなく淡々と手術は終わりを迎え、斜め上の部屋をオイゲンが疲れた目で見上げた時、何故か誇らしげな妻の顔と同じく誇らしげではあっても含みを持っている義父に見下ろされていることに気付くが、二人の間で忌々しそうな表情を青年が浮かべているのを見ると自然と肩が揺れ始める。
自分の恋人が大病院の経営者の娘であり、彼女の夫が優秀な外科医であることを見せつけられ、この手術で失敗をすればいいとでも考えていたのだろうが、当てが外れたことへ唇の両端を嫌な角度に持ち上げて目を細めると、純粋に喜んでいる妻の背後では青年がぎらりと目を光らせていた。
義父も同席していることを思えば近いうちにあの青年がここに勤務することになりそうだと気付くが、娘の不倫相手であることを義父は知っているのだろうか。
手術が終わり、結果報告を手術室の外で待っている家族に伝えるために手術着を脱いで真新しい白衣を来て厳重なドアを出ると、ベンチでぼんやりと座っている家族が立ち上がってオイゲンの言葉を不安そうに待ち構える。
「手術は無事に終了しました。心配していた出血量もさほど多くなく、入院中に採決したもので事足りました」
「…ありがとうございます」
患者の妻が涙を浮かべるのをどこか遠い世界のように思いながら、役に立てて良かった事を伝えて頷くと、背後の扉が開いてベッドに寝かされた患者が姿を見せる。
「まだしばらくは麻酔が効いています。麻酔が切れる頃に看護師が様子を見ます」
「はい。ありがとうございました、先生」
もう一度感謝の言葉を告げられて頷いたオイゲンは、こうして患者やその家族と向き合っている瞬間が随分と久しぶりの様に感じ、今まで自分は何をしていたのだろうかと唐突にその疑問にぶつかってしまう。
医師として己の患者に満足に向き合ってきたのか。病院内での地位を高めるためだけに患者と向き合ってきたのではないかとの疑問が芽生え、一度芽生えたそれはなかなか消え去ってはくれなかった。
「ドクター、院長がお呼びです」
ベッドとともに立ち去る家族の後ろ姿を見送っているオイゲンに看護師が耳打ちし、その一言で現実に引き戻され我に返った彼は、一度部屋に戻ってから向かうことを伝えて足早に自室へと向かうが、その脳裏には降って湧いたような疑問がこびり付いているのだった。
その日ウーヴェは予定通り仕事を終えて自宅に戻り、リビングのソファで持ち帰った資料を読んでいたのだが、ふとした拍子に窓を流れ落ちる雨に気付いて瞬きをし、リオンが帰ってくるときにこの雨に降られなければ良いと考えた瞬間、読書をする為だけに使っている灯りを遙かに凌駕する白い光が室内を染め上げ、間を置かずに轟音が響いてリビングの窓が震動に身もだえする。
その光と音に驚きつつ窓の外を見たウーヴェだったが、背後にいるはずのない人の気配を感じて振り返り、その姿勢のまま動きを止めてしまう。
瞬くような稲光に浮かび上がるのは長身の人影で、顔のある場所は目を凝らしても光の存在を感じ取れない闇が蟠っているのに、何故か口だけが鮮明に見えていて、ゆっくりと両端が持ち上がる様をウーヴェに見せつけていた。
「────っ…!!」
闇の中に双眸が姿を見せるが、灰色の瞳から友人であることに気付いて強張った身体に命じて何とか向かい合おうとするが、ウーヴェが必死に身体を捻ったときには闇の中の瞳は色を変えていて、青と言うよりは水色に近い瞳が強欲に光り、持ち上がっていた口の端も人ではあり得ない角度にまで持ち上がる。
今までこんな風に誘拐犯の顔を思い出したことなどなく、どうしたという疑問を抱えながら何とか振り返ると同時にソファから転げ落ちてコーヒーテーブルの角で手を強かにぶつけてしまうが、その痛みを感じる余裕もなくただ後退りしながら今やはっきりと人の形になってあの日と同じような笑みを浮かべて近付く影から逃げようとする。
幼い頃に経験した恐怖はウーヴェの心の奥深くに根を張っていて、たとえどれ程の時間とお金を掛けたとしても完治できない傷として今でも血膿を流し続けていたが、一滴ずつ落ちる水滴を溜めれば大きな池にもなるように、流し続けたそれが影となってウーヴェの前に現れたように感じてしまい、身体の芯から震えるような恐怖に囚われてしまう。
─────お前は俺たちに金を産むためだけに生まれてきたんだ。
─────あんたの父親がいけないのさ。文句があるなら父親に言いな。
ウーヴェの誘拐を目論んだ主犯格の男女の笑い声が現実のもののように響き、その声に雷鳴が重なるがウーヴェの耳に届くのは過去からの男女の声だけで、人として扱って貰えなかった頃へと意識が向きそうになる。
ウーヴェの目にだけ見えている影の圧力に負けてその場に仰向けになってしまい、何もかもが昔のままなのだとぼんやりと考えた時、己の身体を跨ぐようにのし掛かってくる影が友人の姿になって先日の夜と同じ顔で見下ろしてくる。
友人の行為が過去を引きずり出したが、その過去と先日の出来事が一つになって心の中に居着いてしまったことに気付き、どうすることも出来ない辛さに涙が込み上げそうになる。
話せば分かるものを何故力でもって伝えようとするのか。それが本当にウーヴェを思う気持ちからなのであれば、それこそそんな方法ではなくもっと他にあるだろうと見下ろしてくる友に言葉を投げ掛けるが、気付かなかったお前が悪いと返されて眉を寄せて目を閉じる。
学生時代ずっと一緒にいた友人がまさか己に好意を寄せていることなど心の傷から立ち直って新たに得た医者という目標へと突き進んでいるウーヴェが気付くはずもなかったが、大学を卒業するまでの間、彼とは何度もお互いに好きになった人の話をしたり恋人のことで夜が更けるまで話し合ったりもしたのだ。
その時からずっと彼は己の恋人に良い感情を抱いていなかったのだろうか。
影の肩越しに天井を見上げているウーヴェの脳裏に一人の女性の顔が浮かび、彼女との別れの際に頬を叩かれたことを伝えたときにオイゲンの顔色が変わったことを思い出す。
あの時顔色を変えた理由が、友人ではなく己の好きな人が殴られたことだとすれば納得出来るが、あの頃は友人だと信じて疑わなかったオイゲンの気持ちを酌み取れる筈もなく、今になってようやく気付いたことに肩を揺らし、寝返りを打って横臥するとそのまま膝を抱えるように身体を丸める。
あの時、彼の言動から心の中を読めていればこんなことにはならなかったのだろうか。
昔の己に問い掛けてみても当然ながら返事はなく、リオンと付き合っている今だからこそ理解でき、また彼も実力行使に出たのではないかと気付いて自嘲する。
結局、今回の事態を招いたのは他でもない自分自身なのではないのか。
ならばその気持ちに気付かなかった己に我慢の限界を迎えたオイゲンから受けた行為も仕方のないことかも知れないと肩を揺らしたとき、冷静に考える余裕のないウーヴェの耳に軽快な映画音楽が流れ込む。
「─────!!」
その音が表すものが何であるのかを一瞬にして脳味噌が思い出し、掛け替えのない笑顔となって映像化されると、無気力になりかけていたウーヴェの身体の隅々にまで何かが伝わっていくが、全身の血が沸き立つような熱を感じて奇妙な声を放ってしまう。
一体何処からそんな声が出るんだともう一人の己が訝るような声を上げるのも構わずにコーヒーテーブルに置いた携帯を必死の形相で掴んで震える手で何とか耳に宛うと、いつもと全く変わらない陽気な声が呼びかけてくる。
『ハロ、オーヴェ。もう家にいるよな?』
「…ァ…ッ…リオ…ン…っ…!リーオ…っ!!」
『今どこにいるんだ、オーヴェ?』
震える声で名前を呼ぶことしか出来ないウーヴェを落ち着かせようとするのか、リオンがいつもと全く変わらない声で問い掛けたため、喉を迫り上がってくる悲鳴の中にリビングにいることを混ぜて伝えると、じゃあソファにレオがいるだろうと朗らかに言い放たれて目を丸くする。
『な、レオいるだろ?』
リオンの言葉にガチガチに固まった首を何とか動かしてソファを見れば、確かに自分が先程まで座っていた場所のすぐ近くに恋人と同じ毛色のテディベアがつぶらな瞳をこちらに向けて座っていた。
「い…る…」
『んー、特別に許可するから、レオをハグしてやってよ、オーヴェ』
あ、でも俺が帰るまでの間だけ、特別だから、今だけだってレオにしっかりと言い聞かせてくれよなと、これまたいつもの不満を訴える声で告げられた言葉に身体が自然と動かされると、ウーヴェに跨るように立っていた影の輪郭が滲み始め、ウーヴェが手と膝を使ってソファに這い寄ったときには輪郭すら分からなくなっていた。
ソファに座るレオナルドと名付けたテディベアを引きずり下ろし、ふかふかの毛並みに顔を押しつけると同時にリオンの存在を伝えてくれる匂いが鼻の奥に入ってきて、一気に全身の力が抜けてラグに倒れ込みそうになる。
声を聞くだけではなく恋人の存在を示すもの達-携帯の着信音であったりプレゼントした香水の匂いであったり、はたまた今抱き締めているテディベア-に接するだけで閉ざされかけた世界への窓が大きく開き、もう過去にだけ囚われる必要はないんだと教えられると、喪いかけていた力が身体の奥底からじわじわと染み出す水のように湧き起こってくる。
「…リーオ…っ!!」
『うん。今そっち向かってるからもう少しだけ待っててくれよ、オーヴェ』
愛するお前の元に飛んで帰る為の翼はないが、今全力でもって自転車を漕いでいるからと真剣な声で告げられて瞬きをし、その姿を想像するとつい小さく笑い声を零してしまう。
『あー、笑ったな、オーヴェ?どうせ俺は誰かさんと違って立派な車なんて持ってねぇよ』
でもこの自転車もスパイダーに負けず劣らずの俺の愛車だと胸を張っている姿を想像させる声で叫ばれ、素直な気持ちでうんと頷けば、今度俺の愛車でデートしようと誘われる。
「……うん」
『じゃあオーヴェ、急いで帰るからレオと待っててくれよな』
「………リオン……早…く…」
ウーヴェの口から自然と零れたのは早く帰ってきてくれとの言葉で、さすがにそれを聞かされたリオンも驚いたようだったが、ICE並の速さで帰ると告げて通話が途切れたため、ウーヴェも携帯を床に置いてその横に横臥してしまう。
己の動きにあわせてテディベアの巨体がのし掛かってくるが息苦しさを感じないように腕を回したウーヴェは、その身体に染みついた匂いを嗅ぎ取ろうと息を吸うものの、いつかのようにはっきりと感じることが出来ずに溜息を零すが、別に感じ取れるものがあることを思い出してゆっくりと起き上がる。
レオナルドをその場に残してのろのろとリビングからベッドルームに向かい、クローゼットの棚から袖口が擦り切れて綻びているパーカーを引っ張り出して肩に掛けると、途端にリオンの匂いが鼻の辺りに漂ってくる。
その匂いに包まれると同時に全身から不要な力が抜けて膝が崩れそうになるが、何とか踏みとどまってパーカーの前をしっかりと合わせながら廊下に出てそのまま玄関へと向かう。
先程の様子からすれば着いたことを知らせるのに携帯ではなくドアベルを鳴らすだろうと予測し、そのまま壁際に膝を抱えて座り込んだウーヴェは、心を静めて落ち着きを取り戻すためにゆっくりと数字を数え始める。
ein,zwei,dreiと数えていくうちに影が与えていたプレッシャーも過去からの声も遠くになり、いつしかウーヴェが感じるのは背中を覆っているパーカーの温もりとリオンの匂いで、彼方此方が擦り切れている薄いパーカーが与えてくれる限りない温もりに包まれていると影に脅えて不安に竦んでいた心と身体の強張りが薄らいでいく。
そしてウーヴェの心がいつもより少しだけ落ち込んでいる、そんなところまで回復した時、予想通りにドアベルの音が頭上に鳴り響き、数えることを中断して壁に手を付いて立ち上がり、ドアを開けると同時に隙間から滑り込んできた大きくて暖かな身体に抱き竦められて無意識に安堵の溜息を零す。
「…ごめんな、オーヴェ。でもこれでも精一杯頑張って早く帰ってきたんだ」
だからお願い許してと、戯けた風を装いながら本心を伝えられ、ただ無言で頷いたウーヴェは、リオンの匂いをその温もりを存在を全身で感じ取り、安堵を覚えた身体から力が抜けていくのを止められずに慌てそうになるが、腰に回された腕がしっかりと身体を支えてくれたことに気付いて小さな声で名前を呼ぶ。
「リーオ…」
「うん。良いぜ、オーヴェ」
ウーヴェが伝えたかったことをしっかりと読み取り白い髪にキスをしたリオンは、己の返事を聞くが早いか腕の中の身体から力が抜けたことに気付いて抱き寄せ、足に全く力が入らなくなったウーヴェを抱き上げてベッドルームに向かうがその顔には表情が無く、霞む視界で見上げたウーヴェが後日見間違いだったのだろうかと訝ってしまう程だった。
マザー・カタリーナでさえも見た事がない無表情さでウーヴェをベッドにそっと下ろして隣に腰掛けると影を落とす頬に口を寄せ、もう恐怖や不安を感じる必要はないことをキスで伝える。
「……リーオ…っ…」
「ん?ここにいるけど、あ、そだ。ちょーっとだけ待っててくれよ、オーヴェ」
コンフォーターを顔に掛かるほど引き上げたリオンをウーヴェが呼び、震える指先がリオンの手に触れるが、その手を取って一度キスをし、飲み物をとってくるから待っていてくれと告げてベッドから立ち上がる。
大人しく目を閉じるウーヴェの様子からかなり憔悴していることを察すると同時に、オイゲンに対する怒りや苛立ちが芽生えてくる。
こんなにも苦しむのならばあの時ウーヴェに止められていても再起不能になるまで殴れば良かったと舌打ちをしたリオンは、もう一発ぐらい殴っておかないと気が済まないことに気付き、ウーヴェに悟られないようにその気持ちを心の片隅に押しやってキッチンから水を片手に戻ってくると、ウーヴェがコンフォーターではなく安物のパーカーを身体に巻き付けている姿を発見して拳を握る。
そのパーカーは当然ながらリオンのもので、ウーヴェが己の服を引っ張り出してきた理由に気付けばただただ痛ましくて、その心が少しでも軽くなり不安が払拭されるように願いつつ雨で少し濡れているブルゾンを脱いでパーカーの上から掛けてやるとウーヴェの口からか細い安堵の溜息がこぼれ落ちる。
こんな安物のパーカーやブルゾンでは安心できないだろうに、これがあるから大丈夫と言いたげな顔で不安を抱えていることに今更ながらに気付き、その怒りを脳裏に浮かぶオイゲンへぶつけるものの、想像だけでは気が済まないと目を細め、とにかく風邪を引いてはいけないという一心でブルゾンの代わりにコンフォーターと毛布を被せてウーヴェの隣に再度腰を下ろす。
リオンが座ったことにより顔の傍のマットレスが沈み、その動きでのろのろと顔を上げたウーヴェは、見守るように微かに笑みを浮かべて見下ろすリオンに一つ頷き、影を追い払ってくれた太陽のような恋人に言い表しきれない感謝の思いを掠れた声で伝えると、大きな掌が額に載せられて髪を撫でられつい安心の吐息を零す。
「ここにいるからな、オーヴェ」
「………うん」
あの夜のように眠れないかも知れないが、またあの時と同じように一晩中傍にいることを伝え、少しでも微睡むことが出来る様に願いつつ額にキスをし、ウーヴェの横に横臥して抱き寄せる。
まるで幼い子供のように震えるウーヴェがただ愛おしくて、コンフォーターの上から抱き寄せ、間近にある白い髪や頬に何度もキスをし、少しでも安心してくれと強く願う。
その思いが通じたのかどうなのか、永遠のような時間が過ぎた頃、ウーヴェの口から微かな寝息が流れ出し、それを聞いて安堵したことを伝えるようにウーヴェの額にキスをするが、その心は安堵を遙かに凌駕する怒りに満ちていた。
リオンがここまで怒りを感じることは滅多になく、それ故にオイゲンへの怒りの大きさを実感させるが、対照的にその顔はと言えばいつものように口元に笑みを浮かべ、ウーヴェが眠ってくれたことへの安堵に彩られていた。
ウーヴェがその顔を見れば、リオンの心と表情が裏腹であることに気付くだろうが、それが出来る張本人は浅い眠りの中にいる為、リオンは蒼い双眸にだけ怒りの一端を滲ませながら小さく口笛を吹く。
「どーしようかなー……病院に行くか、家に行くか…」
呟かれる声は陽気で、まるでウーヴェとデートするときに出掛ける先を選ぶような気軽さに浮かれているが、呟かれる内容はウーヴェが聞けば血相を変えてしまうようなことだった。
恋人が聞けば間違いなく全力で制止するようなことを呟き、その予想が余程楽しいものだったのか、リオンがくすくすと笑いながらウーヴェの身体を抱き寄せるのだった。
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