テラーノベル
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――暗い。
目に入るのは、墨を流したみたいな闇だけだ。
手を伸ばしても、自分の指先がどこにあるのか曖昧になる。視界で言えば、せいぜい3メートル先が限界だろう。
(暗闇は……魔界での訓練で何とかなる。感覚はリセットされてないみたいだ)
視界に頼ることをやめて、耳と鼻と肌の感覚に意識を寄せる。
鼻をつく、濃い獣臭が漂ってきた。
毛皮と土と鉄錆を混ぜたような、懐かしいような、胃がきゅっとなるような匂い。
体重を乗せて走る、四足歩行の特徴的なリズム。
足音と気配の位置から推測するに――多分狼系のモンスターだ。
距離を測る。数を数える。どの方向からどれくらいの速度で近づいているか、頭の中で立体的に配置していく。
私を中心に、円を描くようにじわじわと接近してきていた。
――まずは一頭。
背後から、息を詰めて飛びかかってくる気配がした。
振り返りもせず、飛び込んできたそれの首根っこを右手で掴み、そのまま遠慮なく地面に叩きつける。
肉を地面に叩きつける鈍い音。湿った破裂音と共に、足元にぬるりとした感触が飛び散る。
内臓が弾けた匂いが、さらに強烈にあたりに広がった。
それを合図にするかのように、ぎゃうっ、と甲高い遠吠えが上がる。
次の瞬間、四方八方から、狼が牙をむいて飛び込んできた。
私は深く息を吸い込み、魔力を薄く周囲に展開する。
半径二十メートルほどを包む、透明な膜のように。
その魔力の「膜」に触れたものの輪郭が、感覚として頭に浮かぶ。
1層目より、空気中の魔力濃度が明らかに高い。放出した魔力が、すぐさま周囲から吸い込んだ魔力で補填される。
(放出する魔力と、取り入れる魔力が均衡してる……)
――つまり心置きなく戦えるってことだ。
飛びかかってくる狼たちを、順番に拳で叩き潰していく。
顎を砕く。喉を潰す。側頭部を殴り抜いて脳を揺らす。
骨の折れる音と肉が潰れる嫌な感触が、拳を通して伝わってくる。
数を数えながら、足を前へ出す。
(……おかしい。数が減っていない?)
十五、二十、三十、四十――。
五十を超えたあたりで、違和感が限界に達した。
この階層に入ったときに感じた気配は、たしかにそこまで多くはなかった。
にもかかわらず、今、私の周囲を埋め尽くす気配は、むしろ最初よりも増えているようにすら思える。
状況がつかめていない時には使いたくなかったけど、背に腹は代えられない。
魔力をさらに薄く、さらに広く、ふわりと飛ばして探知の精度を上げる。
狼たちの小さな火種みたいな魔力の中に、ひときわ大きく、濃い魔力の塊がひとつ。
――見つけた。
一番魔力の高い存在が、私の正面、少し離れた場所で何かを構えている。
そこから、次々と狼の気配が生まれているように感じた。
私は目の前の狼を蹴散らしながら、一直線にそこへ肉薄する。
「……そこだ」
気配の中心に拳を叩き込む。
拳が肉を貫く、生々しい手応え。骨が砕ける感触が腕に伝わると同時に、周囲に散っていた獣の臭いと気配が、糸が切れたようにふっと消えた。
ゆっくりと目を開ける。
足元には、大型のコボルトのような見た目のモンスターが、目を剥いたまま横たわっていた。
手には、骨と木を組み合わせたような杖を握りしめている。
「|狼使い《ウルフテイカー》だったのか。そりゃ減らないわけだ」
狼使い――自身の魔力を消費して、狼型のモンスターを召喚するタイプ。
しかもこの魔力濃度の高い環境なら、召喚して即座に魔力回復。また召喚、とほぼノーコストでやり続けることができる。
正直なところ、「チュートリアル」と書かれていた1層の次の階層で出てくるモンスターとしてどうなの、それ。と、神々にクレームを入れたくなるレベルだ。
『創造の神がそっぽを向いています』
目の前に現れた赤いウィンドウを消す。
倒した狼使いの杖を確認すると、先端の装飾部分に、1層目で見つけた転移石と同じ石がはめ込まれていた。
「……ボスだったのか」
石だけを抜き取り、杖から引き剝がす。
拳の中で転移石を握りしめ、そのまま力を込めて砕いた。
途端に、足元がふわりと宙に浮いたような感覚が訪れ、次の瞬間、視界を焼くほどのまばゆい光が目を貫いた。
「っ!?」
思わず声が漏れる。
暗闇に目が慣れきっていたところへ、いきなり最大出力のサーチライトをぶつけられたようなものだ。
光に頼るのをやめて、再び魔力を展開して周囲を探る。
木の感触がない。幹も枝も、近場には引っかかってこない。
(――木もない開けた場所?)
ゆっくりと、少しずつ瞼を持ち上げる。
じんじんと痛む目が、徐々に明るさに慣れていき、ぼやけていた景色が輪郭を取り戻していった。
視界一面に広がるのは、緑。
足元から地平線の彼方まで続いているかのような草原だ。
風が草を撫でて波を作り、さらさらと耳に心地良い音が届く。
見上げれば、雲ひとつない青空。
さっきまでの押しつぶされるような闇が嘘みたいな、絵に描いたような晴天だった。
「見晴らしがいい……」
思わず呟く。
前回、前々回と違い、鬱蒼とした森の中ではない解放感。
肌を撫でる風には、土と草の香りが混じっていて、どこか懐かしくすらある。
――その一方で。
(魔力濃度が高い……)
肺に吸い込むたびに、体の内側がむずむずする。
1層と2層の差でも、魔力濃度は倍近く違っていた。今回、2層から3層に上がって感じる差は、それ以上だ。
(これはもう少し進んだら、魔力に慣れる時間が必要になるかもね)
慣れるか、あるいは別の対策を取るか。
魔力濃度が高すぎる環境に長時間いると、めまい、動悸、頭痛、吐き気――いわゆる「魔力中毒」の症状が出始める。
回帰前の地球でも、魔力濃度の高いダンジョンに長時間滞在したハンターがその症状で倒れることは珍しくなかった。
その魔力中毒を防ぐために考案されたのが、魔力増加法だ。
自分の体が受け入れられる魔力量――キャパシティを超えた時にオーバーフローして症状が出るなら、そのキャパを物理的に増やせばいい。という、実にシンプルな発想で作られた技術。
古代竜の魔石を取り込んだことで、【竜の心臓(ドラゴンハート)】の効果により、今の私は際限なく魔力を取り込むことができる。
けれど、このまま階層を下るごとに魔力濃度が上がり続ければ、魔石に取り込む前の一時的な負荷で魔力中毒になってしまう可能性は十分にある。
(……対策は、早めに考えた方が良さそうだな)
そんなことを考えながら草原を歩いていると、ぐに、と靴の裏に嫌な柔らかさが伝わってきた。
「うわ、この階層はスライムか」
足元を見ると、靴底に半透明のゼリー状の物体がべったり張り付いていた。
色はうっすら黄緑。ぷるぷるしている。
――散歩中に犬の糞を踏んだ気分だ。
靴を地面に打ち付けるようにしてスライムを振り払う。
それが合図になってしまったのか、地面のあちこちから、ぼこぼことスライムが湧き出してきた。
「はいはい、順番にね」
手のひらを開き、飛びかかってくるスライムを平手で叩き落とす。
ぱぁん、と小気味いい音を立てて、スライムの体が弾け飛び、粘液が四方に散った。
「げ、髪についた」
ぺた、と生温い感触がこめかみ辺りに落ちてきた。
指でつまんで引きはがすと、ぬめっとした感触が残る。
前に沙耶が、何かの折に言っていた言葉が脳裏をよぎった。
『スライムの粘液ほっとくと枝毛の原因になるからね!? ちゃんと洗って!!』
「……帰ったらちゃんと洗おう」
髪についたスライムを振り払いながら、押し寄せてくるスライムたちをひたすら迎撃していく。
ある程度数を減らした頃、周囲の地面がぐらりと揺れた。
ぬるり、と地面ごとせり上がるようにして、ひときわ巨大なスライムが姿を現す。
高さは、私の身長の三倍ほど。中身は同じゼリー状なのに、質量感が段違いだ。
その体躯の中心部――核のように、転移石がぽうっと淡く輝いているのが見えた。
(どうやって取り出そうかな……)
一番手っ取り早いのは焼き切ることだ。
スライムは熱には弱いことが多い。中の転移石ごと炙り出してしまうのが早い。
魔法か……と一瞬考えて、すぐに答えに辿り着く。
「あ、使えるじゃん」
魔力操作自体は封じられていない。
私は右手を軽く掲げ、空中に指でなぞるように魔力陣を描く。
魔力で構成された線が空中に浮かび上がり、複雑な紋様を描いていく。
円と三角と四角、そこに刻まれた古い文字が、魔力の流れを制御する回路になる。
【炎球】の魔法陣を、寸分の狂いもなく描き上げる。
完成した魔法陣に意識を集中し、そこへさらに魔力を流し込む。
魔法陣がぎらりと輝き――
次の瞬間、直径2メートルほどの炎の球が、轟音を立ててスライムめがけて飛来した。
ぶつかった瞬間、じゅっ、と油を落とした鉄板の上みたいな音が響き、巨大スライムの体が一瞬で沸騰する。
膨れ上がったゼリーが破裂し、炎に包まれ、水蒸気と共に消し飛んでいく。
そのまま炎の玉は火柱のように伸びて地面へ着弾し、爆心地一帯を真っ赤に染め上げた。
熱気が押し寄せ、乾いた草がぱちぱちと音を立てて燃え始める。
顔を覆いながら、炎の勢いが収まるのをじっと待つ。
やがて、じわじわと炎が萎んでいき、黒く焦げた地面が姿を現した。
辺り一面に、焦げ臭いにおいが充満する。
その焼け焦げた中心部――爆心地の真ん中に、ぽつんと転移石が落ちているのが見えた。
炎に焼かれても、表面にかすかな煤がついているだけで、ひび一つ入っていない。
熱が残っていそうだな……と思いつつ、まあ大丈夫だろうと近づき、片手でひょいと拾い上げ――
「あっっっっつ!?」
反射的に手を離した。
じん、と皮膚が焼けるような痛みが走る。
熱湯とか、そんな生易しいものじゃない。
鉄工所で溶けかけの鉄を素手で触ったら、きっとこうなるのだろうな、というレベルの熱さだった。
転移石は、わずかに赤みを帯びている。
そういえば、見た目からして絶対に熱いと分かる状態だった。
「……うん、しばらく放置だな」
指先をぷらぷらと振りながら、私はしばらく地面に転移石を転がしたまま、風が冷ましてくれるのを待つことにした。
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