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#探偵
橘靖竜
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にゃいにゃい
74
第316話 エルンと片鱗
【異世界/王都イルダ・旧軍用地下通路】
「次の身体を」
エルン・ヴァイスは、笑った。
同じ顔。同じ軍服。
数週間前まで治療を受け、六日前にはイデールと普通に会話をしていた男だ。
だが今、その皮膚の下では黒い文字列が首筋から頬、腕へと走り、目の奥にも同じものが浮かんでいる。
アデルは武器を構えたまま、わずかに腰を落とした。
「全員、下がるな」
ヴェルニが横目で見る。
「下がるな?」
「狭い。散った方が狙われる」
ノノも端末を見ながら壁際へ寄った。
「アデル、反応が変」
「どう変だ」
「二つあるのに、二つじゃない」
「分かるように言え」
「今やってる!」
ノノが珍しく少し強い声を返す。
その間もエルンは動かなかった。
イデールだけが、武器ではなく治療杖を前へ向けている。
「エルン」
名前を呼ぶと、男の笑みがほんの僅かに止まった。
黒い目の奥に、人間らしい迷いが一瞬だけ浮かぶ。
イデールは見逃さなかった。
「聞こえてるでしょ。さっき私を呼んだよね」
返事はない。
だが、エルンの右手が僅かに震えた。
ノノが端末を見る。
「反応した」
アデルは視線を外さない。
「本人か」
「たぶん。でも――」
その言葉が終わるより早く、エルンの姿が視界から消えた。
正確には、消えたのではない。
床を強く蹴り、ほとんど予備動作もなく一気に間合いを詰めてきたのだ。
狙いはイデールだった。
「っ!」
ヴェルニが横から割り込む。
狭い通路で炎を使えば全員を巻き込む。
拳に風だけをまとわせ、エルンの腕を外側へ弾いた。
だがエルンは止まらない。
弾かれた力をそのまま回転へ変え、身体を捻ってヴェルニの脇腹へ蹴りを叩き込む。
「ぐっ……!」
ヴェルニの背中が壁へぶつかった。
その隙にエルンは再びイデールへ向かう。
アデルが間へ滑り込んだ。
甲高い金属音が通路へ響く。
エルンが握っているのは、王都軍で使われる短剣だった。
アデルの目が細くなる。
「その短剣……」
倉庫で拾ったのか
それとも途中で誰かから奪ったのか。
エルンは答えない。
刃を押し合う。
力そのものならアデルの方が上だった。
だが次の瞬間、エルンの左腕が、人間なら関節が止まるはずの角度を越えて折れ曲がった。
腕がアデルの防御の内側へ潜り込み、そのまま身体へ絡みつこうとする。
「!」
アデルは反射的に距離を取った。
ごきりっ
エルンの肩から、嫌な音が鳴る。
明らかに関節を傷めている。
それでもエルンは痛がらなかった。
黒い線が肩を走ると、不自然に外れかけていた関節が、力ずくで元の位置へ押し戻されていく。
ノノが声を上げた。
「無理に動かしてる!」
「何をだ」
「身体そのものを!」
ヴェルニが体勢を立て直しながら吐き捨てる。
「自分の身体じゃないみたいに使いやがる」
その言葉に、イデールの表情が曇った。
「……エルンの身体だよ」
◆ ◆ ◆
エルンは再び踏み込んできた。
今度はただ速いだけではない。
短剣の角度。
足の運び。
壁際へ追い込む位置取り。
すべてが、王都軍で訓練を受けた兵士の動きだった。
アデルは三度続けて攻撃を受け、四度目の刃を身体の外側へ逸らす。
「こいつ……」
ヴェルニが気づいた。
「普通にエルンの技も使ってるぞ」
「記憶があるから」
ノノが答える。
「本人の戦闘経験をそのまま使ってる!」
相手にしているのは、片鱗だけではない。
エルンが長年積み重ねた訓練、判断、癖。
そこへ、サロゲートの異常な身体操作が重なっている。
アデルが短剣を大きく弾いた。
エルンの手から刃が離れる。
普通なら、そこで動きは一度止まる。
だがエルンは迷わず短剣を捨て、空いた右手でアデルの左手首を掴んだ。
副鍵。
アデルの表情が変わる。
「離せ!」
肘を打ち込む。
エルンの顔が横へ弾かれた。
それでも掴んだ手は緩まない。
黒い文字列が指先から這い出し、アデルの手首へ伸びかける。
「アデル!」
ノノの声。
アデルは即座に身体を沈め、エルンの腕を捻り上げた。
そのまま力を入れれば、骨を折れる。
だが最後の瞬間
止めた。
腕を折らず、関節だけを壁へ押さえ込む。
「ノノ!」
「待って!」
ノノが走る。
その瞬間、エルンは首を大きく沈め、アデルの腕の下へ身体を滑り込ませた。
続けざまに膝が腹へ入る。
「っ……!」
アデルが一歩下がった。
エルンはその僅かな隙で拘束を抜け、再び距離を取る。
ヴェルニが声を荒げる。
「折っとけよ!」
「本人ごと壊してどうする!」
「じゃあどう止めんだ!」
「考えながらやってる!」
エルンが笑う。
「遅い」
同時に、首筋から胸へ黒い線が一気に増えた。
ノノの端末が鋭い警告音を鳴らす。
「まずい」
「何だ」
「片鱗側の反応が広がってる!」
◆ ◆ ◆
イデールが一歩前へ出た。
「エルン!」
男の足が止まる。
アデルがすぐに振り返る。
「イデール、下がれ!」
「今反応した」
「だから危険だ」
「分かってる!」
珍しく、イデールの声が強く響いた。
それでも、エルンから目は逸らさない。
「エルン・ヴァイス」
フルネームを呼ぶ。
男の顔が僅かに歪んだ。
「あなたは王都防衛軍の後方支援隊。北西区画で怪我をした」
イデールはゆっくり一歩近づく。
「治療所で私に『まだ任務があります』って言った」
エルンの右手が震えた。
目の奥を流れる黒い文字列が乱れる。
ノノが叫ぶ。
「本人側の反応、上がってる!」
アデルは武器を下げない。
だが攻撃もしない。
イデールはさらに続けた。
「そのあと散々怒られたでしょ。勝手に動くなって」
今度は少しだけ、いつもの柔らかさが戻る。
「覚えてる?」
エルンの唇が震えた。
声にはならない。
それでも何かを言おうとしている。
「……イ……」
イデールの目が開く。
「エルン?」
「……イデ……」
その直後、エルンは突然自分の喉を強く掴んだ。
黒い線が首筋へ集中し、外へ出ようとした声を押し込めるように蠢く。
身体が震える。
「……逃げ……」
本人の声だった。
「エルン!」
「……逃げ……て」
次の瞬間。
エルンが顔を上げた。
さっきまで浮かんでいた恐怖が消え、黒い文字列が瞳の奥を完全に覆っている。
『邪魔だ』
低い声。
エルンの声には違いないのに、そこには本人の温度がなかった。
アデルが一歩前へ出る。
「やっぱりいる」
ノノが言った。
「何が」
「エルン本人!」
端末には、一瞬だけはっきりと二つに分かれた反応が残っていた。
ヴェルニが構え直す。
「だったら敵は中だ」
イデールは小さく頷いた。
「そう。この人じゃない」
◆ ◆ ◆
その言葉に反応するように、エルンの身体が大きく震えた。
『違う』
片鱗の声。
イデールは静かに返す。
「違わないよ」
『これは兵士だ』
「エルンだよ」
『兵士』
「エルン・ヴァイス」
『守る者』
「それは仕事」
イデールの視線は少しも逸れない。
「名前じゃない」
一瞬だけ。
地下通路の空気が止まったように感じた。
ノノもその言葉の意味に気づく。
名前。
役割。
以前、片鱗は「兵士」という役割を使った。
守る。
通す。
命令に従う。
兵士らしい言葉だけを残し、人間としての迷いを削っていった。
だが。
エルン・ヴァイスという名前は違う。
役割よりも前から存在しているその人自身を指す言葉だ。
「エルン」
イデールがもう一度呼ぶ。
「聞こえてるなら、返事して」
黒い文字列が大きく乱れた。
そしてエルンの右目から、一瞬だけ黒さが引いた。
そこに戻ったのは、怯えと苦痛を抱えた人間の瞳だった。
「……イデ……」
だが。
『黙れ』
片鱗の声が重なり、再び目が黒く染まる。
エルン自身の手が、自分の喉を強く締めつけた。
内側から出ようとする声を押し潰すように。
「やめて!」
イデールが走る。
それを待っていたように、エルンの左手が彼女へ伸びた。
「イデール!」
アデルが割って入り、黒い爪のように変わった指先を武器で弾く。
火花が散る。
エルンはその反動で後方へ跳び、壁へ片足をついた。
次の瞬間には壁面を二歩駆け、天井近くからノノへ向かって飛びかかる。
人間の身体では考えにくい動きだった。
「ノノ!」
ヴェルニが突っ込む。
今度は遠慮しない。
拳へ風を集中させ、エルンの胴へ叩き込む。
轟音。
直撃する寸前。ノノが叫んだ。
「強すぎる!」
ヴェルニは拳の軌道をわずかにずらした。
直撃は避けたものの、風圧だけでエルンの身体が吹き飛ぶ。
背中から壁へ激突し、石片が周囲へ散った。
「……加減したぞ」
ヴェルニが言う。
アデルが睨む。
「今のどこが」
「俺にしちゃした方だ!」
瓦礫の向こうでエルンが、もう立ち上がっていた。
口元から血が流れている。
左腕も不自然な角度へ曲がっている。
それでも痛みに顔を歪めるより先に、身体を動かそうとする。
イデールの顔が変わった。
「やめて」
片鱗へ向けて言う。
「その身体を壊さないで」
エルンが笑った。
『壊れても』
黒い線が、折れた左腕へ集中する。
『次がある』
骨が擦れる嫌な音が響き、曲がった腕が無理やり元の位置へ戻されていく。
イデールは唇を噛んだ。
『身体は替えられる』
その言葉にアデルの目が冷たくなる。
「エルンには替えがない」
片鱗がアデルを見る。
「その身体も」
アデルは続けた。
「お前のものじゃない」
◆ ◆ ◆
ノノは必死に端末を操作していた。
「分かった」
アデルが聞く。
「何が」
「さっきエルンが出た瞬間」
画面へ二つの波形が浮かぶ。
片鱗側。
エルン側。
そして、その二つが重なり合っている領域。
「完全に一つになったわけじゃない」
イデールが振り返る。
「分けられる?」
「まだ分からない」
ノノは首を振った。
「でも、少なくとも二つの情報パターンがある」
一つはエルン・ヴァイス。
もう一つはサロゲートの片鱗。
「ただし」
ノノの声が重くなる。
「重なってる部分が前よりずっと多い」
アデルが見る。
「どのくらい」
「今は戦闘で数値が乱れすぎて測れない。でも」
ノノはエルンから目を離さない。
「簡単に剥がせる状態じゃないと思う」
ヴェルニが低く言った。
「なら捕まえるしかねえな」
「最初からそのつもりだ」
アデルが答える。
「イデール」
「うん」
「名前を呼び続けて」
「分かった」
「ノノ」
「反応を見る」
「ヴェルニ」
「殴り殺すな、だろ」
アデルが見る。
「分かってるなら言わせるな」
ヴェルニが歯を見せた。
「了解」
四人がそれぞれ位置を変える。
エルンが首を傾けた。
『何をする』
アデルは武器を構え直した。
「お前を捕まえる」
『無理だ』
「なら試す」
『この身体を傷つけられない』
その言葉で
アデルたちが止まると思ったのかもしれない。
だがアデルは一歩踏み込んだ。
「傷つけないとは言ってない」
エルンの目が僅かに細くなる。
「殺さないと言ったんだ」
次の瞬間アデルが走った。
◆ ◆ ◆
アデルが正面から距離を詰め、ヴェルニは右へ回り込む。
イデールは少し距離を取り、ノノがさらに後ろから二人の反応を追った。
エルンの短剣がアデルへ振り下ろされる。
アデルは刃を正面から押し返さず、武器の側面で受けて軌道を外側へ滑らせた。
エルンの身体が僅かに流れる。
その瞬間。
ヴェルニが右から足元へ蹴りを入れる。
エルンは跳んでかわした。
「エルン!」
イデールの声が通路へ響く。
空中でエルンの身体がほんの一瞬だけ硬直した。
その隙をヴェルニは逃さない。
着地した足を払う。
エルンの体勢が崩れた。
アデルがすぐに背後へ回り、右腕を掴んで床へ押さえ込む。
「今!」
ノノが白い拘束線を展開した。
光の線が腕、肩、脚へ次々と巻きつき、エルンの身体を床へ固定していく。
黒い文字列が拘束線へ這い上がり、それを侵食しようとする。
「イデール!」
「分かってる!」
イデールが治療杖を振る。
「〈縫光・第三級〉!」
白い糸のような光がノノの拘束線へ重なり、以前と同じように片鱗の輪郭そのものを縫い留めていく。
エルンの身体が床へ沈んだ。
『離せ!』
声が変わる。
そこには初めて、明確な焦りと怒りが混じっていた。
ヴェルニも上から肩を押さえ込む。
「やっと焦ったか」
『離せ!』
黒い影が身体の周囲で大きく膨れ上がる。
「押さえて!」
ノノが叫ぶ。
アデルはエルンの腕を掴んだまま離さない。
「イデール!」
「分かってる!」
イデールは治癒光をさらに強めた。
「エルン!」
黒い影と白い光が、同じ身体の中で激しくぶつかり合う。
「エルン・ヴァイス!」
その名前に。
男の顔が苦しそうに歪んだ。
瞳の奥を覆っていた黒い文字列が揺らぎ、右目だけが徐々に本来の色を取り戻していく。
そこに戻ったのは、さっきまでの無機質な目ではなかった。
痛みと恐怖を抱えながら、それでも外を見ようとしているエルン自身の目だった。
「……俺……」
イデールが息を呑む。
「聞こえてる」
「……俺……を……」
黒い線が喉から胸へ集中していく。
片鱗が、再び声を押さえ込もうとしている。
「エルン!」
「……消す……な……」
四人の表情が変わった。
だがノノだけは端末から目を離さなかった。
「本人だ!」
叫ぶ。
「今のはエルン側の反応!」
直後
黒い影が身体全体を覆った。
拘束線の一本が耐えきれずに切れ、白い光が弾ける。
アデルが顔を上げた。
「まだ来るぞ!」
エルンの目は再び黒く染まった。
それでももう誰も迷わない。
あの身体の中には、まだエルン・ヴァイスがいる。
そして。
彼自身が。
消されることを拒んでいる。
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⋆⸜ 第316話、読み終えたよ…! ⸝⋆ もう、感情が追いつかないんだけど!!😭💦 イデールが「エルン」って名前で呼び続けるシーン、心臓ギュッてなったよ…「兵士」じゃなくて「エルン・ヴァイス」って呼ぶ意味、めっちゃ重くて深いね。 最後の「消すな」、エルン本人の声が確かに届いた瞬間、ゾクゾクしたし同時に泣きそうになった…。 彼自身が諦めてないってのが、めちゃくちゃ熱いよ🔥💕 アデルたちも♡♡♡ず止める方針貫いてて、仲間の信頼関係が滲んでた…✨ 次、どうなるんだろう!はやく読みたいよ〜!🌸