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第317話 暴れられる場所
【異世界/王都イルダ・旧軍用地下通路】
拘束線が切れた。
白い光が弾け、エルン・ヴァイスの身体を覆っていた黒い影が一気に膨れ上がる。
「押さえて!」
ノノが叫ぶ。
アデルは右腕を掴んだまま離さず、ヴェルニも肩を床へ押さえ込んでいる。
イデールの〈縫光〉もまだ残っていた。
それでも黒い文字列は止まらなかった。
首筋から胸へ。
背中から腕へ。
そして床についていたエルンの手のひらから、黒い線が石床へ広がっていく。
ノノが端末を見て顔を上げた。
「下から来る!」
直後。
エルンを中心に石床が大きくひび割れた。
「離れろ!」
アデルが叫ぶ。
四人が飛び退いた直後、黒い影が床を突き破るように噴き上がった。
壁の灯りが二つ消え、地下通路が一瞬暗闇に沈む。
視界が戻った時
エルンはすでに立ち上がっていた。
腕には切れた拘束線が垂れている。
残った一本も、黒い文字列に侵食されて今にも千切れそうだった。
イデールが息を整えながら呼びかける。
「エルン」
エルンの顔が僅かに動いた。
だが本人からの返事はない。
『その名前は邪魔だ』
片鱗の声。
「あなたにとってはね」
『消せばいい』
「消させないよ」
イデールの声は柔らかかった。
だが一歩も引かない。
黒く染まった目がイデールへ向く。
次の瞬間、エルンは身体を低く沈め、そのまま一直線に踏み込んできた。
「来るぞ!」
アデルが正面から受ける。
エルンの拳が武器の側面へ叩き込まれ、鈍い衝撃がアデルの腕へ響いた。
普通なら武器へ素手で拳を打ち込むような真似はしない。
皮膚が裂ける。
骨を傷める。
それでも片鱗は構わず、二撃、三撃と連続して拳を振るう。
アデルは受ける角度を変えながら攻撃を逸らした。
それでも衝撃までは消せない。
「本当にエルンの身体を使い潰す気か……!」
返事はない。
さらに拳が来る。
アデルが身を捻ってかわしたところへ、今度はヴェルニが横から入った。
「交代だ!」
風をまとわせた蹴りがエルンの脇腹へ向かう。
エルンは腕で受けた。
鈍い音とともに身体が横へ流れるが、倒れるどころか、その勢いを利用して壁を蹴った。
「おい!」
反対側から戻ってきたエルンの肘を、ヴェルニが腕で受ける。
続いて膝。
拳。
また肘。
王都軍で身につけた近接戦闘に、片鱗の異常な加速が加わっている。
ヴェルニは二発を受け、三発目を外し、四発目を辛うじて止めた。
「しつけえな!」
拳を返しかける。
「ヴェルニ、強く入れるな!」
アデルの声が飛んだ。
「分かってる!」
「さっきもそう言ってた!」
「今度は本当に分かってる!」
ヴェルニは舌打ちしながら力を落とした。
それでも拳の衝撃でエルンは数歩後ろへ下がる。
少し離れた場所では、ノノが端末に映る二つの反応を追っていた。
「アデル!」
「何!」
「さっきより重なってる!」
「どっちが!」
「両方!」
ノノは画面を拡大する。
白と黒。
エルン本人と片鱗。
以前なら二つに分けて見ることができた反応が、戦闘が続くたびに交差し、区別しにくくなっている。
「エルンが動けば片鱗も動く。片鱗が動けば、エルンの身体反応も一緒に出る!」
「それ以上混ざると?」
「分からない。でも、これ以上動かし続けるのはよくない!」
その言葉を聞きながら、イデールはエルンを見た。
「エルン、聞こえる?」
返事はない。
「もう戦わなくていいよ」
黒い目がイデールへ向く。
『兵は戦う』
「それは仕事」
『兵は命令に従う』
「今は誰にも命令されてないでしょ」
『守る』
イデールは少し間を置いた。
「誰を?」
エルンの動きが止まった。
「エルンは、誰を守りたいの?」
黒い文字列が目の奥で大きく乱れる。
ノノが顔を上げた。
「本人側、反応した!」
だが次の瞬間。
エルンは再び踏み込んだ。
今度の狙いは明らかにイデールだった。
アデルが間へ入り、正面からエルンを押し返す。
その時だった
地下通路の奥から、重い音が響いた。
一度。
さらにもう一度。
何かが壁の向こう側から、何度も石を殴っている。
ヴェルニが振り向く。
「……何だ?」
三度目。
石壁が内側へ大きく膨らんだ。
ノノの顔色が変わる。
「みんな、離れて!」
直後。
壁が吹き飛んだ。
石片と埃が通路へ飛び散り、その向こうから黒い影をまとった大柄な男が歩いてくる。
肩幅の広い身体。
皮膚の下を脈打つ文字列。
そして何より。この状況を見て、楽しそうに笑っている。
ヴェルニが目を細めた。
「……ジャバ」
アデルも武器を構え直す。
「なぜここにいる」
ジャバは答えない。
壊した壁をくぐると、アデル、ヴェルニ、ノノ、イデールと順に視線を動かした。
最後にエルンを見る。
その瞬間。
笑みが深くなった。
「いるじゃねえか」
エルンもジャバを見る。
黒い目に感情はない。
ジャバは一歩前へ出た。
「随分面白そうなのが」
ヴェルニがすぐに構える。
「帰れ」
「何でだよ」
「邪魔だからだ」
「ひでえな。せっかく匂い嗅ぎつけて来たのによ」
アデルが聞く。
「誰の命令だ」
ジャバが眉を寄せた。
「命令?」
「カシウスか」
「あいつには何も言われてねえよ」
「なら何しに来た」
ジャバは迷いもなく、エルンを指した。
「暴れられそうだから」
数秒。
誰も言葉を返さなかった。
ノノが小さく呟く。
「……最悪」
「だろ?」
ジャバは笑う。
「で、どいつからやる?」
◆ ◆ ◆
「誰ともやるな」
アデルが即座に言った。
ジャバが足を止める。
「何でお前が決めんだよ」
「今はエルンを捕らえる」
「捕らえる?」
ジャバは黒い線の走るエルンを眺め、露骨につまらなそうな顔をした。
「もったいねえな」
「中に本人がいる」
「だから?」
その一言でアデルの目が冷たくなる。
だがジャバは気にしない。
「動くんだろ。だったら殴れる」
「殴らないで」
イデールが静かに言った。
ジャバが初めて彼女を見る。
「誰だ、お前」
「イデール」
「知らねえ」
「私もあなたとは話したことないね」
「じゃあ何で命令すんだ」
イデールは首を振った。
「命令じゃないよ。お願いしてるの」
ジャバは数秒だけイデールを見つめた。
そして、笑った。
「嫌だ」
床を蹴る。
「ジャバ!」
アデルが追う。
だが間に合わない。
ジャバの拳がエルンへ向かう。
エルンも黒い腕を交差させて受けた。
轟音。
地下通路全体が揺れた。
ノノが壁へ手をつき、イデールも身体を支える。
エルンは数メートル先まで押し流された。
それでもジャバは止まらない。
「いいな!」
嬉しそうに追いかける。
エルンもすぐに体勢を戻し、正面から拳を返した。
ジャバはそれを受ける。
黒い影と黒い影がぶつかる。
だが同じではない。
ジャバは自分の意思で、自分の身体を使っている。
エルンは違う。
片鱗に身体を使われている。
「やめろ!」
アデルが二人の間へ入ろうとする。
「待て!」
ヴェルニが叫んだ。
「何だ!」
「今入ったらお前までまとめて殴られるぞ!」
「分かってる!」
「分かってて行くな!」
その間にも、ジャバの拳がエルンの肩へ入る。
エルンは壁へ叩きつけられ、すぐに跳ね返るように戻ってきた。
イデールの声が強くなる。
「ジャバ、やめて!」
「あ?」
「その人の身体は、あなたの遊び道具じゃない!」
ジャバが一瞬だけ顔を向ける。
その隙をエルンは逃さなかった。
蹴りがジャバの顎を捉える。
巨体が数歩後ろへ下がった。
静かになる。
ジャバはゆっくり顔を戻し、口元から流れた血を親指で拭った。
「……いいじゃねえか」
そして笑う。
「こいつ、ちゃんと強え」
アデルは低く息を吐いた。
「本当に最悪だな」
◆ ◆ ◆
戦いはさらに崩れた。
ジャバがエルンへ向かえば、アデルが進路を塞ぐ。
その横からエルンがアデルを狙い、ヴェルニが割って入る。
今度はジャバがヴェルニへ拳を振るった。
「何で俺なんだよ!」
「そこにいたからだ!」
「理由になってねえ!」
ヴェルニがかわした背後から、エルンが踏み込む。
アデルが横から身体を押し、攻撃の軌道を変えた。
誰が誰を狙っているのか
一瞬ごとに変わっていく。
それでもノノだけは、少し離れた場所からエルンの反応を追い続けていた。
そして。
異変に気づいた。
「……待って」
ジャバの拳がエルンの脇腹へ当たる。
その瞬間。
画面上で、重なっていた二つの反応が僅かにずれた。
ノノが目を細める。
もう一度。
ジャバの攻撃をエルンが腕で受ける。
また黒い反応だけが、エルン本人の反応から僅かに遅れた。
「アデル!」
「今忙しい!」
「ジャバに殴られた時だけ分かれる!」
アデルが振り向いた。
「何?」
「エルンと片鱗の反応! 一瞬だけずれてる!」
イデールも端末へ視線を向ける。
ジャバの拳がもう一度入った。
今度は目で見ても分かった。
黒い影が、エルンの身体から僅かに遅れて揺れた。
「どういうこと?」
イデールが聞く。
「分からない。でも、強い衝撃を受けた瞬間だけ片鱗側の同期が遅れてる!」
ヴェルニが顔をしかめる。
「じゃあ、あいつの馬鹿力が役に立ってんのか?」
「言い方!」
「他に何て言えってんだ!」
アデルはジャバを見る。
本人はそんなことなど知らない。
ただ楽しそうにエルンへ向かっている。
それでも。
利用できるなら使う。
「ジャバ!」
「ああ?」
「もう一発だけ入れろ!」
ヴェルニが目を見開く。
「お前が頼むのかよ!」
ジャバは嬉しそうに笑った。
「最初からそう言え!」
◆ ◆ ◆
「ただし殺すな」
「面倒くせえ!」
「できないならやるな!」
「できる!」
ジャバが拳を握る。
黒い影が腕へ集まり始める。
「待って」
イデールの声。
ジャバが苛立ったように振り向く。
「今度は何だよ」
「胸は避けて」
「注文多いな!」
「頭も駄目」
「じゃあどこ殴れってんだ!」
「肩。できれば左」
「細けえ!」
イデールはジャバをまっすぐ見た。
「エルンを生かしたいの。お願い」
ジャバは面倒そうに顔を歪める。
だが。
今度は断らなかった。
「……一回だけだぞ」
アデルがエルンへ向き直る。
「ヴェルニ!」
「ああ!」
二人が左右から入った。
アデルが右腕を押さえ、ヴェルニが左側へ回る。
エルンの身体から黒い影が膨れ、二人を振り払おうとする。
「エルン!」
イデールが呼んだ。
その名前に反応し、黒く染まった右目が僅かに揺れる。
ほんの一瞬。
身体の力が緩んだ。
「今だ!」
ジャバが踏み込む。
拳がエルンの左肩へ叩き込まれた。
重い音とともにエルンの身体が横へ吹き飛ぶ。
だがノノは、倒れたエルンではなく、その少し手前を見ていた。
「……出た」
エルンの身体から
黒い影が半身ほど外へずれている。
人の形には見える。
だが人ではない。
顔もない。
目もない。
無数の文字列と「役割」だけを、無理やり人型へ押し込めたような黒い輪郭。
イデールが息を呑む。
「……あれが」
ヴェルニの表情も変わった。
「片鱗か」
完全に離れてはいない。
影の下半分は、まだエルンの胸と背中へ深く繋がっている。
それでも、初めて見えた。
エルンと片鱗。
二つが別のものとして。
◆ ◆ ◆
「ノノ!」
アデルが叫ぶ。
「今!」
「分かってる!」
ノノは端末へ両手を走らせた。
白い線が二本に分かれる。
一本はエルン。
もう一本は、身体からずれた黒い影。
「分離反応、固定する!」
イデールもすぐに治療杖を向けた。
「〈縫光・第三級〉!」
白い糸が黒い影へ伸びる。
「エルン!」
さらに本人へ治癒光を送る。
「戻ってきて!」
床に倒れたエルンの顔が苦しそうに歪んだ。
外へずれた黒い影は身体へ戻ろうと蠢き、そのたびにノノの白い線が激しく揺れる。
「押さえろ!」
アデルとヴェルニがエルンの両腕を固定する。
『戻せ』
片鱗の声が響く。
『これは兵士だ』
「違う」
イデールは治癒光を緩めない。
『守る』
「それは役目」
『戦う』
「それも仕事」
黒い影がさらに暴れる。
『身体は――』
「エルンのものだよ」
その言葉で。
影が大きく歪んだ。
「エルン・ヴァイス!」
黒く染まっていた目に、本来の色が戻る。
今度は一瞬ではない。
エルンは苦しそうに息を吸い、イデールを見た。
「……イデール……」
「うん。ここにいるよ」
「……俺……」
「大丈夫。喋れるなら、ゆっくりでいい」
エルンは自分の腕を見ようとする。
だが身体はほとんど動かない。
「……身体が……動かない……」
イデールの表情が僅かに変わった。
「今は動かさなくていいよ」
「……俺じゃ……ない……」
その続きを押し潰すように、黒い影が再び身体へ戻ろうとした。
ノノが叫ぶ。
「まだ来る!」
アデルがエルンを床へ押さえ込む。
「拘束を重ねろ!」
白い線が腕、脚、胸へ幾重にも巻きついていく。
ヴェルニも押さえる力を強めた。
「今度こそ逃がすな!」
イデールは最後まで名前を呼び続けた。
「エルン。聞こえてるからね」
エルンの目がゆっくり閉じる。
黒い影が完全に身体へ戻るより先に、白い拘束線が外側から何重にも重なった。
やがて。
動きが止まった。
しばらく誰も手を離さなかった。
ノノが端末を確認する。
「……止まった」
アデルが聞く。
「どっちが?」
「両方。今は動いてない」
イデールはすぐにエルンの首元へ手を当て、治癒光を流した。
呼吸。
脈。
身体反応。
「生きてる」
ようやく息を吐く。
「エルンも、ちゃんといる」
アデルの肩から少しだけ力が抜けた。
◆ ◆ ◆
その横で。
ジャバだけが不満そうな顔をしていた。
「終わりか?」
ヴェルニが振り返る。
「お前、本当に何しに来たんだよ」
「さっき言ったろ。暴れられそうだったからだ」
ジャバは壊した壁の方へ歩き出す。
アデルが呼び止めた。
「待て」
「あ?」
「そのまま帰すと思うか」
ジャバが振り向き、嬉しそうに笑う。
「やる?」
ヴェルニがすぐに構えた。
「上等だ」
「やめて」
イデールの声だった。
大きな声ではない。
だがヴェルニは止まった。
「今ここで続けたら、エルンの拘束が持たないよ」
ジャバもエルンを見る。
そしてつまらなそうに肩をすくめた。
「じゃあ今日はいいや」
アデルの目が細くなる。
「逃がすと思うか」
「捕まえたいなら来いよ」
ジャバの足元へ黒い影が広がる。
ヴェルニが踏み出しかけた。
その時
「待って、拘束が揺れてる!」
ノノの声に、全員の視線がエルンへ戻る。
その一瞬でジャバの身体が黒い影へ沈んだ。
「またな」
最後に笑う。
「次はもっと殴れる奴にしろよ」
影が閉じる。
ジャバは消えた。
ヴェルニが拳を握る。
「……あいつ」
「今は追うな」
アデルが言う。
「分かってる」
悔しそうに答えたあと
「でも次は殴る」
イデールはエルンの脈を確認しながら言った。
「その時は先に言ってね」
「何でだよ」
「治療の準備するから」
ヴェルニが黙る。
ノノが少しだけ笑った。
張り詰めていた空気が、ほんの僅かに緩む。
だが。
すぐに端末が警告音を鳴らした。
「……待って」
ノノの表情から笑みが消える。
アデルが見る。
「何だ」
「さっき、片鱗が身体からずれた時の記録」
画面へ二つの反応を表示する。
エルン。
片鱗。
別々に見えた。
だが。
内部まで解析すると違う。
黒い反応は、外から身体へ張りついているだけではなかった。
神経。
記憶。
魔力反応。
身体のいくつもの場所へ深く入り込んでいる。
イデールも画面を見る。
「……どのくらい?」
ノノはすぐには答えなかった。
何度か表示を切り替え、数値を確認する。
そしてエルンへ視線を向けた。
「思ってたより、ずっと深い」
アデルが聞く。
「片鱗だけ取ればどうなる」
ノノは首を振った。
「まだ分からない」
一度息を吸う。
「でも、もう綺麗に片鱗だけを取れば終わりって状態じゃないと思う」
床に横たわるエルンは目を閉じている。
見た目だけなら普通の若い兵士だ。
その身体の中で
どこまでがエルンで
どこからが片鱗なのか
その境界は
想像していたより遥かに深い場所まで入り込んでいた。
#探偵
橘靖竜
6,601
4,465
にゃいにゃい
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うわっ、第317話…重かったね…。 まずイデールが「エルン」って呼び続けるところ、あれが本当に効いてた。名前を手放さないって、ああいう戦いの中でどれだけ強いことか。 それとジャバの登場には笑ったというか「最悪だ…」ってなった。でも「暴れられそうだから来た」って理由、あいつらしい。本人たちは大変だったけど、結果的にあの一撃で片鱗がずれたのは皮肉というか、奇妙な助け舟だったね。 でも最後のノノの分析で「もう綺麗に取れる状態じゃない」って…ここからどう救うんだろう。続きが気になる…。