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赤桃
第1話「はじまりの闇」
俺は、光が嫌いだ。
目に刺すような白。心臓を締めつけるような熱。全部が全部、俺を責め立てるみたいだ。
だから俺は日が昇る前に起き、暗い部屋で身支度を整え、黒いフードを被って出かける。朝日が街を染める前に、通りを抜ける。
生まれたときから、光が嫌いだったわけじゃない。たぶん、昔は好きだったと思う。
でも、それを思い出そうとすると、頭の中に光が爆発して、真っ白になって、痛い。
だから忘れた。全部。
生きるために、忘れた。
そんな俺が、あいつに出会ったのは――
まだ涼しい春の朝だった。
街はまだ眠っていた。白む前の空の下、街灯の明かりもほとんど消えて、俺にはちょうどいい暗さだった。
その廃工場みたいな場所の、崩れかけたコンクリの壁にもたれて、あいつは座ってた。
痩せこけた腕を抱えて、うつむいていた。
最初はゴミか何かかと思った。
でも、動いたんだ。
「……おい」
声をかけたら、ゆっくり顔を上げた。
目が、すごく澄んでいた。
色がないみたいな、夜の湖面みたいな、黒とも白ともつかない瞳だった。
「だれ?」
細い声だった。ガサついて、痛そうだった。
俺は足を止めたまま、フードを深く被り直した。
「……何してんだ、こんなとこで」
「わかんない」
「家は?」
「ない」
「名前は?」
「……ないこ」
ないこ。
不自然な名だと思った。でも、そう言ったんだからそれがあいつの名だった。
俺は、行こうとした。
見なかったことにして、いつも通り、光を避けて帰ればいい。
でも足が動かなかった。
あいつの目の中に、光がなかった。
俺の嫌いなあの、眩しい、暴力的な光が、一切。
純粋に「暗い」だけだった。
「光、知らないのか」
気づいたらそう聞いてた。
ないこは首をかしげた。
「ひかり、って何?」
その声に嘘はなかった。
本当に、知らなかった。
俺は、心臓を掴まれたみたいになった。
結局、連れて帰った。
バカだと思った。やめとけって心の中の声が言った。
でもそいつを放っていけなかった。
俺の部屋は暗い。カーテンは黒。遮光カーテンを二重にしてる。
ないこは、暗がりの中でも平然としてた。
「ここ、くらい」
「……嫌か?」
「ううん。落ち着く」
なんでだろう、少しだけ笑えた。
シャワーを使わせて、服を貸して、適当に作ったインスタントスープを出すと、ないこはじっと見ていた。
「どうやって食べるの」
「……こうだ」
スプーンを持たせてやった。
ないこは、言われた通りに口に運んだ。
「……あったかい」
目を丸くした。
「これ、ひかりみたい」
「は?」
「しらないけど、たぶん、あったかいのが、ひかり、だと思った」
心臓を抉られた。
俺の嫌いな光を、こいつは知らない。
でも、想像して、あったかいものだと思った。
翌日、俺は学校を休んだ。
ないこを一人にできなかった。
「俺がいなくても平気か」
「わかんない」
「……俺は、光が嫌いだ」
「どうして」
「痛いからだ」
「そっか」
「お前は?」
「わかんない。しらないから」
ないこの声は、柔らかかった。
でも胸を刺した。
光が嫌いな俺と
光を知らないお前。
似てるのか、まったく違うのか、わからなかった。
それからしばらく、一緒に暮らした。
ないこは俺の質問に素直に答えた。
何も知らない子供みたいだった。
でも大人の男の声だった。
「年はいくつだ」
「わかんない」
「家族は?」
「わかんない」
「怖いものは?」
「ひとりになること」
その答えを聞いて、俺は夜中まで眠れなかった。
「ひかりは、あったかい?」
ある夜、ないこは聞いた。
「……あったかいときも、ある」
「じゃあ、さむいときもあるの?」
「そうだ」
「こわい?」
「……ああ」
俺は初めて、人にそう言った気がした。
ある夜、俺はうなされた。
光に焼かれる夢。
真っ白な部屋。
光を浴びせられて、泣き叫ぶ子供の俺。
「やめろ!」
「助けて!」
目を覚ましたら、ないこがいた。
布団の脇に座って、俺の手を握ってた。
「だいじょうぶ」
「……見たのか」
「うなってた」
「離れろ」
「やだ」
俺は泣いた。
泣くのは嫌いだ。
でも泣いた。
ないこは何も言わなかった。
ただ手を握ってくれてた。
あったかかった。
嫌いなはずの「あったかさ」だった。
その日、決めた。
ないこに、光を見せてやろうって。
俺は嫌いだ。
でも、あいつは知らないんだ。
俺が嫌いなものを、あったかいものだと思ってる。
本当はどっちもあるって、教えてやりたかった。
「ないこ」
「なに?」
「外に出よう」
「こわい」
「大丈夫だ。俺がいる」
「ひかり、こわくない?」
「俺は怖い。でもお前は知らないだろ」
「うん」
「見てみろ」
「うん」
まだ夜明け前の街を歩いた。
俺はフードを深く被った。
ないこは、俺の袖を掴んでた。
空が青くなる。
鳥が鳴き始める。
街灯が消えていく。
世界が光を取り戻す瞬間。
俺は息を呑んだ。
嫌いなのに、やっぱり美しいと思った。
でも、目が痛くて涙が出た。
ないこは、真っ直ぐ空を見ていた。
「……これが、ひかり?」
「ああ」
「きれい」
ないこは泣いていた。
笑いながら、泣いていた。
「こんなに、あったかいんだ」
「……痛くないか?」
「ちょっと、いたい。でも、あったかい」
「……そっか」
俺は肩を震わせた。
泣きたくなかった。
でも泣いた。
俺の嫌いな光を、
あいつは泣きながら、
「きれい」って言った。
俺は光が嫌いだ。
でも、ないこに光を見せたかった。
あいつの中にあった「暗闇」だけの世界を、
ちょっとでも変えてやりたかった。
それは、たぶん俺のエゴだった。
でも、あいつは泣きながら笑った。
「ありがとう、りうら」
名前を呼ばれたとき、俺は世界が変わった気がした。
こんな世界でも、生きてていいと思った。
それが、俺たちのはじまりだった。
光を嫌いな俺と
光を知らなかったお前。
暗闇の中で出会って、
同じ朝を見た
第2話「痛みを知る日」
ないこと一緒に、朝を見た。
それは俺にとっては地獄で、あいつにとっては天国みたいだった。
家に戻ると、ないこは少し熱を出した。
「だいじょうぶ」
そう言い張ったけど、身体は熱くて、顔は真っ赤だった。
光を知らないやつが、いきなり朝日を浴びたらそりゃそうなる。
「バカが」
俺は吐き捨てた。
けど、声が震えた。
氷をタオルに包んで、あいつの額に当てた。
ないこは弱々しく笑った。
「ごめん」
「謝るな」
「きれいだった」
「……ああ」
「ありがとう、りうら」
「もう喋るな」
「なんで?」
「声が枯れる」
ないこは笑った。
「声、あったかいのに」
「は?」
「りうらの声、ひかりみたいに、あったかい」
心臓が痛くなった。
そんなこと言うなよ。
俺は光が嫌いなんだ。
その夜は看病して、ほとんど眠れなかった。
ないこの寝息を聞きながら、俺は昔を思い出した。
思い出したくもない記憶。
あの白い部屋。
薬の匂い。
大人たちの目。
「光を見ろ」「慣れろ」「お前のためだ」
無理やり目を開かされて、ライトを当てられて、泣き叫んだ。
「やめろ!!」
誰も助けてくれなかった。
だから、俺は光が嫌いだ。
世界は勝手に「お前のためだ」って言って、
無理やり光を押し付ける。
痛みを押し付ける。
あいつに、そんな思いをさせたくなかったのに。
なのに、結局、熱を出させた。
俺は最低だった。
夜が明ける前に、氷が溶けた。
もう一度冷凍庫から取り出して、タオルを巻く。
ないこは寝たまま、俺の手を掴んだ。
「りうら」
寝言だった。
「どこにも、いかないで」
その声があまりにも弱くて、泣きそうになった。
俺はそっと返事をした。
「……行かない」
「ずっと、いて」
「わかった」
「ひとり、やだ」
「……わかった」
あったかい手だった。
光みたいにあったかかった。
嫌いなはずなのに。
翌日、熱は少し下がった。
ないこは目を開けて、ぼんやり笑った。
「おはよう」
「馬鹿が」
「ごめん」
「謝るなって言っただろ」
「でも、うれしかった」
「何がだ」
「ひかり、きれいだった」
「……」
「いたかったけど、あったかかった」
俺はもう怒れなかった。
その日、コンビニに行くことにした。
冷凍庫の氷が切れたし、食料も足りなかった。
ないこを一人にするのは心配だった。
「お前も来い」
「だいじょうぶ?」
「夜だから平気だ」
「うれしい」
夜の街を歩く。
ないこは俺の袖を掴んだまま、辺りを見回してた。
「きらきらしてる」
ネオンの光だ。
「人工の光だ」
「人工?」
「人間が作ったんだよ」
「すごい」
「……俺は嫌いだ」
「なんで?」
「嘘みたいだからだ」
ないこは首をかしげた。
「きれいなのに?」
「きれいなのが嘘なんだ」
「でも、きれいじゃん」
俺は返事ができなかった。
コンビニで買い物をして出たとき、ないこがふと止まった。
「りうら」
「ん」
「ひかりは、こわい?」
「……ああ」
「ぼくも、こわい」
「何が」
「ひかり、いたいし、あったかいし、しらな
いもの、いっぱい」
「そっか」
「でも、ひとりが、もっとこわい」
その声が震えていた。
俺は立ち止まって、ないこの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。
ないこはびっくりした顔をしたあと、少しだけ笑った。
帰り道、夜風が冷たかった。
街灯の下を通るたび、俺は目を細めた。
ないこはその灯りをじっと見ていた。
「りうら」
「なんだ」
「また、あさ、みたい」
「やめとけ。お前、熱出すだろ」
「でも、みたい」
「バカが」
「りうらと、いっしょなら、こわくない」
胸が痛かった。
家に着く頃、ないこは少し息を切らしていた。
「大丈夫か」
「だいじょうぶ」
「嘘つくな」
「だいじょうぶ」
何度も言った。
俺も、何度も聞いた。
だいじょうぶだって、言わせた。
熱が少し戻っていた。
薬を飲ませて、寝かせた。
ないこは俺の手を握った。
「ありがとう」
「寝ろ」
「りうらの手、あったかい」
「……お前の方が熱い」
「うん」
「寝ろ」
「ずっと、いて」
「……ああ」
深夜、俺は眠れずにいた。
ないこの寝顔を見ていた。
小さな子供みたいな顔だった。
でも、何も知らない目をしてた。
何も見てこなかった、何も知らない。
光も
痛みも
優しさも
嘘も
全部知らない。
俺が教えてしまった。
光はあったかくて
痛いものだって。
泣きそうだった。
なのに涙は出なかった。
次の日、学校を休んだ。
担任から「またか」とメッセージが来た。
無視した。
いいんだ、もう。
俺には、ないこがいたから。
昼間はカーテンを閉め切って、真っ暗な中で過ごした。
ないこは少しずつ熱が引いてきて、喋れるようになった。
「りうら」
「なんだ」
「ひかり、またみたい」
「……」
「こわいけど、みたい」
「なんでだよ」
「きれいだったから」
「痛かったろ」
「うん。でも、りうらがいた」
その言葉を聞いて、俺はもう止められなかった。
夜明け前、俺たちはまた外に出た。
ないこはまだ本調子じゃなかった。
でも俺の袖を掴む手は力強かった。
空が白み始めた。
鳥が鳴いた。
世界が色を取り戻す。
俺は嫌いな時間。
でも、ないこのために。
「りうら」
「ん」
「きれい」
「……そっか」
「でも、いたい」
「目、閉じろ」
「やだ」
「お前、バカだな」
「りうらも、バカ」
笑った。
泣きながら笑った。
ないこは震える手で、俺の頬を触った。
「りうら、いたい?」
「痛い」
「ごめん」
「謝るな」
「でも、ありがとう」
「……何がだよ」
「ひかり、みせてくれて」
俺は言葉が出なかった。
涙がこぼれた。
痛くて、眩しくて、あったかくて。
全部が嫌いで、でも今だけは。
「お前がいたから、俺も見れた」
やっとそれだけ言えた。
二人で泣きながら、朝日を見た。
光は俺を傷つけた。
ないこを熱で苦しめた。
それでも、あいつは「きれい」って言った。
俺は「嫌い」って思いながら、
それでもあいつと見る光は少しだけ、
あったかかった。
光を知らないお前と
光が嫌いな俺。
痛みを知って
それでも同じ朝を見た。
第3話「名前のない痛み」
光を浴びた次の日。
ないこは、また少し熱を出した。
だけど、もう俺は驚かなかった。
あいつの身体は、ほんの少しずつ――だけど確かに、外の世界に慣れ始めている。
俺が光を嫌いになったように。
ないこは光を「痛いけどきれいなもの」だと、ちゃんと覚えようとしてる。
でも。
それは同時に――俺にとって、少しずつ「こわいこと」でもあった。
ないこは、外の世界を知り始めた。
コンビニのネオン、夜の風、朝の光。
それまで俺の暗い部屋の中だけで完結してた「世界」は、
もうあいつの中じゃ足りなくなってきてる。
「りうら、図書館って知ってる?」
「どこでそれ知った」
「この本に、書いてあった」
ないこが指さしたのは、古い児童書だった。俺が昔、親に押しつけられたやつ。
「たくさん、本があるんでしょ?」
「ああ」
「行ってみたい」
「今度な」
「ほんと?」
「……ああ」
そう言いながら、俺は少しだけ不安だった。
知らない場所に行けば、あいつはどんどん 「知ってしまう」。
痛みも、怖さも、寂しさも。
俺が知ってる、名前のない痛みも。
俺は、もうずっと前に「普通の世界」から降りた。
人混みも、教室も、明るい場所も全部やめた。
今の俺にはこの部屋と、夜の街と、そして――ないこしかない。
でも。
ないこは違う。
あいつは、まだ「なにも持ってない」だけだ。
その空っぽの目に、今、少しずつ「色」が入っていってる。
たとえば――
「りうら」
「ん」
「これ、なに?」
指さしたのは、部屋の片隅に積まれた段ボールの中。
昔の俺の「捨てられなかったもの」たち。
汚れたCD、割れかけたミラー、古い写真。
ないこはその中から、一枚の写真を引き出した。
俺と、母親らしき人物と、どこかの公園。
もう覚えてない。忘れた。忘れたくて、置いてた。
「これ、りうら?」
「……ああ」
「この人は?」
「知らない」
「うそ」
「……うそだ」
苦しかった。
喉が詰まって、息ができなかった。
「俺は……」
声が震えた。
「光が嫌いになったのは、たぶん、こいつのせいだ」
「……この人が?」
「俺を……病院に連れてった。『治せ』って言った。俺の目は『壊れてる』って」
「壊れてないよ」
「違うんだ……あの人にとっては『普通』じゃなかったんだよ」
――思い出すのも痛かった。
白い病室。
目を無理やり開かされ、ライトを浴び、薬を塗られ、拘束され。
「痛くないふり」を強制されて、俺は全部を嫌いになった。
その光も、その母親も、自分自身も。
「だから、写真なんか……捨てればよかったのに」
俺は、写真をぐしゃぐしゃに握りしめた。
でも。
ないこは、そっと俺の手を取った。
「……りうら」
「……なに」
「ぼく、ひかり知らなかった」
「知ってる」
「でも、教えてくれたの、りうらだよ」
「……」
「いたかったけど、きれいだった。だから、
りうらのせいじゃない」
「……」
「りうらがくれたのは、きれいなひかりだよ」
涙が、止まらなかった。
あの白い病室とは違う。
俺の中に、少しずつ、あたたかいものが満ちてくるのがわかった。
その夜、ないこは寝る前に小さな声で言った。
「ぼくにも、そんなお母さんいたのかな」
「……わかんないな」
「いたとして、ひかりを見せてくれなかった のかな」
「かもな」
「でも、今はりうらがいるから、いいや」
俺は言葉が出なかった。
ただ「おやすみ」とだけ言った。
ないこは、何も知らない。
光も、家族も、名前の意味すらも。
でも、たしかに今「ここにいる」。
俺の隣に。
翌朝、俺は図書館の場所を調べた。
開館時間は午前九時から。
俺が最も避けてきた時間帯。
でも、ないこが「行きたい」と言ったから。
あいつの「世界」を少しでも広げたかったから。
今度こそ、ちゃんと準備をして。
光を防ぐサングラスと帽子と、長袖のパーカー。
ないこには、薄いサンシェード入りの眼鏡を渡した。
「これ、つけると痛くない?」
「少しはマシになる」
「ありがとう、りうら」
ふたりで、朝の街を歩いた。
俺にとってはまだ、眩しすぎる世界。
でも、ないこは前を向いていた。
図書館に着いたとき、ないこは目を輝かせた。
「本、いっぱい……!」
「静かにしろ」
「うん!」
本棚の間を歩きながら、ないこは一冊ずつ丁寧に表紙を撫でた。
まるで、それが「光」のように、あったかくて大切なものみたいに。
俺は少しだけ離れて、そんなないこを見ていた。
胸の奥が、じんわりと痛かった。
あいつは、俺よりも、世界を好きになっていく気がした。
それが、少しだけ――さみしかった。
その日の帰り道。
ないこは、ふいに立ち止まった。
「りうら」
「ん?」
「おれさ、ほんとうは……」
言いかけた言葉が、風に流された。
ないこの顔が、曇っていた。
「……なんでもない」
「言え」
「……こわい」
「なにが」
「思い出すの、こわい」
俺は、ぎゅっとあいつの手を握った。
「思い出さなくていい」
「でも……」
「今ここにいる。それだけでいい」
「……うん」
ないこの手が震えていた。
俺の胸も震えていた。
光を知らないあいつは、
少しずつ、世界を知り始めている。
痛みを知る日も、これからもっと増えるかもしれない。
それでも。
俺は、あいつのそばにいたい。
この、名前のない痛みを
ふたりで抱えて、生きていきたい。
第4話「思い出せないもの」
それは、夢だった。
俺は真っ白な部屋にいた。
壁も、床も、天井も、全部、漂白されたみたいに白くて、息が詰まるような場所。
そこで泣いていたのは――ないこだった。
小さな背中が、声もなく震えていた。
誰もいない。
何もない。
声をかけようとして、俺は気づいた。
自分の身体が動かない。
言葉も出ない。
ただ、そこに立ってるだけの、幽霊みたいだった。
――なのに、ないこは、俺の方を見た。
「……りうら」
俺の名前を、確かに呼んだ。
その瞬間、世界が音を立てて崩れた。
目が覚めたのは、午前四時。
薄暗い天井を見つめたまま、汗をかいた額を手で拭った。
隣を見ると、ないこがいた。
いつものように、小さく丸まって寝ていた。
夢の中のあいつと同じ、子供のような背中。
でも、少し違った。
今のないこは、あの白い部屋にいた子より、ほんの少しだけ、呼吸が穏やかだった。
俺が、そばにいるからだ。
図書館へ行ってからというもの、ないこは外に出ることに積極的になった。
午前の光はまだ怖いが、夕方の町なら、少しは歩けるようになった。
「りうら、今日も行っていい?」
「どこに」
「公園」
「……ああ」
そんな会話が日課になった。
人が少ない、少し寂れた公園。
ブランコのチェーンが少し錆びていて、風が吹くとギィギィ音を立てる。
だけどないこは、その音を聞いて笑った。
「この音、知ってる気がする」
「前に聞いたことがあるのかもな」
「うん……でも、どこでかは思い出せない」
ないこは、ぽつりぽつりと、“自分が思い出せない”ことを話すようになっていた。
「りうら」
「ん」
「ぼくさ、夢を見たんだ」
「夢?」
「真っ白な部屋にいた。すごく冷たくて、こわくて、でも、だれもいなかった」
俺は息を飲んだ。
それは――俺の見た夢と、まったく同じだった。
「でも……そのとき、りうらの声が聞こえたんだ」
「……」
「『だいじょうぶ』って」
ないこは俺の方を見た。
「夢の中で、りうらに助けられた気がした。だから……起きたとき、泣いてたけど、あったかかった」
俺は何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
たぶん――あいつも、俺と同じように。
“あの白い部屋”にいたんだ。
俺は光を嫌いになり、
あいつは光を知らないまま、そこを出てきた。
ふたりとも、どこかで“捨てられた子供”だったのかもしれない。
ある日、ないこが聞いた。
「りうらは、ほんとうの名前?」
「……ああ」
「いいな」
「なんで」
「ぼく、自分の名前、ほんとうは覚えてない」
やっぱり、そうだった。
ないこ――という名は、誰かに与えられたものじゃない。
自分で「名前がない」と言ったところから始まってる。
俺が初めて出会ったあの廃工場で、
あいつは「名前は?」と聞かれて、困った顔をして、そしてこう言った。
「ない、こ」
それがそのまま、名前になった。
「名前って、だれかに呼ばれるためにあるんだよね?」
「まあな」
「ぼく、今、りうらに呼ばれてるから、それでいい」
ないこはそう言って、少し笑った。
「でも、もし思い出して、ほんとうの名前が違ったら――」
言葉が途中で止まった。
風が吹いて、枯葉がブランコの下を転がった。
「もし、りうらといた記憶が、ぜんぶウソだったら、どうしよう」
俺は、即座に言った。
「ウソでもいい。お前が今、ここにいるのが本当なら、それでいい」
ないこは、目を見開いた。
「名前が変わったって、過去がどうだったって、今の“ないこ”を否定する奴がいたら、俺がぶっ飛ばす」
「……」
「だから、怖がんな」
ないこは、目に涙をためて、でも笑った。
あったかくて、でも少し泣き出しそうな笑顔。
「……ありがとう」
「バカ。お前はそればっかりだな」
「うん。でも、ほんとにありがとうって思ってるから」
家に帰った夜、ないこが言った。
「思い出すの、こわいけど……知りたいな、ほんとうの自分」
俺はうなずいた。
「知るってことは、痛みを伴うことだ。でも――」
「うん」
「それでも見たいって思えるのは、ちゃんと“生きてる”証拠だよ」
ないこは黙っていたけど、肩が少し震えていた。
俺はそっとあいつの肩に手を置いた。
「もし、全部思い出して、俺のことを忘れても……それでも俺は、お前のこと、覚えてるから」
ないこは、静かに涙をこぼした。
その涙は、光に照らされてきらめいて――でも俺は、その光を、少しだけ綺麗だと思った。
俺は光が嫌いだ。
でも、ないこの流す涙が光を受けて煌めくときだけは、
この世界が、少しだけ美しく見える。
それだけで、いいと思った。
第5話「ひかりを受け止める」
あれから、ないこは少しずつ外の世界に慣れた。
午前の光はまだ痛いけど、帽子とサングラスと、薄いサンシェード越しなら、短い時間なら大丈夫になった。
毎日ほんの少しずつだが「知らないものを知る」ことを続けた。
そのたびに、あいつは怯えた顔もした。
震えた声で「こわい」とも言った。
でも、やめたいとは言わなかった。
それが、俺は嬉しかったし――同時に怖かった。
光を知るってことは、世界を知るってことだ。
痛みも、孤独も、優しさも、全部まとめて。
「綺麗」で済ませられないものまで、全部。
俺はそれを憎んでた。
だから引きこもったし、世界を嫌った。
でも、ないこは違った。
痛みを抱えながらでも、世界を受け入れようとしていた。
それが、羨ましかった。
そして――俺には、できなかったことだった。
ある日の夜。
俺たちは久しぶりにコンビニに行った。
ないこはだいぶ歩けるようになったけど、夜道はまだ少し怖いみたいで、俺の袖をつまんで離さなかった。
その小さな手が、頼ってくれてるのが嬉しかった。
コンビニで冷たい飲み物を買った帰り道。
ないこがぽつりと言った。
「りうら」
「ん」
「おれ、思い出したかもしれない」
「……なにを?」
「白い部屋で、だれかが言ってた」
ないこは、少し顔を強張らせた。
でも、逃げなかった。
俺を見た。
「『光なんか、見なくていい』って」
俺は立ち止まった。
「その人、すごく悲しい声してた」
「……」
「泣きそうな声で、でも怒ったみたいに言ってた」
「……そいつが、お前を閉じ込めたのか」
「わかんない。でも……たぶん、守ろうとしたんだと思う」
ないこは小さく笑った。
泣きそうな顔で。
「光は痛いから。ぼくは弱いから。だから、見せないようにしたのかな」
「……」
「でも、寂しかった」
俺はその言葉を聞いて、胸が苦しかった。
あの白い部屋は、俺にとって地獄だった。
「光を見ろ」「普通になれ」
無理やり開かされ、泣き叫んでも止めてくれなかった。
俺はそれを憎んだ。
俺を閉じ込めた母親を、病院を、世界を全部。
でも――ないこの白い部屋は、俺と少し違った。
「光を見せない」ための部屋だった。
「痛い思いをさせない」ために閉じ込められた部屋。
守るつもりだった。
でも、それは結局、ないこを世界から切り離して、ひとりにした。
同じだった。
結局、同じだったんだ。
俺はないこの肩を掴んだ。
あいつはびっくりした顔をした。
「お前は……それでも光を見たいのか」
「……うん」
「痛いぞ」
「知ってる」
「怖いぞ」
「知ってる」
「……だったら、泣くな」
「うん、泣くよ」
「バカが」
「だって、りうらも泣くじゃん」
俺は、顔を歪めた。
ないこは、そっと俺の手を握った。
「りうら」
「なんだ」
「光、見せてくれてありがとう」
「……」
「痛いけど、きれいだった」
「……」
「りうらが一緒だったから、見られた」
「……俺は」
声が詰まった。
「俺は、お前にそんな思いさせたくなかった」
「してほしかった」
「バカが……!」
声が震えた。
涙が滲んだ。
ないこの手は冷たくて、でも少しだけあったかかった。
俺は言った。
「俺は、光が嫌いだ」
「知ってる」
「全部を勝手に暴くからだ」
「うん」
「優しいフリして、痛みを晒す」
「うん」
「でも、お前が見るなら、俺も見る」
ないこの目が大きく見開いた。
「お前が痛いなら、俺も一緒に痛い思いをする」
「りうら……」
「だから、勝手に一人で泣くな」
「……」
「泣きたきゃ、俺と一緒に泣け」
ないこは、声を殺して泣いた。
俺の胸に顔を押し付けて、震えて、泣いた。
俺も、堪えきれずに泣いた。
痛いくらいに抱きしめた。
何度も背中を撫でた。
帰り道、もう夜は深かった。
街灯の下、ないこの涙の跡が光っていた。
「りうら」
「ん」
「また朝日、見に行こう」
「馬鹿か」
「うん、バカだよ」
「お前、熱出すだろ」
「出してもいい」
「……」
「だって、きれいだから」
「……」
「りうらと見る光が、いちばんきれいだから」
俺は、負けた。
涙がまた溢れた。
数日後。
俺たちはまた朝日を見に行った。
準備をして、薬も用意して、帽子も被せた。
ないこは少し緊張した顔をしていた。
俺は心臓が痛かった。
でも、逃げなかった。
東の空が白んで、
世界がゆっくり色を取り戻していく。
ないこは目を細めて、その光を見た。
泣きそうな笑顔だった。
涙が頬を伝った。
でも、目を閉じなかった。
「きれいだね」
「痛いだろ」
「うん、いたい」
「バカが」
「りうらは?」
「……きれいだ」
「ほんと?」
「痛いけど、きれいだ」
ふたりで泣いた。
痛いけど、きれいだった。
世界は俺たちを傷つけた。
でも、それでも。
一緒に見る世界は、少しだけ優しかった。
帰り道、ないこが言った。
「りうら」
「ん」
「ぼく、名前、思い出せないままでいいや」
「……なんでだ」
「だって、りうらが呼んでくれるから」
「……」
「ないこって、呼んでくれるから」
「バカだなお前」
「うん。バカでいい」
「……俺もバカだ」
「うん、バカだね」
ふたりで笑った。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、笑った。
空はもう明るくて、俺にはまだ眩しすぎたけど――
それでも、俺は目を逸らさなかった。
ないこが見てるから。
一緒に見たいと思ったから。
光を知らないお前と、光が嫌いな俺。
どちらも間違いじゃない。
どちらも正しくもない。
ただ、同じ光を、同じ痛みを、同じ優しさを。
一緒に抱えて、生きていく。
それが、俺たちの答えだった。
作者あとがき
「光を知らない君と光が嫌いな俺」は、きっとどこにでもある話だと思うんですよ!
誰かが「普通」を押しつけて、痛い思いをさせること。
誰かを守ろうとして、逆に孤独にしてしまうこと。
それは特別なことじゃなくて、誰の中にもあることだと思う!
私自身も、光が嫌いな時期があった。
世界が眩しすぎて、他人の優しさが嘘に見えて、
「貴方のためだよ」なんて言葉が全部暴力みたいに感じて、
それならいっそ閉じ込められてた方がマシだと思ったこともあった。
でも、そんな私の手を引いた人がいた。
「痛いけど、見てほしい」って言われた。
泣きながら、無理やり光を見せられた。
痛かった。
本当に痛かった。
でも、その痛みを一緒に抱えてくれた。
一緒に泣いてくれた。
光は、優しいだけじゃない。
痛みも、影も、生々しい残酷さも全部暴く。
でもその分だけ、綺麗だと思える瞬間がある。
それを誰かと一緒に見ることができたら――
それはもう、奇跡みたいなものだと思う。
りうらは「嫌い」って言った。
ないこは「知らない」って言った。
ふたりはお互いを見つけて、同じ痛みを共有して、
一緒に泣けるようになった。
その先に、ちょっとだけでも「きれいだね」って言える光があった。
こんなにも不器用で、優しいふたりが、
本当に愛おしくて、
どうか幸せになってほしくて。
読んでくれたあなたにも、願う。
もし、世界が痛くて眩しすぎるなら、
もし、一人で抱え込んで泣きそうな夜があるなら、
誰かと同じ光を、同じ痛みを、一緒に抱えられますように。
一緒に「痛いね」って言えますように。
一緒に「きれいだね」って泣けますように。
最後まで読んでくれて、本当にありがとうございます!
あなたの大切な光が、優しくありますように。
――雨宮凛音より
コメント
2件
すごい素敵... 特に最後にメッセージをつけてる部分とかめっちゃいいじゃん!