「……それでね?佐久間は「どうこうする気がない」って言うの!どう思う?」
「んー…しょっぴーもおんなじようなこと言ってたな。二人がそれで良いなら良いとは思うけど…」
「でも気になるよ…だって、二人ともお互いのこと好きなんだよ!?勿体無いじゃん!!」
「まぁね。二人が幸せになってくれたらとは思うけど、その展開を二人は望んでないんでしょ?」
「俺には怖がってるようにしか見えないよ…。勇気出して、お互いのことちゃんと見つめ合ったら絶対うまく行くのに…」
「俺が亮平だけを見つめてたみたいに?」
「っ…!そ、そうだね…っ…」
「ふは、照れた…?」
「不意打ちされたらそりゃあ照れるよ…もう…」
「可愛い」
「そんなこと言うの、蓮だけだよ」
「そうかな?亮平は可愛いよ。みんなそう言うでしょ?」
「俺はそう思ったことないんだけどね…ふぁぁ…っ」
「ねむい?」
「うん…最近ずっと朝早かったから」
「じゃあもう寝な?ゆっくり休んで」
「ありがとう。蓮はもうすぐお家着く?」
「うん、あと一時間くらいかな」
「ごめんね、疲れてるのに付き合ってくれて」
「ううん。移動中は退屈だから、亮平の声聞けて嬉しかった」
「俺も。じゃあ、おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
スマホの通話終了ボタンを押して、電話を切った。
洗面所で歯を磨きながら、蓮と話していた内容をもう一度振り返る。
ゲストとして呼んでいただいたバラエティー番組の収録後、一緒に出演していた佐久間との帰り際にした会話が、俺の心をずっと悶々とした気持ちにさせていた。
少し前から、佐久間が翔太に片想いをしていることには気付いていた。
気付いてしまった以上は見て見ぬ振りもできなかったし、その時は少しの野次馬意識のようなものもあってで、軽率に佐久間を飲みに誘った。
酔えば口を割るだろうと、なかなか狡いやり方ではあったが、「吐け」という言葉と共に、佐久間の前に大きなジョッキビールを突き出した。
案の定、佐久間はたった三度ビールを煽っただけでその口を軽くした。
きっと佐久間は覚えていないだろうが、あいつの心の中は、それはそれは深かった。
「なにが」と改めて明言するまでもない。
その言葉、その表情から、「翔太が好き」ということが痛いくらいに伝わってきた。
「ご飯誘ってみたら?」と伝えてみたが、今日に至るまで、佐久間が俺の提案を実行したことはない。
なんなら、二人きりになることすら避けている節がある。
それでは何も前には進みやしない。
そうは思っても、俺が二人の間に足を踏み入れることも、なんだかおかしいような気がしていた。
歯痒かった。
いつだったか、蓮からもその手の話を聞いた。
俺の家に泊まりに来てくれた時に、蓮はとても言いづらそうにポソポソと、俺にその苦しげな胸の内を明かしてくれた。
「ねぇ、亮平…、しょっぴーと佐久間くんってさ…、なんかあったのかな…」
蓮は続けて、「しょっぴーはね、きっと、佐久間くんのことが好きなんだと思うんだ」と言った。
よく翔太と一緒にいる蓮も、あの二人を見て何かしら感じ取るものがあったのだろう。
「どうしてそう思うの?」と尋ねると、蓮はゆっくりと思っていることを話してくれた。
「佐久間くんはなんでかしょっぴーを避けてるし、しょっぴーも佐久間くんに近付かないようにしてる気がするっていうか…上手く言えないけど、好きなのに全部諦めちゃってるって感じがするんだよね…」
翔太から直接話を聞いたことは無かったけれど、蓮がそう言うならあながち間違いではないだろうと思った。
佐久間も翔太も、どっちもどっちだった。
いい大人が、いつまで両片想いを拗らせているんだか。
怖がらずに、自分の気持ちと向き合えばいいのに。
こうして何もしないでいるうちに、取り戻せなくなってしまう何かがあるかもしれないのに。
いつまでも待っていたら、いくらでもあると思っていたはずの「明日」が急に無くなってしまう日が来るかもしれないのに。
そんなもどかしさを募らせるのは、俺と蓮ばかりだった。
どうしても二人のことが気になってしまって、俺は、隙あらば蓮と二人だけの空間の中でその話ばかりしていた。
申し訳ないとは思うが、蓮はいつも嫌な顔一つせず、聞き飽きたような声も出さず、解決の兆しが全くもって見えない堂々巡りの俺の話をずっと聞いてくれていた。
俺が佐久間の秘密に気付くずっと前から、俺と蓮は、所謂「恋人」という関係にある。
俺だけをずっと見つめてくれていた蓮に、気付けば俺も惹かれていた。
そんなありきたりな、どこにでもあるような始まり方ではあったが、俺は毎日、とても幸せだった。
蓮は、どんなに疲れていても、俺と共有する時間を大切にしてくれる。
俺を尊重してくれる。
深くて優しい愛情で俺を包み込んでくれる。
生来の恵まれた顔つきのおかげなのか、蓮はいつでも自信に満ちている。
僻む気持ちは抱かない。誰かを妬んだり、何かに執着したりもしない。
そんなすっきりとした蓮の性格は、俺との関係にも如実に表れていると思う。
俺を深く愛してくれるけど、束縛したりはしない。
俺をまるで宝物のように大切にしてくれるけど、依存したりはし ない。
それに不満を抱いたことはない。
むしろ心地良い。
変に気を遣ったり、無理をしたりなんて、そんなことは一度も無かった。
蓮の前にいると、俺は俺のままでいられる。
考え事をしながら寝る支度を進めていく。
何か一つ体を動かすたびに、大きな欠伸が出た。
この前の休みはいつだったか、なんて朧げな記憶を辿りながら、ベッドに体を沈めた。
明日は久々の休みである。
たまには朝寝坊してみよう、そう思いながら、俺は毛布にくるまった瞬間に閉じていく瞼を素直に受け入れた。
見覚えのないどこかの草原の上を歩いている感覚で、今俺は夢を見ているんだと気付いた。
目の前に広がる湖の上には、金色に輝く大きな月が反射していた。
夜空を見上げながら歩く俺のあとに付いてくる足音に振り返る。
夢と認識して間もない視界では、それが誰なのか、面影がぼやけていてよく分からない。しかし、その声には聞き覚えがあった。
「亮平、どこまで行くの?」
蓮…?と瞬時に思う。
蓮の声を耳にした瞬間、「喜び」のような感覚が体中にさわさわと波立っていった。
夢の中でも、蓮と特別であれることが嬉しかった。
俺の心を置き去りにした状態で、この口は勝手に言葉を紡いでいく。
「もう少し遠くまで行ってみよう?もっと近くで見たいの」
どうやら俺は、その深い森の中へ入り、その先にあるであろう「もっと近くで」星を見られる場所に行きたがっているらしかった。
ここがどこなのかは分からないが、心の中で「あまり遠くへは行かない方がいいんじゃない?」と思う。 しかし、そんな俺の思考に反して、この体はぐんぐんと前に進んでいく。
木々のさざめく音だけが響く。
蓮の声が聞こえなくなった。
はぐれてしまったのかもしれない。
俺の体は少し怖さを感じて、来た道を引き返そうとする。
すると、近くで小枝を踏むパキッという音が聞こえた。
「蓮…?」
振り返ったと同時に、俺の目の前が真っ赤に染まった。
急速に遠のいて行く意識に引き摺られるようにして、この身にしっかりと感じる暇もないまま、俺の体の中を駆け巡った強い痛みはどこかへ消えていった。
蓮が悲しんでいる声が聞こえる。
その目から星の如く輝く涙がこぼれ落ちていくのを感じる。
どうして泣いてるの?
何が悲しいの?
教えて欲しいけれど、俺の声は届かないような気がしていた。
慰めてあげたい。
拭ってあげたい。
でも、触れられない。
ならせめて、その悲しみを一つ残らず取り去ってあげたい。
蓮の苦しそうな嗚咽の近くで優しい雨の音がする。
この雨が、蓮が泣いてしまうほどの耐え難い悲しみと寂しさを、綺麗に消してくれたら…。
誰か、どうか。
どうか、全てを洗い流してくれる雨を蓮に降らせて。
「…ター、マスター、起きてください」
「ん…ぁ、、、ぇ…………おれ……………?」
馴染み深い声に揺り起こされて目を開けると、目の前には俺を覗き込む「俺」の顔があった。
ふざけてはいない。
本当に、今俺の眼前には俺にそっくりな…いや、俺と全く同じ顔をした人がいた。
「ドッペルゲンガーって本当にいるんだなぁ」とぼんやりした頭で考えていると、その子は俺に向かって「そんな浅いものじゃないですよ」と言った。
心を読まれたことに驚いて目を丸くしながら、俺はその子に質問の限りを尽くした。
「ここはどこなの?」
「あなたが一番好きな場所」
「君は誰なの?名前は?」
「名前はありません 」
「どうして俺と同じ顔をしてるの?」
「あなたが、僕を産んでくれたから」
「マスターって俺のこと…?」
「えぇ、あなたが僕の体と核を創ってくれた。だから、あなたは僕のマスター」
「俺はどうしてここにいるの?」
「あなたが生まれ変わったから」
「何に?」
「月の概念に」
…
……
………
…なるほど。さっぱり分からない。
その子は俺の質問に答えてくれているようでもあり、ふんわりとした言葉ばかり紡いでいるようでもあった。
確かにここは、いつかに蓮と見に行ったプラネタリウムを彷彿とさせる宇宙空間のように見えた。
夜空も、宇宙も、もちろん好きだ。
蓮が夢を見るような表情で教えてくれる星の話が、とても好きだった。
だとしても、こんなところに来てしまうなんてことがあるだろうか?
第一、空気が無いのに、どうして俺は生身の状態でここに立っていられているのか。
ここはもしかして、死後の世界なのだろうか…?
それに、この子の正体もまだよく分からない。
雨も降っていないのに傘を持っているのは、どうしてか。
そして、最も思考が追い付かないのが、俺がこの子を「産んだ」ということ。
俺は男だし、生物学上それを実現させるのは無理だろう。
自分の力だけで今起きている全てを把握するには、まだまだ要点が足りていないと感じて、俺は目の前の「俺」にまた質問を投げ掛けた。
「俺が「産んだ」ってどういうこと?」
「言葉通りの意味ですよ?ほら、聞いたことあるでしょう?」
「ん?」
「“強い気持ちは、一つの命を産む”って」
どこかで聞いたことがあるような話だ。
テレビやネットで見聞きしたというほど遠いものではない。
むしろ、もっと近いところで、誰かがそう言っていたような…。
「あ、そうそう。ちょうどあの人によく似た人がそんなこと言ってたな」
その子は、目の上に手を付けて、青く光る大きな球体を眺めていた。
俺もその地球のように見える惑星に目をやると、視界だけがぐんぐんと、とてつもないスピードで駆け出して行った。まるで、宇宙からスタートした衛生写真の画面を高速でズームしたようだった。
次第にその速度は緩やかなものになっていって、小さな村の中に入るとピタッと動きが止んだ。
その場所を眺めていると、不意に小さな家から一人の男性が出てきた。
裾が少しだけ焦げたエプロンを付けて、パン生地をかまどに焚べていたのは俺がよく知る、あの舘様だった。
「えっ!?舘様!?あんなところで何してるの!?」
「あの人ですよ。そう言っていたのは」
確かに、舘様がいつだったかの収録の待ち時間で、そんな不思議な話を聞かせてくれたことは、なんとなく覚えていた。
舘様は時折そういったスピリチュアルな事を言ったりするので、俺はいつも興味深くその話を聞いていた。
夢の中に出てくるくらい、舘様のその説は俺の潜在意識の中に残っていたんだなと思うと、少し面白かった。
舘様は夜明け前の暗がりの中で、かまどの火加減を調節していた。
「舘様がそう言ってたのは思い出したけど、それと、今君が俺から産まれたこととどう繋がるの?」
「僕はマスターのその強い思いに導かれたんです」
「俺の?」
「ええ。「全てを洗い流す雨を降らせてほしい」って頼んだでしょう?そして、それは無事に果たされました。死を間近に感じた時、ヒトの気持ちというのはもの凄いエネルギーを放出するみたいですね」
「やっぱり、俺はもう死んでるんだね」
「はい。ただ、あなたがこの月に留まらざるを得ない要因というものが、あの世界のどこかに隠されています。本来であればあなたの肉体と、核とも呼べる魂は、あそこで消滅するはずだったんです」
「…つまり、俺は今幽霊になってる、ってこと…?」
「簡単に言えば、ですね。ただ、実際はもっと大きな存在です。ここはあなたが創り出した夢の世界。だから、あなたが願うことは全て叶います。雨を降らせることも、不変の事象に手を加えることも、なんでも。あなたはこの世界を司る存在になった、と言った方が適当でしょうね」
「ふむ…」
いよいよ分からなくなってきた。
ややこしいので、もう「俺」と呼ぶことにするが、「俺」の話を聞けば聞くほど頭がこんがらがっていった。
ある程度のところまで説明を聞いてから、俺は顎に手を置いて一人考え事に耽った。
俺の強い気持ちが「俺」を産んだ。舘様が提言した通りの法則に従って。
そして、俺は死んでいる。
しかし、何らかの原因があって、俺は成仏出来ないでいるらしい。
加えて、ここは俺の夢が創った世界だから、なんでも思いのままに願ったことを叶えられるらしい。
にわかには信じがたいが、全て夢なんだと思えば、不思議なことは不思議なままで飲み込めそうな気がしてきた。
ただ、まだ一つ引っかかっていることがあって、俺はもう一度「俺」に尋ねた。
「ねぇ、俺は雨を降らせて何がしたかったの?」
「俺」はきょとん、とした顔で頭を左に傾けていた。
「覚えてないんですか?…あぁ、まぁそうか。あの時、あなたの体も一緒に雨に打たれてましたからね。あなたの魂が、まだほんのりと体に残っていた時に降らせたから、忘れてしまってるんでしょうね」
「え?」
「ちょっと出かけてきます。あなたはここで待っていてください」
「え、ちょっと…っ」
「俺」はそう言うと、村の中に降り立っていった。
朝を待つ湖のほとりで一人、切り株に座っている黒い人影に「俺」が近寄っていく。
それは蓮だった。
蓮は、どこか寂しそうにぼーっと湖を眺めていた 。
「俺」は迷うことなく蓮に声を掛けていた。
俺はもう死んでいるのに、その姿で蓮の前に現れたら混乱させてしまうのではないかと焦ったが、蓮は意外な反応をした。
「こんばんは」
「……誰?」
「僕はこの世界を司る者の使者」
「そう。どうしたの?こんな夜明け前に」
「それは僕もぜひ君に聞きたいな。こんな時間に、こんなところで何をしているの?」
「…分からない」
「何が?」
「全部。何か、大切なものがあったような気がするんだけど、それがなんだったのか全く覚えてないんだ。ここにいたら、何か思い出せそうな気がして」
「そう」
「あんたは、なんか…懐かしい。あんたと居たら思い出せるのかな。ねぇ、俺と前に会ったことある?」
「さぁ、僕は今、君と初めて言葉を交わしたよ」
「そっか…そうだよね…」
「忘れたままで終わるのか、ふとした瞬間に思い出すのか、その全ては空が指し示してくれる。じゃあ、僕は帰るね。おつかいの途中なんだ」
「また会える?」
「君がそれを望むなら、きっと月はその気持ちを汲み取ってくれるよ」
蓮は俺を覚えていなかった。
しばらくすると、「俺」が隣に戻ってきた。
「俺 」は疲労感を湛えるようなため息をついてから、「こんな感じです」と言った。
「あなたが願った「全てを洗い流す雨」は、それに打たれた者の記憶に作用します。彼は今、あなたに関係するその思い出の全てを失っている状態です」
「なるほど…」
これについては、俺にもすぐに納得ができた。
蓮より先に死んでしまったとしたら、俺のことは忘れてほしいと思うから。
もうそばには居てあげられない俺に出来ることなんて、何もない。
それなら、蓮が悲しまなくていいように、寂しくならないように、俺というその全てを蓮の記憶の中から消し去ってあげたいと、そう思うだろうから。
俺としては、この状況はとてもありがたかった。
蓮にはずっと、幸せでいてほしい。
俺のことなんかで立ち止まったり、ましてや泣いたりなんてしてほしくなかった。
「ご覧の通り、ちゃんと忘れてくれてるみたいですよ」
「なら良かった。ありがとう」
「……本当にこれでいいんですか?」
「うん、いいの。きっと覚えていても、悲しませちゃうだけだから」
「………そうですか」
それからずっと、俺は月の表面に座って、村の様子を見ていた。
村には顔馴染みの連中ばかりが集まっていた。
朝を迎えると、焼き上がったパンをみんなに配りに行く舘様。
広場で遊ぶ康二とラウールの姿。たくさんの薪を割って担いで行く照。
いつまでも寝こけているふっかと佐久間。
みんなが過ごす場所と反対側の湖面で手を洗う翔太。
穏やかな暮らしがここにはあるのかと思っていたが、その空気は夜になると一変した。
草木も寝静まる夜中、一つの黒い影が村の中を蠢いていた。
それは毎晩のようにメンバーを襲っていった。
翌日になると、その犯人探しが始まり、疑われた者は次々に処刑されていった。
まるで、人狼ゲームの世界そのものだった。
これも、俺が創り出した世界なら、 なんて残酷なものを生み出してしまったのだろうと心が痛んだが、その悲しい毎日を俺はただ見ていることしかできなかった。
何度も止めようとした。
でも、俺の体はここから一歩たりとも動けなかった。
どうして俺はあそこに行けないのか、と「俺」に尋ねたことがあった。
「俺」はつまらなさそうな顔をしながら答えてくれた。
「あなたの肉体がここではない場所にあるからです」
それだけだった。
「俺」はそれ以上のことは教えてくれなかった。
そして、恐れていたことがついに起きてしまった。
あの日、あの夜、蓮と俺とを引き離したその獣は、すぐそこまで昇り始めている朝日の中で、独り泣いていた。
その姿にどうしようもなく心を掻き乱された。
大切な人を失う悲しみは、俺も痛いほどによく分かる。
もう二度と会えない。
その喪失感は、死ぬまでこの胸を焦がし続けていく。
どうにかしてあげたかった。
「俺」はその光景を空っぽの心で残念がるように、眺めていた。
「あーぁ…。よりによって、あの子の番で目が覚めちゃったかぁ…。これは皮肉と呼ぶべきか、それとも、愛と呼ぶべきか…。」
「…ねぇ、なんとかしてあげられない?」
「なんとか、というと?」
「なんでもいいの。こんな終わり方にならないように、どうにか佐久間を生き返らせるとか、出来ない?」
「壊れてしまったものは、元には戻せません。それはマスターも分かっているでしょう?マスターがどんなに願っても、あの場所に帰ることが出来ないのが、その何よりもの証拠です」
「…そうだよねぇ、、でも、こんなのって、辛すぎるよ…」
「なら、時間ごと元に戻してみますか?」
両手で顔を覆う俺に、「俺」はなんでも無いことのようにそう言った。
困惑したまま視線を上げると、「俺」はいつも通りに物憂げな顔をして佐久間と翔太を見下ろしていた。
「……時間ごと?」
「ええ。生きとし生けるものは全て、その命を全うすると土に還る。そして魂もあるべき次の場所へ旅立っていくんです。…まぁ、土に還ることが出来れば、の話ですがね」
「うん」
「その摂理は変えられません。生命そのものを操作することは、流石にマスターの力を持ってしても出来ないでしょう。でも、命に触れない場所になら、手を付けることができる」
「ほんとに…?」
「ええ。ただし、一つ確認です。彼らの時間を巻き戻すということは、すなわち、マスターの死が繰り返されることを意味します。それでもいいですか?」
「どういうこと…?」
「俺」は理解が追い付かないまま首を傾げながら、そう尋ねた。
そんな俺の様子を見て、「俺」は「いいですか?」と言ってから先を続けた。
「この世界の最初の犠牲者はあなたなんです。何者でもなかったあなたが、夢の中で命を落としたことによって、月の概念として生まれ変わった。そうでなければ、時を司ることなんてできないんです。あなたの死が、あなたに大いなる力を授ける。つまりは、あなたが死に続けることでしか、彼らを救う術はない。その上でもう一度聞きます。本当にいいんですか?」
「うん、それでもいい。あの二人が、お互いを傷付けない結末を迎えられるなら、俺はなんでもする」
大切な人と切り離されてしまうなんて、そんなのは俺だけでいい。
二人がただ幸せでいてくれたらそれでいい。
たとえその度に命を落とすことになったとしても、佐久間と翔太が悲しい別れ方をしないで済むのなら、俺は何度だって、喜んでこの体を捧げる。
そんな決意が固まると、「俺」はまた口を開いた。
「では何か、合図を決めておきましょうか」
「合図…?」
「いきなり時間が巻き戻ったら、今がいつなのか、僕が分からなくなってしまうでしょう?何か一言貰えれば、僕は勝手に判断しますから」
「うーーん…、じゃあ、「もう一回」とか?」
「僕はなんでもいいので、マスターがそれでいいならいいんじゃないですか?」
洒落っ気のある言葉が思いつかなくて、ありきたりなものになってしまったと、自信無くそう答えたが、「俺」からは全くもって興味の無さそうな反応が返ってきた。
「…いつも思うんだけど、君って素っ気ないよね」
「何か不都合がありますか?」
「いや無いけど、もっと笑ったらいいのにな、とは思うかな」
「助言は嬉しいですが、早くしないと、彼、自分から死にますよ。彼がこの世界のトリガーです。彼が死ぬと、この世界の形が崩れます」
「えっ、それはだめ!」
「じゃあ、僕は彼に説明してきますので」
「あっ、俺が巻き戻したって言わないで…」
「分かってますよ。あくまでも、彼が戻したいと願ったから。そうでしょう?」
「うん、お願い」
「あなたがそう言わなくとも、あなたの心の中にある望みは全て分かっています。あなたが気付いているものも、そうでないものも。その上で僕は行動しますので、悪しからず」
「ありがとう」
「俺」はそう言うと、また村へ降り立っていった。
翔太は、「俺」の姿をその視界に捉えると、「今までどこにいたんだ」と言いたげな顔になった。
翔太と「俺」の会話が終わると、「俺」はすぐに戻ってきた。
「彼の記憶は引き継いだままにしてあります。それと、まだ元の世界にいる彼のことも呼んでおきました」
「うん、分かった」
「俺」が話し終わったのを合図に、小さく「もう一回…」と呟くと、目の前が真っ白になった。
自覚する間もなく訪れた二度目の死に身を委ねて 閉じていた目を、もう一度うっすらと開けていくと、翔太が湖のそばにポツンと居て、手に付いた俺の血を洗っていた。
時間を巻き戻したあとの結果は、またしても悲しいものだった。
戸惑いながらみんなの輪の中にいた佐久間は、あっという間に首を刎ねられてしまった。
翔太は、自分が佐久間を殺さずに済んだという安堵からか、その様子を寂しそうな笑みを零しながら見ていた。
「…違う、だめ…、これじゃあ翔太が佐久間から目を背けたまま終わっちゃう…、っ、、もう一回…!」
二回目の佐久間は、時間が巻き戻っているのを分かっているようで、始終困惑していた。なんとかこの世界に順応していこうと攻略法を見つけて行こうとする、その懸命さは佐久間らしかった。
しかし、こんな辛い世界に身を置かせてしまっているのは俺のせいなんだと感じては、胸が締め付けられた。
せめて、佐久間がこの寂しい世界で独りぼっちだと感じることがないように、「俺」に「佐久間の手助けをしてあげて」と頼んだ。
その様子を月から見守っていたが、「俺」は佐久間を混乱させることばかり言った。それに、最近は夜な夜な村の方に足を運んでいると思っていたが、佐久間に言った「月のかけら」とはなんのことだろうか。
帰ってきた「俺」を捕まえて、その「月のかけら」とやらについて聞いてみることにした。
「これは、あの狼さんが落としたものです」
「翔太が?なんのために集めてるの?」
「彼と、満月の彼が元の世界に帰る時に必要になるんです。これも、あなたの望みに基づいたものです」
「俺、何か願ったっけ?」
俺の願いは、二つしかない。
一つは、佐久間と颯太が悲しい結末を迎えないこと。
もう一つは、蓮が俺を忘れ続けていてくれること。
これ以外に望むものなど無いと思うのだが、どういうことなのだろうか。
「俺」はまた勝手に俺の心を読んで、その疑問に答えた。
「僕はあなたの願いを叶える存在ですから、あなたの望みは手に取るように分かるんです。あなた自身が気付いていないものも全て。僕は、あなたがまだ気付いていないその心の内で願ったものを叶えるためにこのかけらを集めています」
「そのお願い事を、俺に教えてくれたりはする…?」
いつだってはっきりしない「俺」だが、今回は案外すんなりと教えてくれた。
「あの二人は、お互いがお互いから目を逸らしている。マスターはそんな彼らのことをもどかしく思っているようです。だから、どうにかして二人の視線を合わせたい、今以上に深く繋がらせたいと、そんな願いが見えます」
「あ、それはそうかも…」
確かに、現実世界の俺は、あの二人をどうにかしてくっつけたいと、そればかり思っていた。その気持ちが夢にまで出てくるとは、俺もなかなかに拗らせているな、と自嘲的な笑みが零れた。
「このかけらは、彼が誰かを傷付けるたびに落としたものです。彼はそのことを覚えていません。しかし、彼らが元の世界に帰る時、お互いを見つめ合った状態を持続させるには、どうしてもこれが必要なんです。だから僕が代わりに集めている、というわけです」
「俺」は淡々と俺が気付いていなかった願いについて説明してくれた後、億劫そうな深いため息を吐いた。
俺は、「なんか…ごめんね…面倒かけて…」と言うばかりだった。
結局、二度目のループでも佐久間は早々に処刑されてしまった。
もう少し佐久間をこの世界に慣れさせてあげたかったし、二人とも、依然お互いを見ようとはしないので、俺はもう一度時間を巻き戻すことにした。
「もう一回」
そう呟くと、また真っ白い光に包まれた。
目を覚ますと、俺の体は真夜中の森の中にあった。
木々が風に煽られて擦れ合う音の中で、あの日と同じように背後でパキッと小枝が折れた。
これで死ぬのも、もう三回目か。
そんなことを考えているうちに、強い衝撃が背中を駆け抜けて、俺の視界は真っ暗になった。
意識が忙しなく地上と月とを行き来する。
俺はまた、月の上からみんなのことを見ていた。
流石に慣れてきたのか、佐久間は繰り返し起こることの全てに先回りして行動するようになった。
必死に話を逸らし続けた佐久間は、何とか初日の会議で処刑されることを回避したようだった。
相変わらず、夜になると「俺」は村まで降りていって、翔太が落としたかけらを拾っていた。
これまで三度、時間を巻き戻してきたが、その度に「俺」は「あーあ。せっかく集めたのにな…。また振り出しかぁ…。」と聞こえるように嫌味を言った。
三度目の二日目の朝がやってきた。
夜明け前、佐久間は蓮と一緒に湖のほとりに立っていた。
二人は、「俺」を探しているようだった。
誰だって目の前に不思議な存在が現れたら、もう一度会ってその正体を知りたいと思うだろう。
なるたけ蓮に会ってほしくないと「俺」には伝えている。
何かの拍子に蓮が思い出してしまわないように、佐久間にしか会わないでほしいと頼んでいたのだ。
佐久間と蓮は、湖の前に落ちている一本の傘を見つけると、二人で同じ方向に首を傾げていた。
その傘に見覚えがあった。
今、俺の背後で一緒に村の様子を眺めている「俺」がいつも差していたものだ。
少し気になったので、あの傘について尋ねてみた。
「ねぇ、あれ忘れてきちゃったの?」
「いえ、落としたんです」
「ん?何が違うの?」
「忘れてきたわけじゃありません。「わざと」落としてきたんです」
「…どうして?」
「あなたがそう願ったからです」
「…え?」
俺は一度も傘を落としてきてほしいと頼んだ覚えはない。
なぜそんなことをしたのだろうか。
その真意を知りたがると、「俺」はまた俺の心を読んでから話し始めた。
「傘は雨を凌ぐもの。この世界の雨は全てを洗い流します。彼にその力が及ばないようにするために、僕が「敢えて」彼の手に渡るようにしたんです」
「…それって、もしかして、蓮の記憶が戻っちゃうってこと?」
「一度は雨に打たれていますから、その効果はまだ残っています。急に全てを思い出すことはありません。ただ、傘を手に入れたことで、この先、彼が雨を凌ぐかもしれない可能性を考慮すると、その効用に持続性は見込めないでしょうね。いつかは思い出すかもしれません」
「………勝手なこと、しないで……っ…!」
震えて止まらない声を絞り出して訴えても、「俺」は表情ひとつ変えずに平然としていた。
「怒ってるんですか?僕はあなたの望み通りに行動しているだけです。最初に言ったでしょう?「悪しからず」と。僕は、あなたが自覚している願いだけを叶えるためだけにここに存在しているわけではありません。あなたの目には見えていなくても、あなたの心はそれを望んでいます」
「思い出してほしくないの…っ」
「それは本当ですか?僕には「思い出して」と叫んでいるようにしか見えませんよ」
「そんなの…嘘だよ……」
「なら、そう言うことにしておきましょう。どうしてもそう思いたいのなら、僕はマスターの気持ちを受け入れます。どうしますか?彼の記憶が戻らないうちに、また時間を巻き戻しますか?」
「………いい。佐久間が全員の役職に気付くまでは巻き戻さない」
「そうですか。話しているうちに、もう三日目の夜ですよ。彼はとっくに死んで、どうやら霊魂となって彷徨っているみたいですね」
時の流れが地上とここでは違うのか、「俺」と話し込んでいた五分くらいのうちに、気付けば佐久間はまた処刑されていて、今は半透明な体で村の中を漂っていた。
気付くと、生き残っているのは翔太とふっかだけになっていた。
この夜でふっかが襲われて、終わりを迎えるだろう。
このあたりで戻しておくか、と思ったところで、また「俺」がいなくなった。
急いで姿を探すと、空中に浮かんでいる佐久間と話をしていた。
佐久間は「俺」の質問に「明日が一番大事」だと答えた。
「俺」は佐久間に「明日のかけらは、明日しか集められない」と言った。
そうだよ、佐久間。
明日を待ってても、その明日を順当に迎えられる保証なんて、どこにも無いんだよ。
ある日突然、大切な人と二度と会えなくなっちゃうかもしれないんだよ。
そうなる前に、佐久間には気付いてほしいの。
俺は、何も伝えられなかったから。
夢の中でも俺と一緒にいてくれる蓮と、もっとたくさん触れ合ってみたかった。
俺が「もっと遠くまで行ってみよう」と言ってしまったことで、全てが変わってしまった。
失ってしまったものは、もう元には戻せないんだよ。
翔太にも気付いてほしい。
向き合うことから逃げ続けたまま、佐久間を失っていいの?
俺はそんなの嫌だよ。
本当は、蓮に会いたくて仕方がない。
こんな月の上からじゃなくて、同じ場所で、同じ目線で、隣にいたい。
話がしたい。
その目に俺を映してほしい。
でも、それはもう、叶わない。
「……っ、…会いたい……っ」
佐久間と「俺」の会話を聞いているうちに、自分の感情がとてつもないスピードで込み上げて来ては、涙に変わって零れ落ちていたことに気が付いた。
雫からはみ出た気持ちは、声に乗って、言葉になった。
涙が銀色の砂を濡らしていくのを眺めながら、どうしようもない寂しさに身悶えていると、背後から呆れたような声が聞こえた。
「…はぁ、だから言ったじゃないですか。あなたの心はそれを望んでるって」
俺は苦しくなる息を整えてから、これが最後でありますようにと願いを込めて「もう一回」と呟いた。
獣になった翔太は、俺たちがいる場所を見上げて夜空にその咆哮を響かせていた。
四回目のループを迎えて、佐久間は相当疲弊しているように見えた。
いつものような溌剌とした元気さが感じられなくて、寂しくなった。
ごめんね、俺のせいなんだ。
でも、大切なことにちゃんと気付いてほしいから…。
佐久間への申し訳なささと言い訳がましい理屈を頭の中にいくつも並べ立ては、それをため息に乗せて吐き出した。
佐久間は、「俺」と蓮を会わせたがっていた。
こんな時くらい、自分のことだけ考えていればいいのに、相変わらず佐久間は優しすぎた。
今は、初日の会議を終えて、佐久間、康二、ラウールの三人が蓮の家に向かっているようだった。
家の中までは見えないので、みんなが何をしているかは分からなかったが、蓮の家の屋根を眺めていると、不思議な感覚に陥った。
なんだか懐かしいような、寂しいような、そんな心地だった。
夢の中で、俺はあの家に行ったことがあるのかもしれないと思った。
どんなことをして蓮と時間を分け合っていたのかな、なんて想像すると途端に心細くなった。
寂しさに身を委ねてぼーっとしている間に、村の中からは人がだいぶ減っていた。
残っているのは、佐久間と翔太と、舘様と蓮だけだった。
今晩も佐久間は蓮の家に泊まるようだった。
無理もない。
毎日誰かが消えていく悲しみを一人で抱える続けるなんて、とても耐え難いことだろうから。
激しい雷雨が収まって、立ち込めていた分厚い雲が晴れると「俺」は急に立ち上がった。
「ちょっと出かけてきます」
「そう、気をつけてね」
「ええ。あ、そうだ。マスター」
「ん?」
「きっと、全てはうまくいきますよ」
「俺」が何を伝えたかったのか、それはよく分からなかった。
村に降り立った「俺」は何をするかと思えば、蓮に接触した。
「ちょっと!何してんの!?」
ここからそう叫んでも、「俺」は反応しなかった。
…いや、あれは、確実に聞こえてる。あいつ…俺を無視してるな…。
何をするつもりなんだと、内心ヒヤヒヤしながらその様子を瞬きもせずに注視していると、不意に蓮たちの横を蠢く影が現れた。
翔太だと俺が気付くのと同時に、蓮は腰に提げていた剣を鞘から抜いて、「俺」の前に立った。
「今度こそ、俺が守るから」
そう言った蓮の声に、俺はどうしてか、たまらなく泣きたくなった。
蓮は暗闇の中で、ずっと翔太と戦っていた。
もう「俺」の姿はどこにも無いというのに。
どうしてやめないの。
何を思ってるの。
蓮は何を守ってるの。
もう、やめて…。
これ以上傷付いたら、蓮が壊れちゃう…っ…。
止めなきゃ。
でも、俺はここから動けない。
どうしたらいいの…っ……。
翔太が左の前脚に付けられた大きな傷を庇いながら森の中へ入っていくと、蓮は脇腹を抑えながら、あの切り株に寄りかかって座り込んだ。
蓮の命が終わっていくのを、ここで見ていることしかできないのかと絶望していると、いつの間にか戻ってきていた「俺」が隣に座って言った。
「ここは、あなたの願いが全て叶う世界ですよ」
「でも…っ、俺はここから出られないんじゃ…」
「生き返ることは無理でしょう。でも、命に触れない場所になら…?」
「…手を付けることが、できる…」
「御名答。体がここに無い以上、剥き出しの魂だけで彼の前に現れるとなると、きっとその姿は朧げでしょうが、あなたの強い意志さえあれば、声くらいは届くでしょう」
「うん、それでもいい。見えてなくても、今だけは蓮のそばにいたい」
「僕は止めないので、どうぞお好きに」
「ふふ、相変わらず素っ気ないね。でもありがとう」
「いえ、礼には及びません。僕はあなたのために生きているだけですから」
「うん、いってきます」
死んでから一度も足を踏み入れたことのなかった村へ、初めて降り立った。
荒い息を吐いて、静かに終わりを待っている蓮のそばに座って、蓮の手に自分のそれを重ねた。
蓮は何も気付かなかった。
俺はもうここにいないんだと、蓮には見えないんだと思うと、それだけで寂しくて、苦しくて泣きそうだった。
でも、それでもいい。
蓮の命が終わってしまうまで、そばにいてあげたかった。
蓮には聞こえていないかもしれなかったが、 俺は一つずつ自分の中にある気持ちを言葉にしていった。
「ねぇ、蓮。俺のこと、きっと見えてないよね」
「俺ね、別の世界でも、こうやって蓮と二人で、たくさんの時間を過ごしてたんだ」
「この世界の蓮とも、いろんなこと、話してみたかったな…」
「もうこのまま終わっちゃうのかな、俺、ずっとそばにいるからね」
「月が綺麗だね…、最期は蓮の腕の中で終わりたかったな…っ、」
届かない声が喉を震わせていく。
蓮はずっと、銀色に輝く月を見ていたが、何かの拍子に突然、俺がいる方へ顔を向けた。
君と見る星が好きだった。
月夜に照らされる君の横顔が好きだった。
言葉なんて要らなかった。
気付けば、君に惹かれていた。
それはきっと、君も同じだった。
満天の星の下、俺の手を握り返してくれた君のその温度を、俺はずっと忘れない。
そう思っていたはずだった。
でも、ある日突然、君は俺の前から姿を消した。
雨が降る静かな夜、 この世界のどこからも君が感じ取れなくなった。
寂しくて仕方がないのに、時間が経つごとに俺は、自分が何に寂しさを感じているのか分からなくなっていった。
気付けば俺は、湖のほとりにある切り株の上に座っていて、 身に纏った服に水が染み込んでいくたびに、俺の中にある大切なものがゆっくりと抜け落ちていくような感覚を覚えていた。
さっきまで誰かと一緒に過ごしていたはずなのに、それが誰だったのか思い出せない。
温かい体温がすぐ近くにあったはずなのに、その温度が、君の顔が、思い出せない。
君は、誰だったの?
君の名前が、思い出せない。
どれくらいそうしていただろうか。
体が冷たくなって凍えかけていても、ここから動けそうになかった。
ここにいれば、「大切だった何か」を思い出せそうな気がしていた。
頭の中に、何かひとつでも記憶のかけらが浮かんでくれたらと思うたび、自然と足は止まってしまう。
「こんばんは」
「…?」
背後に見知らぬ人が立っていた。
見かけない顔だが、新しくこの村に移り住んできた人だろうか。
俺も、つい一年前からこの村で暮らすようになった。
戦うことに疲れ、逃げるようにして人里離れたこの場所に身を置いた。
一つの戦場で自分の役目を果たせば、また次の場所へと移ろいで行く。
終わりの見えない戦いに、意味を見出せなくなってしまっていた。
自分たちの正義を掲げて戦っていたはずだった。
しかしある時、失われていく命の先に、その命を必要としている者がいると気付いてしまった時、剣を握れなくなった。
共に戦場に立ってきた仲間を裏切ることになったとしても、俺はもう二度と戦えそうになかった。
後ろめたさと、やるせなさに身を焼かれながら、宛てもなく終の住処を探していた時、この村に辿り着いた。
誰もが日々助け合い、お互いを思い合いながら生きていた。
気の良い彼らは、突然やって来た俺を当たり前のように迎え入れてくれた。
心の中で絡まり合っていた糸が、少しだけ解けていくような気がした。
そんな時、俺は君と出会った。
柔らかくて、朗らかで、優しい人だったような気がする。
君を好きになるのに、そう時間はかからなかった。
あれはいつだったか。
満天の星の下、湖のほとりで肩を寄せ合い、俺が攫った君の手が、俺の手を握り返してくれた夜、俺はもう一度この世で生きる意味を見つけた。
守りたいと思った。
君と過ごす時間を、君と分け合う温もりを、君のことを。
そう思ったことだけを、微かに覚えている。
「ねぇ、大丈夫?」
不意に声を掛けられて、意識が記憶の海から引き戻される。
その人は、物憂げな目で俺の顔を覗き込んでいた。
「ぁ、ごめん。大丈夫」
「なら良かった。それより、こんな真夜中に出歩いてたら危ないよ?」
「どうしても動けそうにないんだ」
「どうして?」
「なにか、とても大事なものを無くしてしまった気がするんだ。でも、それがなんだったのか、どうしても分からないんだ。ここにいれば、なにか思い出せそうな気がして」
「そっか」
「あんた、見ない顔だね。新しくこの村に越してきたの?」
「僕は、この地に生を持たぬ者。時を司る月の使者」
「?どういう意味?」
「全ては空が指し示してくれるよ。じゃあまたね」
「え、あ、待って…!」
彼が身を翻したその瞬間、強い風が吹いた。
目を閉じてやり過ごした後、その姿はもうどこにも見えなかった。
傘を差した謎の青年。
不思議な人だった。
でも、どこか懐かしい。
そんな感覚がするだけで、悲しいほど記憶の扉は開く兆しを見せなかったが、それでも俺は、彼に特別なものを感じずにはいられなかった。
彼の中に、「大切な何か」を取り戻すための手掛りがあるような気がした。
「妖精…か…?」
数々の戦場に赴いてきたが、こんな体験をしたのは初めてだった。
もう一度、会いたい。
そう思いながら、家路についた。
朝日が昇り始めている明るさの中で、ふと両手が酷く汚れていることに気が付いた。
ご近所さんの岩本くんの家の近くにある井戸で水を汲んで、こびりついた赤茶色をすすいでから家に入った。
次の日も湖に行ってみたが、そこにいたのは佐久間くんだけだった。
佐久間くんは俺に「傘の妖精なら、もう行っちゃったよ」と言った。
俺以外にもあの妖精に会ったことがある人がいたんだと驚いた。
今日の夜にもう一度ここに来てみようと言った俺を、佐久間は落ち着いた声で「夜は、危ないから」と嗜めた。
その静けさに、俺はどうしてか何も言えなかった。
なんだか、佐久間くんが、ものすごく悲しんでいるように見えた。
今日も、昼から会議をすると岩本くんは言っていた。
それまでは寝ようと決めて、佐久間くんと別れてから家に戻り、ベッドに寝転がった。
会議の内容は、近頃村に出没しているという人狼のことについてだった。
それなら、軍にいた頃に噂程度ではあるが、聞いたことがある。
俺は知っていることを話していった。
佐久間くんは俺の話を聞くと、みんなで固まって夜を過ごそうと提案した。
結果的に、今日の夜は佐久間くんと康二とラウールが俺の家に泊まることになった。
やかましいメンツばかりが揃ったなと、他人事のような気持ちで、俺の家で自由に過ごす彼らを眺めていた。
佐久間くんは急に立ち上がって、家の中を探検したいと言い出した。
特段見られて困るものも無いので了承したが、そのあとすぐに、俺は何故かとてつもない不安に襲われて、無意識に佐久間くんの後を追っていた。
佐久間くんが片っ端からドアを開けていく。
三つ目のそれが僅かに開かれた瞬間、俺は咄嗟にその板を手の平で強く押し返した。
どうしてそうしたのかは、自分でもよく分からなかった。
ただ、この先に入ってほしくないという思いだけが俺の体を動かしていた。
それから二日経って、岩本くんとラウールが人狼に殺されて、ふっかさんと康二が処刑された。
康二のことは、俺がこの手で終わらせた。
それでも村の中に明るい空気は戻らなかった。
佐久間くんは康二が死んだ後、また俺の家にやって来て、何もない一点をじっと見つめながらパンを口に詰め込み続けていた。
咀嚼の合間に聞こえてくる嗚咽は苦しそうで、痛そうで、俺の心まで千切れてしまいそうだった。
その夜、俺は佐久間くんが眠ったのを確かめてから、家を抜け出した。
もうこれ以上、誰も悲しまなくていいように俺が倒さなければ、そんな思いでひっそりと静まり返った村の中を歩いていった。
この剣を腰に携えるのは、いつぶりだろうか。
戦うことをやめてしまっても、もう顔すら思い出せない大切な人を失ってしまっても、これは捨てられなかった。
また使う日が来るとは思っていなかったが、長年連れ添ってきたこいつを毎日手入れしておいてよかったとも思う。
先程まで降っていた強い雨はやっと落ち着いて、空に立ち込めていた雲が晴れていく。
湖のそばまで来ると、その湖面に月が反射していた。
「ぁ…」
久しぶりに月を見た。
最近は雨続きで、月はおろか星さえ出ていなかったし、夜は外に出ないようにしようとみんなで決めていたから。
大きく綺麗な円形をしたそれに目を奪われる。
その光は、翳っていた俺の朧げな記憶を照らしていった。
「ねぇ、蓮」
「ん?」
「俺がもし先に死んじゃったら、蓮はどうする?」
質問好きな君だった。
「そんなの耐えられない。俺はいつまでもそばにいたい」
「ふふ。でも、この世界のどこにもいなくなっちゃうんだよ?そうなったら、蓮はどんなことをする?」
「なら、いなくなっちゃう前にその体をずっと隠しておく。誰にも見つからない場所に。どこにも連れて行かれないように」
「体はただの入れ物だよ?そこに俺はいないよ?それに、いつまでも形は留めておけない。それでもいいの?」
「いい。体だけでも俺のそばにあるなら、きっといつまでも忘れないから」
「忘れられないのは、辛くない?」
「辛くても、忘れたくない。俺の中から消えちゃうことの方が辛い」
「そっか。でも、それでも俺は、そうなったら忘れてほしいって思うだろうな」
「どうして…?」
「……蓮?俺が先に死んだら、俺はきっと月になって、そこからずっと、蓮を見守ってるからね」
いつでも悲しいことを聞く君だった。
あの日も、君は星を見上げながら、そんな寂しくなってしまうようなことを俺に聞いたあと、「もっと遠くまで行ってみよう」と言って夜の森の中を一人駆けていった。
はしゃぐ君の背中が小さくなっていく。
子供みたいに走る君がとても愛らしくて、俺はその後ろ姿を何物にも変え難いほどに尊いものだと感じるような気持ちで、ずっと眺めていた。
でも、それがいけなかった。
あの時、俺は君を追いかけて、その手を取らなければいけなかったんだ。
目を離した瞬きの間に、俺は君の全てを失ってしまった。
はぐれてしまった君をようやく見つけた時にはもう、君は冷たくなっていた。
苦しくて、悲しくて、辛くて、離れたくなくて。
俺はいつまでもその体を抱き締めていた。
その後のことはよく覚えていない。
気付けば、俺は切り株の上に座って、湖をぼーっと眺めていた。
月の光が、優しく降り注ぐ。
いつか、君が言っていた。
月になって、俺を見守ってくれると。
その光が、俺の大切な記憶を蘇らせてくれた。
君の笑った顔、星を反射して輝く瞳、温かい手の平。
全部、思い出した。
そうだ、君だ。
君だったんだ。
月を眺めていると、 「また会ったね」と俺に声をかける人がいた。
振り返ると、ずっと探していた傘を持った妖精がそこに立っていた。
もう一度会えた傘の妖精と何を話すわけでもなくただ見つめ合っていると、視界の端に素早く動く黒い影が映った。
俺は咄嗟に剣に手を添えて、妖精の前に立った。
今、俺の後ろにいるこの子は、きっと俺の大切な君じゃない。
それでも、その姿が、その声が、その面影が、俺の記憶と重なる。
あの時、君を守れなかった俺を、どうか許してほしい。
償いたいわけじゃない。
でも、今、君によく似たこの子を守ることが、俺にできる最後の清算なんだって、そんな気がするんだ。
利己的かもしれない。
自己満足かもしれない。
それでも、今は、今だけは。
君によく似たあんたを、俺に守らせて。
あの日の後悔を、どうかここで昇華させてほしい。
俺はその不思議な妖精を背中に隠して、こちらに狙いを定めている獣と対峙した。
ねぇ、俺の愛しい人。
今もどこかで俺を見守っていてくれているのなら、どうか微笑んで。
君がそばにいてくれると、俺はなんだってできるような気がしてくるんだ。
でも、今回ばっかりはちょっと自信が無いんだ。
だからこそ、君にいてほしい。
そこで見ててくれる?
俺も「役目」が終わったら、すぐそっちに行くからね。
月を背にして、俺は人狼に向かって剣を構えた。
君も、この子も、全部、全部。
「今度こそ、俺が守るから」
俺の言葉、月まで届いてたらいいな。
どれくらい長い間、人狼と戦っていただろうか。
もう、指一本すら動かせそうになかった。
なけなしの意地で入れた一筋の傷に怯んだのか、人狼は闇に紛れて森の中へ逃げていった。
切り株にもたれて、荒れる息が途切れる瞬間を待っていると、風に乗って懐かしい声が聞こえてきた。
「月がとっても綺麗だね…、最期は蓮の腕の中で終わりたかったな…っ、」
俺の大好きな声だ。
いるはずの無い君の声が聞こえるなんて、いよいよ終わりが近付いて来ているのかもしれない。
最期に君のそのお願いを叶えてあげたい。
霞む目で月を見ていたら、また思い出したんだ。
苦しくて、悲しくて、辛くて、離れたくなくて、いつまでも抱き締めていたその体が、今どこにあるのかを。
誰にも奪われたくなかった。
誰にも見つからない場所に、俺が隠したんだ。
俺は剣を杖代わりにして、ゆっくりと自分の家に続いている道を踏み締めていった。
無意識だったが、誰も入らせなかったその二階へ続く階段を一つずつ登っていく。
あの日、動かなくなってしまったその体は、綺麗に清められてベッドの上で静かに眠っていた。
君をここに閉じ込めたあと、君と見ていた星と月が恋しくなって湖に戻ると、途端に雨が降った。
俺はその瞬間に、君のことを何もかも忘れてしまっていた。
君らしいと言えば、そうなのかもしれないね。
あれは、忘れてほしい、そう言ってた君の魔法なんでしょ?
雨なんて嫌いなはずだった。
でも、それが君の俺への想いなんだとしたら、俺は、君が降らせる優しい雨だけは好きだ。
君が願った「最期」を今からちゃんと叶えるから。
後のことは、全て佐久間くんに託そう。
きっと佐久間くんなら、人狼の正体を暴いてくれる。
ふらつく体をどうにか立たせて、遠のきそうになる意識を必死に留める。
君の体を抱いて、湖の中に体を浸した。
ここには君との思い出と、これまで一緒に過ごしてきた時間がたくさん詰まってる。
だから、ここで終わりたかった。
力を抜くと、君と一緒に俺の体はゆっくりと水の底に沈んでいった。
息が続くまで、君の頬をずっと撫でていた。
月の光に照らされたその顔は、とても綺麗だった。
すぐそばにいてくれていたのに、今までずっと、抱き締めてあげられなくて、ごめんね。
大好きだったよ。
君に口付けて、残っていた息を全て吐き出した。
君を今、やっと全部思い出せた。
君の名前は、亮平。
蓮が湖の底に沈んだ後、佐久間と翔太が俺たちの体を埋めてくれた。
その一部始終を見ていた「俺」はふぅと一息ついてから俺に向き直った。
「マスター、これであなたの肉体は土に還り、魂も次の場所へ旅立つことができるようになりました。これからどうしますか?」
どう、と聞かれても、俺はこの先にどんな展開が待っているのかが分からなかったので、返答に困った。
「どうって…。でも、佐久間と翔太のこと、最後まで見届けてあげないと…」
「なら、畳み掛けましょうか。折角ですから、マスター自身が彼らに接触してみてはいかがですか?」
「えっ、俺が?俺じゃ、佐久間たちの目には見えないんじゃない…?」
「それは、体の在処が分からなかった時点までの話です。今ならその姿はもう安定しているでしょう」
「そうなの…?分からないけど、佐久間と翔太の目にも見えるなら、行ってこようかな…」
「ええ、ぜひそうしてください。生憎僕は、まどろっこしい言い方しか出来ません。このまま僕が出続けるとなると、確実に時間が足りなくなります」
「自覚あったんだ…。ていうか、時間が足りないって、どういうこと?」
「肉体が埋葬された今、あなたがここに留まっていられる理由が無いんです。残された時間は、マスターの体が土に還り切るまでの精々一日分くらいでしょう。と言っても、マスターの体は実際のところ、死後五日が経過して腐敗が進んでいましたし、もっと少ないかもしれません」
「そんなあからさまに言わないでよ…」
相変わらずの事務的な説明に苦笑いを浮かべつつも、「俺」が言っていることは本当のことなんだろうと思うので、俺は素直にその助言に従うことにした。
何を話したらいいのか、よく分からなかったが、とりあえず自分がずっと聞きたかったことを、佐久間と翔太に一つずつ尋ねることにした。
それで二人の気持ちに何か少しでも変化があればいいな、なんて思いながら、なるべく「俺」に見えるように振る舞ったが、うまく誤魔化せただろうか。
月に帰ってきてしばらく村の様子を見ていると、やはり翔太は人間の自我を失った状態で佐久間に襲いかかった。
ただ、今回は見届けることにしようと思った。
何度も時間を遡った二人なら、もうきっと分かっているはずだから。
お互いにとって、何が一番大切なのかを。
朝日が昇るのを待つことなく、佐久間は動かなくなった。
でも、まだ終わっていない。佐久間の体も、魂も、まだここにある。
「…彼の動きが止まりましたね。」
「うん。ねぇ、二人をここに呼べる?」
「ええ、出来ますよ。少しお待ちください」
「ありがとう」
「俺」に頼んで、二人を月の上まで連れて来てもらうことにした。
うまくいくかは分からなかったが、ここは俺の夢の中の世界で、なんでも願い事が叶うんだと信じて、俺は必死に念じた。
佐久間と翔太が、元の世界に帰れる道を作ってほしい。
すると、月からどこかに向かって続く、とても長い道が作られていった。
それはキラキラと光っていて眩しく、かなり遠くの方まで続いているその果てには、ゲートのようなものがあった。
「すご。夢すごいな。なんでもできんじゃん」
思ったままの感想を述べると、「俺」は「こんな終盤になった段階でやっと信じてくれたんですか?」と心なしか悲しそうな声を上げていた。
「俺」が連れて来てくれた二人は、まだ眠っていた。
その姿は実物のものなのか、俺のように意識だけがここにあるような状態なのか、それは定かではなかったが、きっとこれが、佐久間と翔太と話ができる最後のチャンスになるだろうと思った。
それぞれを別の場所で寝かせておいたが、朝日を受けて人間に戻りかけていた翔太の体は、また狼の姿に変わってしまっていた。
「翔太はどうしてこの姿なの?」
「彼は月の力を受けて変身していましたからね。地上でその光を浴びていた時の何倍も、今はその影響を強く受けています」
「じゃあ、翔太が起きたとしても、話せないってこと?」
「いえ、そうなると色々不都合があるかと思いましたので、彼の獣の方の核を、ここに連れてくるまでに取り除いておきました」
「え、すごい。そんなことできるの?」
「ほとんどはマスターのおかげですよ?彼と話したいと願ったでしょう?」
「うん、、でも、それだけだよ?」
「その願いを実現させるための力をあなたは僕にくれた、というわけです。望み念じて、その力を僕に分け与えてくれるのはマスターです。僕は手元に集まった材料を繋ぎ合わせているだけです。あなたが願わなければ、僕は何も出来ません。そして、あなたと僕の距離が近ければ近いほど、僕はより強固な力を使うことが出来るんです」
「そうだったんだ…。なんか、わがままばっかり言っちゃってごめんね」
「いえ、あなたのために生きるのは、今に始まったことじゃありませんから」
「…?ふふ、ありがとう」
「俺」と話し込んでいるうちに、佐久間も翔太も目を覚ましたようだった。
俺は佐久間に声を掛けた。「俺」は翔太に会いに行ってくれたのか、次の瞬間には忽然と姿を消していた。
佐久間には、たくさん辛い思いをさせてしまった。
そのことを謝ると、佐久間は「どうして阿部ちゃんが謝るの?」と首を傾げていた。
何度も同じ時間を繰り返したことで、佐久間は大切なことに気付いてくれたようだった。今の佐久間なら、きっと元の世界に戻っても、きっと翔太と向き合っていけるだろう。
佐久間へ帰り道を伝えた後、今度は翔太の元へ向かった。
今の翔太は喋ることができない気がするが、意思の疎通はどうやって行えばいいんだろうと、少し不安になった。
が、しかし、それはすぐに杞憂に終わった。
先程から、頭の中に「嫌だ。絶対に嫌だ。」と訴え続ける翔太の声が聞こえ続けている。
やれやれ…といった気持ちでため息を吐きながら、地面に座り込む翔太のふさふさの背中に向かって声をかけた。
「ったくもう…ほんとに手がかかるんだから」
「俺」と交代して、翔太と話をした。
翔太は「佐久間を迎えに行く」という心は決まっているようだったが、「狼の姿で佐久間の前に出たくない」と、いつまでも意地を張っていた。
なんとか説得すると、翔太はたくさんの時間を使って一人熟考した後、「わふっ!」と一声鳴いた。
翔太を佐久間のところへ連れて行くと、佐久間は嬉しそうに狼の姿を保ったままの翔太に近寄って行った。
全身を撫でて、顔を両手で包み込んで頬擦りしている。
翔太は嬉しそうに尻尾を振っていた。
佐久間には、その正体が翔太であると敢えて伝えなかったが、それは間違いだっただろうか…。
翔太は今にも沸騰しそうな声を心の中で上げ続けていた。
翔太のプライドのために、何を叫んでいるのかについては俺だけの秘密にしておこうと思う。
「これ、翔太が人間の姿だった場合、なかなかのことしてないか…?」なんて冷静な思考でその様子を見ていたが、ふと自分の足の感覚が無くなり始めていることに気が付いた。
まずい、消えかけてる。
すぐにそれが分かった。
俺は、焦っているのを悟られないように注意しながら、二人に「もうそろそろ帰りな」と促した。
ここで俺が消えてしまっては、きっと不安にさせてしまうだろうから。
二人を見送って、その姿が目で見えないほどに小さくなった頃、今の今まで振っていた自分の手が透け始めた。
これで俺もやっと終われる、そうしみじみと感じ入っていると、「俺」は突然「まだ終わってないですよ」と言った。
「え?まだ何かやることがあるの?」
「ええ、あなたを送り届けないと」
「どこに?」
「あなたが眠る場所に」
行き先に心当たりがないまま「俺」の後を付いて行くと、その体は村の中の墓地で止まった。
その一番大きな山の中に、俺の意識はこれから入っていく。そして、現実の世界に戻るのであろうことを直感で感じ取った。
「ここでお別れってこと?」
「ええ」
「そっか。今までのこと、本当にありがとう。また会える?」
「これが、僕の最後の仕事ですね」
「…?」
「俺」が指を鳴らすと、優しい雨が俺の透けた肩を濡らした。
「えっ、どうして…」
「これはマスターが願ったことではありません。僕の意思です」
「なんで…!」
「僕は、あなたの影。あなたは、僕を知らなくていい」
「やだよ、せっかく友達になれたのに」
「これは僕の最初で最後の我儘です。どうか、汲み取ってくれませんか?」
「でも…っ、やだ…忘れたくない…」
「夢は夢、ですよ。あなたがまた僕を必要とする日が来たら、その時は、月があなたの願いを叶えてくれるかもしれませんね」
「…ぁ、、まって…」
「さよなら。阿部、亮平さん」
薄れていく意識の中で、最後に見た「俺」は傘を差しながら寂しそうに微笑んでいた。
初めて笑った顔を見た、と思った時にはもう、自分が今まで何をしていたのか、何も思い出せなかった。
怖い夢を見た。
亮平が、突然どこかへ消えてしまう。
そんな夢だった。
収録が終わって、亮平との電話が終わった後、帰りの車に揺られているうちにいつの間にか眠ってしまっていたようだ。
俺は急に不安になって、マネージャーに自宅とは違う所へ行ってほしいと伝えた。
車を降りて、目的の場所まで急ぎ足で歩いていく。
ずっと前から定期的に使わせてもらっている合鍵で中に入り、暗闇の中でも、どこにあるかしっかりと覚えている寝室まで、一直線に向かった。
静かにその部屋のドアを開けて、ベッドに近寄る。
その上には、ここに辿り着くまで俺の心を掻き乱し続けていた愛しい人が、穏やかな顔をして眠っていた。
何か夢を見ているのか、その瞼は時折ピクピクと動いていた。
俺はほっと胸を撫で下ろしてから、彼が眠るその中に潜り込んだ。
どこにも連れて行かれないように、もう二度と離さないように、その体を強く抱き締めて目を閉じた。
「おやすみ、亮平」
不思議な夢を見た。
何度も時間を巻き戻しては、俺はみんなの様子を上から眺めている。
そんな、なんとも言えない後味を残す夢だった。
夢の中で、他に何をしていたのか、それは全く思い出せなかった。
でも、どうしてか、いつまでもそのことが頭から離れなかった。
朝を喜ぶ鳥の囀りで目を覚ますと、いつの間に来ていたのか、蓮が俺の隣で寝ていた。
ぎゅっと抱え込まれた腕が、いつまでも解けそうになくて少し苦しかったけれど、俺は同時に言い表し難いほどの幸せも感じていた。
蓮の腕に、ずっと抱かれたかったような気がする。
いつでも蓮はそうしてくれるから、そんなことを思うのは少し不思議な感じがした。
あどけない寝顔が愛おしくて、何度もその頬を撫でていると、不意に蓮の目が開いた。
「おはよう、蓮」
そう伝えると、蓮はより強く俺を抱き締めた。
「ふふ、苦しいよ。どうしたの?」
「亮平が、いなくなっちゃう夢、見た」
「俺はどこにも行かないよ。ずっと蓮のそばにいる」
「…うん…ずっと、いつまでも、離れないで…」
あれから三日が経過したが、蓮は未だにその夢を引き摺っているのか、毎日隙あらば俺にくっ付き続けていた。嬉しくはあるのだが、ここまで来ると少し心配になってくる。
俺も俺で、あの日見た夢がまだ頭の中で引っかかっていた。
こういう不思議な話は舘様に聞いてみるのが一番だと思い、俺はYoutube撮影直前のみんなが集まっている広間の中でそのことを話した。
舘様は感心したような声を上げて「それはすごいね」と言うだけだった。
「やっぱり舘様でも分からないことはあるか」と、この謎を追いかけ続けていた思考に区切りを付けた。
撮影も無事に終わって、次に撮る企画の内容を決めていると、佐久間がまた俺を逮捕しに近付いてきた。
背中に蓮が張り付いている状態で、佐久間も俺の首に巻き付いてくるので、もうしっちゃかめっちゃかだった。
体に二人分の重さを感じた瞬間、蓮が大きな声を上げた。
「ちょっと佐久間くん!俺だけの阿部ちゃんなの!くっつかないで!」
俺は内心とても驚いた。
束縛も、嫉妬も、依存もしない蓮がそんなことを言うなんて、と。
今はそういう時期なのかな、と結論づけて、俺はまた会議に集中し直した。
次の企画が「阿部ちゃん先生」に決まると、会議は終了した。
倒れてしまわないようになんとか踏ん張りながら、蓮を引き摺って広間を出ていくと、後ろから誰かに呼び止められた。
声をかけてくれたのは舘様だった。
「舘様、どうしたの?」
「さっきはみんなの前だったから言えなかったんだけど」
「うん」
「…夢見はあながち馬鹿にできない。一つの夢が、その後の運命を大きく変えてしまうこともある。気を付けて」
「…へ?夢って、さっき俺が言ったあの話の?」
「……いや、どちらかと言うと、気を付けるべきは目黒の方か。しばらくの間、目黒のそばにいる時間を増やしてあげて。阿部の方に乱れは無いから安心していいよ。覚えていなくても、心にずっと残っているのなら、その夢はきっと、阿部の中で大切なものだったんだと思うよ」
「…そっか…わかった…」
「なにか困ったことがあったら、いつでも連絡して」
「ありがとう」
「阿部はいい友達を持ったね」
「…!うん!舘様に会えてよかった。ありがとう!じゃあまたね!」
「…またね」
もう一度蓮を引き摺って歩いていく俺の切れる息の隙間で、背後から「俺のことじゃないんだけどね…」と舘様が小さく呟く声が聞こえたような気がした。
蓮と自分の体重に押し潰されそうで、流石に疲れ果てた俺は事務所のエントランスを出る前に蓮に声を掛けた。
「蓮?れーん?」
「……なぁに」
「もう外出ちゃうよ。自分で歩いて?」
「やだ…離れたくない…」
「離れないから安心して?」
「…でも、、亮平が遠い…」
「じゃあ、手繋ごう?それならどこにも行けないし、触れ合えるでしょ?」
「……………………うん……」
ようやく腕を解いてくれた蓮と、手を繋いで家に帰った。
蓮が何にそこまで不安を感じ続けているのかは分からずじまいだった。
家の中に入ると、蓮はまた俺を抱き締めて離さなかった。
ご飯を作っている時も、それを食べている時も、お風呂に入っている時も。
今日を終えた俺たちが眠るまで。
ずっと、ずっと………。
Fin
コメント
5件
全ての答え合わせのようなお話で面白かったです!!✨✨ やっぱりどんな世界になっても🖤💚なんだなあとほっこり☺️ いつも素敵な小説をありがとうございますー!!これからも応援してます😊
🖤がコアラになっちゃったのはこういう理由だったんですね🤭 それぞれの視点がしっかり繋がってて、読み応えがあって素晴らしかったです。私がやったら絶対散らかるのですごいなと思いました! 200人おめでとうございます。三文小説さんのお話本当に素敵なので、もっとたくさんの人に見つかってほしい😍