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僕はピアノを習っていたのだが、周りからも褒め称えられ続けてきた僕は、その根拠だけで簡単に、確実に僕はピアノの実力を持っていると思っていた。
それでもそれが本当の結果じゃないことを知る機会というのは、一歩ずつ着実に近づく。
新しいピアノ教室に入った僕は、突然と同じ年齢の他校の女の子が現れ、抗う前になんとも僕でさえ心を感動に包まれてしまうくらい、ピアノの実力を見せつけられた。
譜読みも早ければ、ミスタッチもない。基礎がしっかりとしていて、ピアノのプロの世界で求められる優しいけれど芯がある音色を完全に自分のものにしていた。
あぁ、こういうのが本当の実力者かと思い自分に過度に失望した。
そこからピアノのことは嫌いになって、触れる機会がどんどん少なくなっていた。
けれども、中学校に入ったタイミングで僕は新しいお友達と出会った。
その友達は、僕のことを興味津々に聞いてきた。
めんどくさがる表情のひとかけらもなくたくさんのことを聞いてくる彼に僕は疑いもせずにどんなことも話した。
少しずつ彼の表情は明るくなっていった。
元々明るかったのだが、僕が彼と同じく漫画や多くのジャンルの音楽を好んで聞いていることを知っていくたびに、共感を含めて、喜んでいったからだろう。
もちろん彼は小学校でも人気者だったのだろうなと思った。
でも僕は一つ一つ彼の喜んだ表情を見たいと思うたびに嘘をついた。
知らない漫画のことも、知らない音楽のことも、知っているふりをして、好きなふりをしていった。
特に自分自身に大きなメリットが今考えればなくて、デメリットの方が大きいはずなのに、やっぱり楽しかったのだろう。
新しい人と仲良くなれるという感覚が、可能性が。
楽しさは論理性を簡単に超える。
判断力を簡単に低下させる。
楽しいという感情は、それくらい大きな力を持っているんだ。
強いな、とふと思った。
どんなに頭のいいやつでも、楽しい感情が芽生えていけばいくほどに、自分の感じた快感を根拠にし、判断していく。
いつもと違う論理性のない判断は簡単だから、頭のいい奴ほどプラスで楽しく感じてしまうだろうな。
だから僕もこれからは楽しいという感情に下手に騙されず、自分の身を預けすぎずに生きて行こうと決心した。
そんなことは今思いついたことであって、実際彼と初めて会話を交わした中学一年生の入学式の時では、楽しいにそんな感情なんて抱いていなかった。
だから僕は楽しくて、彼にピアノができるだけの事実を、ピアノが大好きで得意だという偽りをかけて話してしまったんだ。
楽しいと感じて会話をしている時は、その言葉に大きな嘘や相違点はないと感じるものだが、楽しいという武器が剥がれてしまった時、その言葉は後の自分を大きく苦しめる、大きな嘘であることに気づく。
今度聞かせてねと言われても、素直にうなづいてしまう。
否定するべきかなという選択肢が微かに頭に浮かんでくるものの、楽しさを早く多く感じたくて、後でやればいいという考えに行き着いてしまう。
どうにかなるという考えが、頭の中に浮かんで否定できなくなってしまう。
そんな僕は、入学式直後に彼とラインを交換した。
すぐに遊ぶ日を決めて、彼の家にはピアノがあるということから、二日後に彼の家のピアノで彼の好きな曲を弾くという約束を立ててしまった。
僕はその時、それがそんなに大きな壁だとは思わなかった。
楽しみだという心に胸を踊らされ、家に帰っても素敵な友達ができたことを、すぐに家族に報告した。
彼にとって僕はなんてことない人間なんだろうなとか、人間不信な僕の心はまだ芽生えていなかった。
発言すること自体が自分を苦しめる選択肢だということもまだ知らなかった。
もちろん、発言すればするほど自分が苦しくなるという活用も。
楽しさに大きく支配されていたのだ。
次の日には、彼にピアノを聴かせる前日になっていた。
僕の家は遊ぶ予定が決まったらすぐに報告するというルールなのだが、不思議と存在する気恥ずかしさのせいで、まだ明日彼と遊ぶことを報告できていなかった。
最悪遊ぶ直前に連絡を入れれば、突如決まったことだということになってどうにかなると思った。
やらない選択肢が僕の中には確かにあったから、やらなかった。
こういう時に僕は思う。
判断力って本当に大切な力だと。
僕は判断力を向上させたい。
そのために今もこんな過去のことを分析しているのだが。
彼に披露する曲は、幸いにも僕の知っている曲で、僕は知っている曲は耳で聞いてすぐに弾けるタイプの人間だったため、今練習すれば当然間に合う。
だからこそ僕は練習しなかったのだ。
やらない選択肢がある、じゃあ今を楽しくするためにやらない方の選択肢を選ぼう、と。実質今なら思う。
やらない選択肢というのはまともな選択肢じゃないんだよ、と。
今僕の前にやるかやらないか迷う出来事が発生したとして、よく考えればやらない選択肢を作ることができる、程度の選択肢があるのだとしたら絶対に選ばないと思う。
無理にでも絞り出したやらない選択肢を選ぶだなんてリスキーなことを僕はもうしない。
学んだからね。
流石に僕も、数年前の自分と今の自分を比べたら満足する。
満足するほど成長できていたから。
僕のこの他人と比べてしまうことや、頻繁に人の価値を図ろうとしてしまうことを治すには、すべてにおいて成長スピードを上げる、いわゆる努力量を増やすことしか考えつかない。
本当は他にもっといい策があるような気もする。
例えば、自己肯定感を上げること。
だけど、それもそれでハードルが高い。
頭でわかっていても、それを実際に起きた時に思い出すとか、実際に行動に移すとか、そんな、難しいことは僕にはできない。
わかっていくだけで、できない。
できるようになりたい、早くできるようにならないといけないと思えば思うほど、それを叶えるには心の安定が必要なんだと突っ込みたくなる。
この思考の繰り返ししかできていないことに案外驚いた。
驚きと同時に少し悲しくなった。
とりあえず僕は、いろいろなことを考えながらも、1番に努力しなくちゃいけないことは心の安定を手に入れる方法だと気づけたんだ。
そのために頑張らないとな、そう思う頃には僕が走りのタイム測定で抱いた苦しみや憎しみ、妬みなんて忘れていたと思う。