コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
引っ越し初日の夜って、もっと達成感あるもんだと思ってた。
段ボールの山に囲まれながら、俺は床にぺたんと座ってコンビニの袋を開ける。サラダチキン、カップ味噌汁、パックごはん。健康意識高いようで全然ときめかないラインナップだ。
しかも、お湯沸かすのすら面倒で、ポットもまだ箱の中。仕方なく冷たいままの味噌汁をすすって、思わず顔をしかめた。
「……引っ越し祝いがこれかよ」
独り言が、やけに部屋に響く。
新しい職場、新しい街、そしてこの新しいマンション。全部、自分で選んだはずだった。
今の会社は待遇も悪くないし、上司もまとも。営業成績だってそこそこいい。
でも、なんでだろう。誰とも話さなかった今日は、やけに長かった気がする。
夜の静けさがやけに耳にしみて、思わずスマホを手に取る。でも通知はゼロ。そっと伏せて、ため息をついた。
朝はギリギリまで寝て、コンビニのコーヒーを片手に出社。
終業時間なんてあってないようなもんで、帰ってくる頃にはすっかり空も暗い。
「……ふー、疲れた」
靴を脱ぐのも面倒で、そのまま玄関の床に座り込む。スーツのまま床に倒れこみたい気分だったけど、なんとか自分を叩き起こしてシャワーへ向かう。流れるお湯の音すらうるさく感じるのは、きっと心に余裕がないせいだろう。
最近はずっとこんな調子だ。
会社じゃそれなりに笑って、営業トークもそつなくこなしてる。でも、誰かと深く話すことなんてないし、「じゃあ、また明日」なんて軽い挨拶で、毎日が終わっていく。
悪くはない。だけど、満たされもしない。
ソファの代わりに今はキャンプ用の折りたたみチェアを使ってるけど、そこに座る気力すらなくて、気がつけば無意識にベランダのドアを開けていた。
ひんやりした風が顔をなでる。
街の喧騒も、車の音も、ここまで来ると少しだけ遠く感じる。夜の都会は、どこか透明で、ひとりぼっちにはやさしい。
「あー……なんか、全部投げ出したい」
ぽつりとつぶやいて、手すりに肘をついた。下を見下ろすと、煌々と光るコンビニの看板。あそこの唐揚げ、意外とうまいんだよな……なんて、どうでもいいことを考える。
何かが足りない。でも、何が欲しいのかもわからない。
そういう夜ばかり、最近増えてる気がする。
風が少しだけ強くなってきた気がする。
コンビニの袋が道路の隅でカラカラと転がっていくのをぼんやり眺めていた、その時だった。
「こんばんは」
……声?
肩がびくりと跳ねた。ベランダの柵越し、斜め隣。うちと似た間取りのはずの、隣の部屋のベランダに人影があった。
「……あ、こんばんは」
とっさに返したものの、内心はかなり驚いていた。声の主は、黒いパーカーのフードをかぶった男。街灯に照らされた横顔は整っていて、どこか涼しげな目元が印象的だった。
「引っ越してきたばっかり、ですよね?」
「あ、はい。今週……というか、昨日からです」
彼は小さくうなずくと、ベランダの柵にもたれかかるようにして、夜空を見上げた。
「夜風、気持ちいいですよね。ここ、意外と静かで」
「……ですね。駅近のわりには、けっこう落ち着いてるというか」
少しの間、言葉が止まる。けれど気まずさは不思議と感じなかった。むしろ、この人と話すのは妙に心地がいい。何も知らないのに、どこか前から知っているような──そんな錯覚すら覚える。
「お仕事、お疲れさまです」
「……ああ、ありがとうございます。隣の人に労われたの、初めてかも」
思わず笑ってしまって、相手も少しだけ口元を緩めた。フードの影で表情まではよく見えなかったけど、声だけでなんとなく伝わってくる優しさがあった。
「じゃ、また」
それだけ言って、彼はすっと部屋の中へと戻っていった。
残された風だけが、まだそこにいるようにゆらゆらと揺れていた。
──なんか、今の。夢みたいだったな。
それから数日、俺は気づけば、夜になるとベランダに出るようになっていた。
理由は……まあ、なんとなく、だ。
強いて言えば、あの人がまた声をかけてくれるかもしれない、なんて。
「こんばんは」
予感は、案外当たる。
「……こんばんは。また風、気持ちいいですね」
「昨日よりちょっと湿気あるけど、まあ、許せる範囲かな」
今日はお互い、コンビニの缶コーヒー片手だった。並んでるわけでもないのに、なんとなく似た空気を吸ってるのが不思議だった。
いつの間にか、こんなやりとりが当たり前になっていた。
最初はぎこちない雑談だったけど、今はもう少しだけ、自然に言葉を交わせる。天気の話、スーパーの品揃え、近くの公園に猫がいたこと──くだらないようで、妙に記憶に残る。
「仕事、今日は早めだったんですね」
「はい。珍しく定時に上がれたんで。って言っても、明日の資料家でやるんですけどね」
「真面目ですね」
「真面目じゃないと、営業なんてやってらんないっすよ」
俺がそう言って苦笑すると、彼はふっと声を漏らして笑った。やっぱり、ちゃんと笑うと印象が違う。優しげで、ちょっとだけ寂しそうで。
ふと、こっちからも何か聞いてみたくなった。
「……いつも、夜にしか会いませんね。お仕事、夜勤とかですか?」
その瞬間、彼の目がほんの少しだけ見開かれた気がした。でも、それはほんの一瞬のことで。
「まあ、そんな感じです」
曖昧な返事に、それ以上は聞けなかった。
名前も、仕事も、住んでる部屋番号すら知らない人。だけど、こうしてベランダ越しに交わす雑談が、最近の中でいちばん人間らしい時間かもしれないと思う。
なんでだろう。
……ちょっと、楽しい。
―――――――その朝は少し寝坊して、スーツに腕を通しながら片手でパンをかじっていた。
時間ギリギリ。エレベーターの閉まる音が遠くで聞こえて、焦って靴を履く。
ドアを開け、慌ただしく廊下に出たとき。ふと、隣の部屋の扉が目に入った。
──今まで気にしたことなかった。
けど、なんとなく。ほんの気まぐれで、扉の横にある小さな表札を見た。
「宮舘」
きれいな字体だった。無機質なプレートに、凛とした文字が浮かんでいる。
その名前を目でなぞるように読みながら、俺は心の中で小さくつぶやいた。
「……宮舘さん、か」
昨日まで“隣の人”だった存在に、名前がついただけで、妙に距離が縮まったような気がした。
それだけのことなのに、少しだけ胸がざわついて、意味もなく背筋を伸ばして歩き出す。
会社へ向かういつもの通勤路が、今日はほんの少しだけ違って見えた。
いつの間にか、夜にベランダへ出るのが習慣になっていた。
帰ってきてシャワーを浴び、適当に何かを食べたあと、缶ビールやコーヒーを片手にベランダのドアを開ける。そうすると、少し遅れて「こんばんは」が聞こえてくる。
もはや、日課だ。俺にとっては──たぶん、癒しの時間。
「今日は雨降らなくてよかったっすね。傘、忘れて会社出ちゃってたんで焦りましたよ」
「ここ、意外と天気ずれますもんね。予報あんまり当てにならない」
「ですよね〜。それにしても、宮舘さんってほんと夜型ですね。昼間まっっったく見かけないんですけど」
となりのベランダにいる宮舘さんは、柵にもたれかかるようにして空を見ていた。フードはかぶってないけど、髪が風にゆれて、表情は相変わらず穏やかでよく見えない。
ちょっとした思いつきで、俺は冗談めかして言ってみた。
「もしかして……吸血鬼とかだったりして?」
自分で言っておきながら、笑いながら缶ビールをあおる。
けど。
宮舘さんは、何も言わなかった。
ふいに、こっちを見て──そして、静かに微笑んだ。
口角がほんの少しだけ上がる、あいまいな笑み。その表情に、どこか“肯定”にも“否定”にもとれる曖昧さがあって、俺は少しだけ背筋がぞくりとした。
「……冗談、ですよ?」
そう言って笑ってみせたけど、宮舘さんはそのまま視線を夜空に戻した。
「……ふふ。そうかもね」
夜風が、ひときわ冷たく感じたのは──きっと気のせいじゃない。
―――――――――
晩ごはんを作ろうとして、慣れない包丁でミニトマトを切ったのが間違いだった。
小さなトマトに手間取っているうちに、刃先が自分の指にあたって、ちくりと痛みが走る。
「あ……」
じんわりと赤いものがにじみ出たけど、面倒くさくてティッシュを巻いただけ。
どうせすぐ止まるだろうと思ってそのままにしていたら、地味にずっと血がにじんでいる。
「……まあいっか」
手の甲を軽くぬぐいながら、いつものようにベランダへ出る。
いつもと同じ時間、いつもと同じ風。
そして、少しだけ遅れて──隣から気配がする。
「こんばんは」
声をかけられ、顔を向けたその瞬間だった。
宮舘さんの視線が、まっすぐ俺の“手”に向けられていた。
その視線に引かれて自分も見下ろすと、さっきの傷から、また少し血が滲んでいるのがわかった。ティッシュもすぐ取れちゃったんだろう。乾く前にベランダの風でまた出てきたらしい。
「……ああ、これ。さっき、包丁でちょっと」
なんてことない説明を添えるつもりだったけど、宮舘さんの表情を見て、言葉が止まる。
目が、見開かれていた。
それまでいつも穏やかで、涼しげで、どこか他人ごとのような眼差しだったその瞳が。
今は、なぜか異様なほどに強く、赤い血を──いや、“俺の血”を、凝視している。
「……宮舘さん?」
声をかけると、彼ははっとしたように顔を背けた。
「……すみません。ちょっと……驚いただけ」
その声は震えてはいなかったけど、どこか抑えているように聞こえた。
静かな夜風が、今夜はなんだか妙に冷たい。
――――――――――
眠りに落ちる直前まで、なぜか胸がざわついていた。
包丁で切った指先がじんわりと熱を持っていて、心臓の鼓動がいつもより早い。
あのときの宮舘さんの目が、ずっと頭に焼きついて離れなかった。
──まるで、獣みたいだった。
そして、夢が始まる。
部屋は薄暗い。見慣れたはずの自分の部屋なのに、空気がどこか湿っていて、夜の深い静けさが張り詰めている。
背後に、気配を感じた。
振り返る前に、誰かの指がそっと、自分の手に触れた。
「……血の匂いが、まだ残ってる」
声は低く、息を這わせるように耳にかかる。
振り返れない。けれど、その声は、もう知っていた。
宮舘さん。
体が動かないのに、拒む気持ちはどこにもなかった。
その手が、指先から手首へ。手首から腕へ。なぞるようにゆっくりと、熱を移してくる。
「ほんの少し、だけ……許して」
そうささやかれて、次の瞬間。
首筋に、やわらかく唇が触れた。
その感触はキスのようで、それよりも深く。
肌をなぞる舌の熱さに、思わず喉が震える。
そして──小さく、鋭い痛み。
カチリと、皮膚の奥で何かが噛み合わさる音がした気がした。
でも、それよりも。
吸い込まれていく血の感覚。
それがまるで、愛撫されているかのようで。
ふわりと熱が全身に広がっていく。指先がじんわりと痺れて、脚が力を失う。
息がうまく吸えない。けれど、苦しくはない。むしろ、溺れるような心地よさに、身をゆだねてしまいそうになる。
「……綺麗な味だ」
首筋に残された唇が、名残惜しそうに囁いた。
その声に返事をしようとした瞬間──
ぱちん、と。
現実の天井が、目の前に広がっていた。
──夢、だよな……?
乱れた呼吸と、じんと熱い首筋の感覚だけが、妙にリアルで。
枕元の空気に、かすかにあの人の香りが残っているような気がして、俺はしばらくそのまま動けずにいた。
――――――――――――
朝、目が覚めた瞬間──まだ心臓が、どくどくと早く打っていた。
悪夢だったのか、それとも……と考える前に、全身が微妙にだるい。疲れているような、熱があるような。けど、熱を測っても平熱だった。
「……なんだ、これ」
起き上がって、ふと自分の服に目をやる。
シャツのボタンが、ひとつ外れていた。自分で外した記憶はない。寝相が悪かったのかとも思ったけど、首元だけ妙に乱れているのが気になった。
なんとなく、重い足取りで洗面所に向かう。
顔を洗って、鏡を覗き込んだときだった。
──そこに映った自分の首に、見覚えのない跡がついていた。
「……え?」
肌の白さの上に、うっすらと赤黒い色。爪の痕のような、でもそうじゃない。
唇で吸われたような、熱を帯びた痕。
思わず指でなぞる。でも痛みはなくて、ただ、じんわりと熱い。
「まさか、夢……じゃなかった?」
いや、でもそんなはずはない。昨日は誰とも会っていない。家を出たのはコンビニだけ。
なのに、なぜこんな場所に──誰が、どうやって?
……宮舘さんの顔が、頭をよぎった。
無言で笑った、あの夜の視線。血を見て見開かれた目。
そして──夢の中で、確かに首筋に感じた、あの唇の感触。
「……いや、ないないない。ありえない」
そう口に出して、なんとか打ち消そうとする。でも、目をそらした鏡の奥にはまだ、くっきりとその痕が残っていた。
シャツの襟を立てて、無理やり隠す。会社に遅れるわけにはいかない。
でも、歩き出した足取りは、いつもより確実に重かった。
胸の奥に、確かに残っている。あの夢の感触と、名前を呼ばれた気がした声。
──俺、今……何かに踏み込んだんじゃないか?
あの朝を境に、俺はベランダに出るのをやめた。
──怖かった。
夢だったはずの感触。首筋に残った赤い跡。自分では絶対にやっていない、外されたボタン。
全部が夢にしてはリアルすぎた。
そして、宮舘さんのあの目。血を見たときの、まるで飢えた獣のような、あの目が頭から離れなかった。
あれから四日。毎晩、俺はカーテンをぴったりと閉めた。ベランダの方を見ないようにして、なるべく早く寝るようにした。
……けど、その代償のように始まった。
毎晩のように、鈍い頭痛が襲ってくる。
最初は仕事の疲れかと思った。でも、薬を飲んでも治らない。むしろ、夜になるほど痛みが増す。まるで、何かに締めつけられているような、じわじわと頭の奥から響く痛み。
それと一緒に、決まって“映像”が浮かぶようになった。
──水面のように揺れる暗がりの中で、誰かの手が自分の頬に触れている。
──名前を呼ばれる。けれど、その声はくぐもっていてよく聞き取れない。
──赤く染まった唇。微笑。喉元に迫る、冷たい感触。
目を閉じると、それが何度も流れる。思い出そうとすればするほど、ノイズのようにブツブツと途切れて、余計に脳が圧迫される。
「……なんなんだよ、これ……っ」
ソファに倒れこむようにして、目を覆う。呼吸は浅く、喉の奥が妙に渇いている。
ベランダのカーテンの向こうから、夜の風の気配がする。
──なぜか、それが呼んでいるように感じた。
ベランダに出なかった代わりに、なぜか“出なきゃいけない気がする”という衝動が、日に日に強くなっていく。
夜になると、胸の奥がざわざわと落ち着かなくなる。
ベランダには出ない。出ないようにしてる。
カーテンは閉めたまま。視界の端に入らないよう、意識して背を向けている。
けれど。
そのたびに、あの映像が浮かぶ。
赤い唇。首に這うような声。冷たいのに熱い、肌の感触。
夢だったはずの記憶が、眠っていない時にも浮かんでくる。
まるで夢の方から、現実に染み出してきてるように。
頭痛はもう痛みというより圧迫感で、後頭部から背骨の奥を押し上げてくるみたいだった。
「……くそ」
舌打ちと一緒に、俺はゆっくりと立ち上がった。
足取りは重くて、体のどこかが「やめろ」と訴えていた。
なのに──足は勝手にカーテンへと向かっていた。
手が、カーテンの隙間に触れる。布の感触が妙に冷たい。
ゆっくりと、それを引いた。
夜の風が、ふわりと流れ込んできた。
そこには、暗いベランダと、静かな夜の空気。
灯りを落とした街。遠くの車の音。誰かの笑い声。
どれもいつも通りで、安心するはずだったのに。
──何かが、待っている気がした。
足が、すうっと外に出る。ベランダに出るのは、本当に久しぶりだった。
冷えた空気が肌をなでると、首筋のあの“痕”がひりりと疼いた気がした。
「……なにやってんだ、俺」
小さくつぶやいた声が、夜に溶けていく。
何もいない。ただのベランダ。ただの夜風。
なのに。
誰かの視線を、感じた。
視線の先、斜め隣のベランダには──まだ誰もいない。
それでも俺は、言葉をのどまで出しかけていた。
「……宮舘さん」
その名前を、たしかに呼んだ瞬間。
夜が、少しだけ、動いた気がした。
「……宮舘さん」
その名を呼んだ瞬間、空気がわずかに揺れた気がした。
風が止まった。
さっきまで静かだった夜の気配が、ふっと変わった。
そして──俺の目の前に、音もなく“彼”が立っていた。
「……っ」
息が詰まる。
確かに、そこにいた。隣のベランダじゃない。柵越しでもない。
俺の、ほんの数歩前。ベランダの、薄明かりの下。
フードもかぶっていない。
夜に溶けるような黒い服をまとって、静かに、俺を見つめている。
その目を見た瞬間──
頭の奥で、何かがほどける音がした。
ずっと閉じ込めていた、記憶の箱が軋むように開いていく。
──笑っていた。小さな俺の手を引いて、夜の公園を走っていた人。
──指切りをした。秘密を分け合って、絶対に忘れないって誓った。
──それなのに、ある日突然、姿を消した。
──「涼太……?」
名前が、喉の奥からこぼれ落ちた。
ずっと忘れてた。いや、忘れさせられていた。
幼いころ、大好きだった人。どこか人間離れしたその存在に、怖いと同時に惹かれていた記憶。
「やっと、思い出してくれたんだね」
宮舘さん──いや、涼太は、静かに笑った。
その声も、記憶の中のままだった。
やさしいのに、どこか寂しげで。遠くから聞こえるような、不思議な響きをしていた。
「どうして……俺、全部……」
「思い出さなくていいって、思ってた。……でも、君が“呼んだ”から」
呼んだ……俺が?
頭が混乱して、息が乱れて、足元がふらついた。
けれど、涼太がすっと手を伸ばして、俺の手を取った。
その手の温度が、夢の中で感じたそれと同じだったことで──
今、確かにすべてが繋がった。
俺は、知ってる。
涼太のことを。
この夜の匂いを。
血の熱を。
そして──“彼の寂しさ”を。
涼太の手を取ったまま、俺は言葉を探していた。
ずっと忘れていた記憶が、頭の奥でゆっくりとほどけていく。
子どもの頃、俺には毎晩のように会いに来てくれる“涼太”がいた。
両親には「空想の友達だろ」って言われてた。でも俺にとっては確かに存在していて、暗い夜道が怖くないのも、ひとりで眠れたのも、ぜんぶ“涼太”のおかげだった。
──でも、ある日を境に彼は忽然と姿を消した。
どれだけ呼んでも来てくれなくて、毎晩泣いて、やがて……忘れた。
いや、忘れさせられたんだ。
「……あのとき、なんでいなくなったの?」
俺の問いに、涼太は少しだけ目を伏せた。
「契約を、破ったからだよ」
「契約……?」
涼太は静かに、でもどこか覚悟を込めて語り始めた。
──吸血鬼には“縛り”がある。
人間と深く関わりすぎてはいけない。特に、“未契約の子ども”と過ごすことは、強い影響を及ぼしてしまう。
涼太は、幼かった俺の“血”と“感情”に惹かれすぎた。夜な夜な会いに行き、手を取り、話を聞いて、泣けば抱きしめていた。
そしてある晩、俺が「大人になったらずっと一緒にいて」と言ったその言葉に──
吸血鬼としての理性を越えて、“契約の予兆”が結ばれてしまった。
「子どもと契約はできない。だから……俺は罰を受けたんだ」
それは、記憶の封印と、存在の消去。
俺の中から“涼太”という記憶は消され、彼自身も長い眠りにつかされた。
──けれど。
再び目覚めたのは、“俺の血”に引かれたから。
あの日、包丁で切った小さな傷口。にじんだ血の匂いが、すべてを引き寄せた。
「……君が、呼んだんだよ。無意識でも、深く繋がっていたから」
言葉を失った俺に、涼太はゆっくりと顔を寄せる。
「再会には、代償がある」
「……代償?」
「一度目の“契約”は破棄された。でも、今回君が望めば──正式に結べる。ただし、その先にあるのは……人間としての時間の終わり」
「…………」
吸血鬼との契約。それは、血を分け合い、魂を結ぶこと。
契約が成立すれば、俺の命は彼の一部になる。
時間の流れは歪み、人としての“普通の人生”からは離れる。
もう、今まで通りの生活には戻れない。
「それでも、俺を……忘れたくないと思った?」
問いかける涼太の目は、優しくて、どこまでも寂しかった。
俺の胸の奥に、子どものころの約束がよみがえる。
──「ずっと一緒にいてね」
──「大人になっても、俺のこと忘れないでね」
あのときの俺は、それを本気で願っていた。
そして今──それを、叶えるかどうかを問われている。
夜の風が、静かにふたりの間を通り抜けた。
続きはnoteかBOOTHで作者名『木結』(雪だるまのアイコン)で検索して下さい。
noteからBOOTHへ飛べます☆